日記

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親鸞会が「善の勧め」を主張する構造について

2022年08月27日 | ブログ
「二種深信」も「真俗二諦」も、衆生の「悪人」性に対してのあり方をその本質としています。

輪廻にある我々、凡夫衆生は、生来的(俱生的)に煩悩を有している以上、その行いというものは、自ずと悪いものになることは避けられない面があります。

この凡夫衆生の行いの「悪人」性の必然性を深く知ることが、「二種深信」と「真俗二諦」のそれぞれを理解する上でも重要となります。

そして、この衆生本来の悪人性であることの必然性を深く鑑みて、雑修雑善(雑毒の善・虚仮の行)を否定し、私たちの行いは、本質的に何らとして悟り・涅槃へと至らしめるものにはならない、救いにはならないとして、ただ、阿弥陀如来の本願の利益・功徳に与れるように調えることのみを頼みとする「絶対他力」へと浄土真宗は向かうことになるのであります。

もちろん、自力的な行、自らのはからいとしての行の一切が否定されるものとなり、ただ、獲信へと向けた念仏のみが勧められるものとなるのであります。(もう一つ勧められるものとして加えるならば、阿弥陀如来への仏恩報謝になりますが、これはあくまでも獲信者に限定されるべきことになるのではないだろうかと考えます)

ここまでは基本的なこととして、では、親鸞会が「善の勧め」を主張する構造について、改めてどう考えなければならないのかということですが、

当然にいかなる善行もまず浄土真宗においては、基本的に認められるものではありません。

但し、否定されるべき善行を限定すれば、それ以外であれば「可」とすることもできなくはありません。

その否定されるべき善行を「自力的、自分のはからいによる善行」として、それ以外であれば認められるべき余地があるとして、その善を勧めているということであると考えることができます。

では、その善とは何かとなると、要は「他力的、他のはからいによる善行」ということであります。

そのような善行がありうるのかといえば、相当に無理がありますが、理論的には可能であり、ある意味で「無意識の善行」に近いものと言えるのではないだろうかと考えます。

要は、阿弥陀如来の本願の利益・功徳・はからいによる「他力的行い」とするわけであります。

その「他力的行い」を願生者、念仏行者とつなぐ役割を果たすのが、獲信者、善知識(親鸞会の場合は高森会長)であるとして、獲信者、善知識によって勧められる行いは、「自力的、自分のはからいによる善行ではない」としてしまうのであります。

ただ、何も考えずに、何も計らわずに、それを無意識的に行うべしということになるのであります。

もちろん、親鸞会の場合は、それが財施、寄付ということで勧められるというわけらしいのではありますが・・

獲信したい者、往生したい者にとっては、獲信者、善知識からの指導はある意味で絶対的なものとなります。

もともとは、獲信したい、往生したい、救われたいとして、財施、寄付することは、当然に雑修雑善(雑毒の善・虚仮の行)となり、否定されるべきものとなりますが、それが獲信者、善知識による指導において、肯定されるものへと変換されて、獲信したい、往生したい、救われたい者は、財施、寄付しなさいとして、「善の勧め」とされてしまっているのではないだろうかと考えるのであります。