日記

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往相回向・還相回向について・3

2022年08月08日 | ブログ
往相回向・還相回向(往還二種回向)において、回向の主体を阿弥陀如来とすることにより、一気に「絶対他力」、「一切の自分のはからい(自力)の停止」へと浄土門が傾くことになるわけですが、これをわかりやすく例えるとすれば、(名号念仏・称名念仏の真実功徳により、)現在も含めて、未来の自分のありようの全てがプログラミングされてあるコンピューターを手に入れるようなイメージにある意味近いと言えるのではないだろうかと考えます。

そこには、自力的なものも含めて、自分のはからい(意思)は現在、未来に含めて一切なくなり、阿弥陀如来の本願によるはたらき、はからいに全てをお任せしていくだけのあり方ということであります。

まるで、一つの同じプログラミングにより全てがコントロールされてあるロボットが、画一的に存在して同じように行動して、そして、同じようにそんなロボットが増えていくというような無機質な世界のイメージとなるでしょうか。

それが果たして真なる浄土のありようと言えるのかどうかとなりますが、自分のはからいは全て否定される(否定されないといけない)わけですから、そのように考えることもできるということであります。

では、次に、そのような名号念仏・称名念仏の真実功徳(による摂取不捨の利益)を、誰もが無条件に受けることができるのかというと、もちろんそうではなく、それには(絶対他力の真実)信心の獲得(獲信)・信心決定が必要となります。

信心獲得(獲信)・信心決定により、正定聚の位を得ることで往生(のみならず涅槃へと向けた不退転の身となる)が可能になるとされるのであります。

・・

往相回向・還相回向、往還二種回向は、その回向主体が誰であるのかということにおいて、その様相がガラッと変わってしまうことになります。

もともと、その回向の主体は、当然に五念門を修する者、自利利他の菩薩行にある者によるところであったのでありますが、その回向の主体を阿弥陀如来としたのが、親鸞聖人であり、阿弥陀如来の本願による他力回向、往還二種は本願のはからいによるものと解されるところとなることで、その様相が一変することになります。

これは、結局のところ、五念門の修道のあり方を根底から破壊するものとなります。つまり、回向の主体が修道者ではないことを明らかとすることで、五念門の自力行、自利利他の菩薩行、二資糧集積行を完全否定して、名号念仏、称名念仏の真実功徳、それのみで一切が足り、往還二種も成し得るのだということを宣揚したということなのであります。

と共に、一気に「絶対他力」、そして、「一切の自分のはからい(自力)の停止」を求めるところとなっていくのであります。

・・

次に、浄土願生者が娑婆で過ごす意義についてのことですが、世親、曇鸞、善導と基本的な流れにおいては、五念門(礼拝・讃嘆・作願・観察・回向門)の修養が、その中心的なものとして、往生、見仏、涅槃へと向けた、菩薩行としての自利利他行、智慧と福徳の二資糧行として調えられていくべきものとされており、ある程度、通仏教的な見地に配慮して論ぜられてあるものとなっています。

但し、曇鸞において、下品下生(下下品・下品凡夫)の往生について、名号真実功徳と共に、五念門の修養者(八地以上の菩薩と同等の者)の導きの力、回向の力を必要とした名号念仏・称名念仏、いわゆる「十念往生の法門」が示されることになるのですが、以降、五念門における回向のあり方、つまり、「往相回向・還相回向」のあり方についての議論が様々に変遷していくことになってゆくのであります。

もともとは、当然に自利利他の自力菩薩行として通仏教的に調えられてあった浄土門の修道が、やがて、「十念往生の法門」への傾斜が強まっていくことにより、一気に極端な他力思想へと向かうことになるわけですが、それには「往相回向・還相回向」のあり方の議論も大きく関わってくることになるのであります。

・・

先に、曇鸞の二種法身(法性法身と方便法身)の論拠を「現観荘厳論」にあると推測したわけですが、曇鸞が「現観荘厳論」から二種法身説を展開できた可能性はかなり低いと研究者からのご指摘を頂いた。

そういえば、「現観荘厳論」は中国には伝わってなかったのか・・確かに中国での弥勒五論に「現観荘厳論」はない・・漢訳の存在についても今一つはっきりしない。ならば、「大乗荘厳経論」の仏身論あたりになるか、あるいは、「成唯識論」、または如来蔵系の「究竟一乗宝性論」あたりになるか、、

いずれにしても、三身説を基として、無漏法身(法性法身)と、受用身(報身)を方便法身としての同一化を図ろうとした原点は、「摂大乗論」において説かれてある清浄法界(無漏法身)からの清浄等流の仏のはたらきを即一的に捉えるところにもあるのではないだろうかと思われます。

