信心獲得、信心決定の証明について・・
これを聞かれると、内証であるがゆえに、当然に第三者から見て判断、立証することが当然に難しく、現生においては、獲信者・善知識から印可してもらうことぐらいでしか証明ができないということではないだろうかとは思います。
では、何も分かり得ないのかと言うと、そうでもなく、信心獲得、信心決定に起因する事態を基に推測できることが少しはあるかと存じます。
正定聚の位(阿毘跋致・不退転の位)、菩薩の初地・歓喜地、補処・弥勒菩薩と同位などの事態ということであります。
そうなると少なくとも、どれぐらいの菩薩としての境地にあるのかが分かるものとなります。
ただ、これらの位を得るということの元々の論拠となる「十住毘婆沙論」は、龍樹の真作として疑わしいということと共に、サンスクリット・チベット語原典が未だに発見されておらず、中国撰述の偽経説もあるため、非常にナイーブな問題も孕んであるところであります。
いずれにしても、「十住毘婆沙論」は華厳経・十地品の注釈書であり、その内容から、正定聚の位は、菩薩の初地・歓喜地が想定されてあるため、それと同等の境地と考えるのが妥当ではないだろうかと存じます。
歓喜地は、顕教においては、一阿僧祇劫の智慧と福徳の資糧を積み終えることで到達可能な境地であり、特には「空性」が無明の迷苦を打ち破り、煩悩障・所知障を対治して悟りへと向けて了解すべき真理であることを如実に知見して歓喜するがゆえに「歓喜地」と言われるものとなります。つまり、ある一定の空性への理解と、膨大な功徳を積むことにて至れるということになるのであります。
そうなると、当然に仏教の智慧、空性の真理についてかなり理解していることと共に、それだけの功徳行を積んであるため、自利利他がある程度円満に為せることのできる存在であり、これは衆生界においてであれば、一目瞭然に誰もが理解できるような徳目を備えてある者と言えるため、まず、間違えることはないでしょう。
次に、補処・弥勒菩薩となると、弥勒菩薩は、兜率天にてもはや相当な高い境地にあるため、現前地(六地)以上、それもあと60億年ほどでの成道の資糧となれば、逆算すると不動地(八地)には既に至ってあると考えることができるのではないだろうかと考えます。
この境地の者であれば、相好も既に仏陀にかなり近いものとなっているため、誰が見ても、接しても、明らかに菩薩であると分かることでしょう。
煩悩障も断滅し終わり、一切煩悩により行いが汚されない中で過ごせる者であり、ほぼ仏陀と同等に空性への了解も進んでいるため、その後得智により、衆生を大いに教化できる素養も十分となっており、もはや、誰もが即座に礼拝し、教えを請うような存在となっているでしょう。
しかし、信心獲得、信心決定でこの境地に至れるというのは、正直、無理がありすぎて荒唐無稽と言わざるを得ません・・
一応、菩薩の初地・歓喜地としても、明らかに誰もが一目瞭然に分かり得るような徳目を備えていると言えるため、信心獲得、信心決定したと言う者が現れたのであれば、その行状をよく観察してみれば、その判断に大いに役立つものとなることでしょう。
これを聞かれると、内証であるがゆえに、当然に第三者から見て判断、立証することが当然に難しく、現生においては、獲信者・善知識から印可してもらうことぐらいでしか証明ができないということではないだろうかとは思います。
では、何も分かり得ないのかと言うと、そうでもなく、信心獲得、信心決定に起因する事態を基に推測できることが少しはあるかと存じます。
正定聚の位(阿毘跋致・不退転の位)、菩薩の初地・歓喜地、補処・弥勒菩薩と同位などの事態ということであります。
そうなると少なくとも、どれぐらいの菩薩としての境地にあるのかが分かるものとなります。
ただ、これらの位を得るということの元々の論拠となる「十住毘婆沙論」は、龍樹の真作として疑わしいということと共に、サンスクリット・チベット語原典が未だに発見されておらず、中国撰述の偽経説もあるため、非常にナイーブな問題も孕んであるところであります。
いずれにしても、「十住毘婆沙論」は華厳経・十地品の注釈書であり、その内容から、正定聚の位は、菩薩の初地・歓喜地が想定されてあるため、それと同等の境地と考えるのが妥当ではないだろうかと存じます。
歓喜地は、顕教においては、一阿僧祇劫の智慧と福徳の資糧を積み終えることで到達可能な境地であり、特には「空性」が無明の迷苦を打ち破り、煩悩障・所知障を対治して悟りへと向けて了解すべき真理であることを如実に知見して歓喜するがゆえに「歓喜地」と言われるものとなります。つまり、ある一定の空性への理解と、膨大な功徳を積むことにて至れるということになるのであります。
そうなると、当然に仏教の智慧、空性の真理についてかなり理解していることと共に、それだけの功徳行を積んであるため、自利利他がある程度円満に為せることのできる存在であり、これは衆生界においてであれば、一目瞭然に誰もが理解できるような徳目を備えてある者と言えるため、まず、間違えることはないでしょう。
次に、補処・弥勒菩薩となると、弥勒菩薩は、兜率天にてもはや相当な高い境地にあるため、現前地(六地)以上、それもあと60億年ほどでの成道の資糧となれば、逆算すると不動地(八地)には既に至ってあると考えることができるのではないだろうかと考えます。
この境地の者であれば、相好も既に仏陀にかなり近いものとなっているため、誰が見ても、接しても、明らかに菩薩であると分かることでしょう。
煩悩障も断滅し終わり、一切煩悩により行いが汚されない中で過ごせる者であり、ほぼ仏陀と同等に空性への了解も進んでいるため、その後得智により、衆生を大いに教化できる素養も十分となっており、もはや、誰もが即座に礼拝し、教えを請うような存在となっているでしょう。
しかし、信心獲得、信心決定でこの境地に至れるというのは、正直、無理がありすぎて荒唐無稽と言わざるを得ません・・
一応、菩薩の初地・歓喜地としても、明らかに誰もが一目瞭然に分かり得るような徳目を備えていると言えるため、信心獲得、信心決定したと言う者が現れたのであれば、その行状をよく観察してみれば、その判断に大いに役立つものとなることでしょう。