その清浄等流の仏のはたらきは、真実功徳によるもので、「名号」念仏にその浄土の功徳、浄土のはたらきが全て備わっており、衆生を悟り、涅槃へと導くものであるとするのであります。

また、特に曇鸞教学において特筆すべきところは、唯識思想だけでなく、中観思想にも通底し、智慧(空思想)についても注意を払い、「名号」功徳において、「無生の生」、「無生即生」「生即無生」、いわゆる「色即是空」「空即是色」としての「空、縁起の法」の智慧を得させしめる「はたらき」ももたせてあることであります。要は、「無生法忍」、「不退転位」、「正定聚位」、「平等法身」に至らさせしめる智慧を得る功徳も「名号」の功徳に説いているということなのであります。

このそれぞれの位を菩薩の第八地とすれば、つまり、「見仏」の要件を満たせるということでもあり、「名号」念仏に「見仏」のはたらきの功徳も含めてあることを補ったものであると考えることができます。それは、更に「授記」の要件も踏まえてとなり、悟り、涅槃へと至れることを決定づけさせるという功徳も「名号」の功徳に含ませるということとなるのであります。

それが「阿弥陀如来方便荘厳真実清浄無量功徳」名号となるのであります。

しかし、名号念仏に多くの功徳のあることを述べたところで、実際現実の生身の衆生、願生者に、それ(特に「不退転位」「正定聚位」「平等法身」の獲得とその証左しての智慧と現世利他功徳行など)が顕現してこない限り、実際に浄土へと往生できるまでは何もその功徳の証左が得られない、その功徳に与れないとなれば、そもそも本当に往生ができるのかどうかも非常に怪しいこと(死んでからしか分からない)になるのは言うまでもないのであります。

名号念仏と功徳実現がイコールであれば、空性・般若の智慧の獲得と共に平等法身としての菩薩の身体を生身の衆生が得れてもおかしくないはずだからであります。もちろん、浄土での「はたらき」がやはりそれには必要となるから、娑婆などの穢土では難しく、浄土に往生してからとなるのが、その理屈となるのでしょうが、では、娑婆で過ごす意義は、仏道修養も含めて悟り、涅槃へと向けて、何らもはや無いものであるならば、早々に往生できるように調えるのが得策となってしまうのではないだろうかということにもなりかねないのであります。実際にそのようにして自死した例(異相往生)は数え切れずでもあります。

いずれにしても、もう少し二種法身について考察していこうと思います。

・・

曇鸞の二種法身(法性法身と方便法身)については、当然に「往生論註」を詳しくあたらなければならないが、仏の二身(法身・色身)、三身(応身・報身・法身)、四身(応身・報身・智法身・自性法身)において、この「方便法身」の考え方は、四身の「智法身」を論拠にしているように思われるのである。

往生論註は、世親(バスバンドゥ)の「無量寿経優婆提舎願生偈」についての解釈であるわけだから、もちろん、唯識思想の流れを汲むものであり、世親の師である無著(アサンガ)の摂大乗論を中心とした唯識論の影響が当然に往生論にも大きなものがある。

そして、更に方便法身の根拠を辿るとすれば、「二十一種無漏智」の「智法身」に至るとして、それは、無著の師である弥勒(マイトレーヤ)の「現観荘厳論」にまで遡ることができるということなのである。

ただ、曇鸞の二種法身(法性法身と方便法身)の方便法身の論拠が、「現観荘厳論」の「二十一種無漏智」の「智法身」にあるとしても、法身が、具体的に方便のはたらきを成す、成し得るのかどうかは、やはり懐疑的であると言わざるをえないものと考えます。

この「智法身」はあくまでも、報身、応身のはたらきの根拠となる仏の二種の能力・性質(智慧と方便の合一の方便の側)における分類に過ぎず、「智法身」そのものが衆生を救済するはたらきを有しているものではないということであります。

つまり、個別具体に衆生を救済する実行力を有するのは、報身、応身、つまり、「色身」であるということです。

仏陀となるためには、智慧と共に方便(福徳・功徳)の実践が必ず欠かせないものとなります。その実践して得たる方便の能力として備わった側を「智法身」と便宜的に述べているだけに過ぎず、そのはたらきは、報身か応身のいずれかでしか成し得ないということであります。

これは、親鸞聖人もこの原則を外れることはなく、方便法身を報身と位置づけたのであります。

しかし、曇鸞は方便法身を具体的な仏の救いの方便のはたらきを持つものとして捉えていた可能性が非常に高く、そのあたりをより精査していく必要があるというところであります。

要は、念仏が、方便法身のはたらきによるもので、その方便法身は、法性法身と同一、不即不離の関係であるのだから、念仏そのものが、悟り、涅槃へと向けた仏の智慧・般若のはたらきそのものでもあり、救いでもあり、その名号のはたらきをもって見仏、往生を根拠とするのであります。

つまり、摂取不捨の仏のはたらきを、方便法身を根拠として、更に不即不離である法性法身の智慧・般若のはたらきをも念仏に具わさせることで成立しているとして、見仏に必要な要件を念仏に満たさせるとするのであります。

また、曇鸞の法身における智慧・般若と方便の考え方には更に独特なものがあり、それは田中無量先生の論文「往生論註の二種法身と広略の関係再考」の内容を別に精査したいところとなります。

いずれにしても、論点は、一種にせよ、二種にせよ、法身が、個別具体的な衆生救済を実際に行い得るのかどうかであります。もちろん、それはあり得ないというのが拙見解です。

往相回向・還相回向について・2

2022年08月08日 | ブログ
往相回向・還相回向、往還二種回向は、その回向主体が誰であるのかということにおいて、その様相がガラッと変わってしまうことになります。

もともと、その回向の主体は、当然に五念門を修する者、自利利他の菩薩行にある者によるところであったのでありますが、その回向の主体を阿弥陀如来としたのが、親鸞聖人であり、阿弥陀如来の本願による他力回向、往還二種は本願のはからいによるものと解されるところとなることで、その様相が一変することになります。

これは、結局のところ、五念門の修道のあり方を根底から破壊するものとなります。つまり、回向の主体が修道者ではないことを明らかとすることで、五念門の自力行、自利利他の菩薩行、二資糧集積行を完全否定して、名号念仏、称名念仏の真実功徳、それのみで一切が足り、往還二種も成し得るのだということを宣揚したということなのであります。

と共に、一気に「絶対他力」、そして、「一切の自分のはからい(自力)の停止」を求めるところとなっていくのであります。

・・

次に、浄土願生者が娑婆で過ごす意義についてのことですが、世親、曇鸞、善導と基本的な流れにおいては、五念門(礼拝・讃嘆・作願・観察・回向門)の修養が、その中心的なものとして、往生、見仏、涅槃へと向けた、菩薩行としての自利利他行、智慧と福徳の二資糧行として調えられていくべきものとされており、ある程度、通仏教的な見地に配慮して論ぜられてあるものとなっています。

但し、曇鸞において、下品下生(下下品・下品凡夫)の往生について、名号真実功徳と共に、五念門の修養者(八地以上の菩薩と同等の者)の導きの力、回向の力を必要とした名号念仏・称名念仏、いわゆる「十念往生の法門」が示されることになるのですが、以降、五念門における回向のあり方、つまり、「往相回向・還相回向」のあり方についての議論が様々に変遷していくことになってゆくのであります。

もともとは、当然に自利利他の自力菩薩行として通仏教的に調えられてあった浄土門の修道が、やがて、「十念往生の法門」への傾斜が強まっていくことにより、一気に極端な他力思想へと向かうことになるわけですが、それには「往相回向・還相回向」のあり方の議論も大きく関わってくることになるのであります。

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先に、曇鸞の二種法身(法性法身と方便法身)の論拠を「現観荘厳論」にあると推測したわけですが、曇鸞が「現観荘厳論」から二種法身説を展開できた可能性はかなり低いと研究者からのご指摘を頂いた。

そういえば、「現観荘厳論」は中国には伝わってなかったのか・・確かに中国での弥勒五論に「現観荘厳論」はない・・漢訳の存在についても今一つはっきりしない。ならば、「大乗荘厳経論」の仏身論あたりになるか、あるいは、「成唯識論」、または如来蔵系の「究竟一乗宝性論」あたりになるか、、

いずれにしても、三身説を基として、無漏法身(法性法身)と、受用身(報身)を方便法身としての同一化を図ろうとした原点は、「摂大乗論」において説かれてある清浄法界(無漏法身)からの清浄等流の仏のはたらきを即一的に捉えるところにもあるのではないだろうかと思われます。

その清浄等流の仏のはたらきは、真実功徳によるもので、「名号」念仏にその浄土の功徳、浄土のはたらきが全て備わっており、衆生を悟り、涅槃へと導くものであるとするのであります。

また、特に曇鸞教学において特筆すべきところは、唯識思想だけでなく、中観思想にも通底し、智慧(空思想)についても注意を払い、「名号」功徳において、「無生の生」、「無生即生」「生即無生」、いわゆる「色即是空」「空即是色」としての「空、縁起の法」の智慧を得させしめる「はたらき」ももたせてあることであります。要は、「無生法忍」、「不退転位」、「正定聚位」、「平等法身」に至らさせしめる智慧を得る功徳も「名号」の功徳に説いているということなのであります。

このそれぞれの位を菩薩の第八地とすれば、つまり、「見仏」の要件を満たせるということでもあり、「名号」念仏に「見仏」のはたらきの功徳も含めてあることを補ったものであると考えることができます。それは、更に「授記」の要件も踏まえてとなり、悟り、涅槃へと至れることを決定づけさせるという功徳も「名号」の功徳に含ませるということとなるのであります。

それが「阿弥陀如来方便荘厳真実清浄無量功徳」名号となるのであります。

しかし、名号念仏に多くの功徳のあることを述べたところで、実際現実の生身の衆生、願生者に、それ(特に「不退転位」「正定聚位」「平等法身」の獲得とその証左しての智慧と現世利他功徳行など)が顕現してこない限り、実際に浄土へと往生できるまでは何もその功徳の証左が得られない、その功徳に与れないとなれば、そもそも本当に往生ができるのかどうかも非常に怪しいこと(死んでからしか分からない)になるのは言うまでもないのであります。

名号念仏と功徳実現がイコールであれば、空性・般若の智慧の獲得と共に平等法身としての菩薩の身体を生身の衆生が得れてもおかしくないはずだからであります。もちろん、浄土での「はたらき」がやはりそれには必要となるから、娑婆などの穢土では難しく、浄土に往生してからとなるのが、その理屈となるのでしょうが、では、娑婆で過ごす意義は、仏道修養も含めて悟り、涅槃へと向けて、何らもはや無いものであるならば、早々に往生できるように調えるのが得策となってしまうのではないだろうかということにもなりかねないのであります。実際にそのようにして自死した例(異相往生)は数え切れずでもあります。

いずれにしても、もう少し二種法身について考察していこうと思います。

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曇鸞の二種法身(法性法身と方便法身)については、当然に「往生論註」を詳しくあたらなければならないが、仏の二身(法身・色身)、三身(応身・報身・法身)、四身(応身・報身・智法身・自性法身)において、この「方便法身」の考え方は、四身の「智法身」を論拠にしているように思われるのである。

往生論註は、世親(バスバンドゥ)の「無量寿経優婆提舎願生偈」についての解釈であるわけだから、もちろん、唯識思想の流れを汲むものであり、世親の師である無著(アサンガ)の摂大乗論を中心とした唯識論の影響が当然に往生論にも大きなものがある。

そして、更に方便法身の根拠を辿るとすれば、「二十一種無漏智」の「智法身」に至るとして、それは、無著の師である弥勒(マイトレーヤ)の「現観荘厳論」にまで遡ることができるということなのである。

ただ、曇鸞の二種法身(法性法身と方便法身)の方便法身の論拠が、「現観荘厳論」の「二十一種無漏智」の「智法身」にあるとしても、法身が、具体的に方便のはたらきを成す、成し得るのかどうかは、やはり懐疑的であると言わざるをえないものと考えます。

この「智法身」はあくまでも、報身、応身のはたらきの根拠となる仏の二種の能力・性質(智慧と方便の合一の方便の側)における分類に過ぎず、「智法身」そのものが衆生を救済するはたらきを有しているものではないということであります。

つまり、個別具体に衆生を救済する実行力を有するのは、報身、応身、つまり、「色身」であるということです。

仏陀となるためには、智慧と共に方便(福徳・功徳)の実践が必ず欠かせないものとなります。その実践して得たる方便の能力として備わった側を「智法身」と便宜的に述べているだけに過ぎず、そのはたらきは、報身か応身のいずれかでしか成し得ないということであります。

これは、親鸞聖人もこの原則を外れることはなく、方便法身を報身と位置づけたのであります。

しかし、曇鸞は方便法身を具体的な仏の救いの方便のはたらきを持つものとして捉えていた可能性が非常に高く、そのあたりをより精査していく必要があるというところであります。

要は、念仏が、方便法身のはたらきによるもので、その方便法身は、法性法身と同一、不即不離の関係であるのだから、念仏そのものが、悟り、涅槃へと向けた仏の智慧・般若のはたらきそのものでもあり、救いでもあり、その名号のはたらきをもって見仏、往生を根拠とするのであります。

つまり、摂取不捨の仏のはたらきを、方便法身を根拠として、更に不即不離である法性法身の智慧・般若のはたらきをも念仏に具わさせることで成立しているとして、見仏に必要な要件を念仏に満たさせるとするのであります。

また、曇鸞の法身における智慧・般若と方便の考え方には更に独特なものがあり、それは田中無量先生の論文「往生論註の二種法身と広略の関係再考」の内容を別に精査したいところとなります。

いずれにしても、論点は、一種にせよ、二種にせよ、法身が、個別具体的な衆生救済を実際に行い得るのかどうかであります。もちろん、それはあり得ないというのが拙見解です。