今日はのちとなり、過ごしやすい一日となりましたね。夕方には激しいもありました。
終日寺院勤務
寺務・枯れた花抜き・ゴミ収集・トイレ前整備などして過ごす。
平成二十二年度・秋彼岸・施餓鬼墓前回向のご案内
http://oujyouin.com/segaki.htm
夕刻から市民会館へ。
東大阪市民会議・平成22年度・第6回・9月定例会に出席。
報告事項・9/8自転車マナー啓発運動報告・東大阪市民ふれあい祭り実行委員会出向委員選任・自転車マナー啓発運動の更なる展開へ向けての具体策の検討、提言作成状況の確認・提言策定小委員会の報告・他。
いよいよ第33回・東大阪市民会議・提言案の最終確認へと向かっています。
東大阪市民会議
http://www.city.higashiosaka.osaka.jp/070/070110/event/siminkaigi.html
これまでの活動報告
http://hide-1.jugem.jp/?cid=4
・・
さて、前回におきましては、ツォンカパ論師以前における中観帰謬論証派とツォンカパ論師の中観思想の相違につきまして簡単に触れさせて頂きました。次に、ツォンカパ論師の中観思想(中観帰謬論証派)と中観自立論証派との相違につきまして考えて参りたいと存じます。
中観自立論証派は、積極的にコトバの世界、論理の世界を扱って、正覚・正悟・涅槃へ至るために「空・無自性」を証明しようとしていく中観論者たちの一派のことであります。
ツォンカパ論師は、中観自立論証派に対して厳しい批判を展開するわけですが、ツォンカパ論師の中観思想(中観帰謬論証派)と中観自立論証派との最大の相違は、中観自立論証派においては、「世俗(言説)において自相を認めている」ということに対して、中観帰謬論証派は、そのような自相すらも否定するということであります。
「自相を認めるということ」は、「ある各モノ・コトそれぞれにおいて、それたらしめている構成要素(属性・性質・作用)が、それぞれ自身において 成立していることを認めていること」ということであります。この自相が成立していることを認めることによって、中観自立論証派の論証式は成り立っているわけですが、勝義諦では当然として、世俗(言説)においても、そのような「自相」の成立を認めないのが、中観帰謬論証派となるわけであります。
ここの差異の吟味が非常に難しいところでありますが、非常に分かりやすい解説がなされているのが、
チベット仏教ゲルク派・宗学研究所「教理の考察」
「誰も知らない火事(齋藤保高氏)」
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%9F%BB%E3%81%AE%E7%93%B6%E3%81%A8%E8%B1%A1%E3%81%AE%E7%93%B6
の内容でございますので、是非共にご参照して頂ければと存じます。
少し私の拙い現状での理解を簡単に述べさせて頂くと致しますと、中観自立論証派の場合、自ら打ち立てた論証主張を相手にも認めさせるためには、自分と相手との間に共通のモノ・コトが無ければ、相手にそれを認めさせることができずに論証主張は成り立たなくなってしまいます。
これは当然のことであって、主張者が、どのように論証主張をしたとしても、自分と相手との間で、知覚・知識・認識・概念・思考などにおいて何らかの確かなる共通のモノ・コトが無ければ、理解の相違・異同・差異が生じるは当たり前のことで、議論に齟齬をきたすのは明白であるからであります。
それは、もしも、自分と相手との間で何らかの確かなる共通のモノ・コトが無いとなれば、いくら頑張って論証主張しても意味が無く、無駄となってしまうため、中観自立論証派においては、何とかして論証主張を成立させるためにも、自分と相手との間において共通のモノ・コトをどうにかして設定しなければならなかったわけであります。それが「自相の成立」についてであり、「世俗(言説)において自相を認めている」として、中観帰謬論証派から批判を受けたのであります。
次回も、もう少しツォンカパ論師の中観思想(中観帰謬論証派)と中観自立論証派との相違につきまして考えて参りたいと存じます。
・・
前回には、ツォンカパ論師による「離辺中観説」の批判概要について簡単に触れさせて頂きました。当時、中観帰謬論証派において主流を占めつつあった「中観論者には主張がない」という見解から、「中観論者には、主張が有る」と明確に示すに至ったツォンカパ論師の考察過程を学ぶことが非常に大切なこととなります。
中観帰謬論証派、中観自立論証派、離辺中観論者も含めて、中観思想論者全般の共通して目指すところは、当然に正覚・正悟への到達、迷い苦しみの輪廻からの解脱を図り、涅槃へと到達することであります。
しかし、正覚・正悟への到達、涅槃への到達における過程の相違が、中観思想の中においても様々な見解を生じさせてしまったのであります。
特には、中観思想を大きく分けることとなった二派において、中観自立論証派は、積極的にコトバの世界、論理の世界を扱って、正覚・正悟・涅槃へ至るために「空・無自性」を証明しようと尽力し、中観帰謬論証派は、コトバの世界、論理の世界が抱えている矛盾を暴き出すことによって、「空・無自性」を証明しようと尽力したのであります。
仏教最高真理としての「勝義諦(第一義諦)」は、「無分別」・「不可説」・「戯論寂滅」・「言語道断」というコトバ・論理の世界を超えたところであることは両派も認めるところであります。しかし、「勝義諦(第一義諦)」へと至るための「世俗諦」の扱いにおける見解の相違によって、両派は分かれて議論を展開することになってしまいました。
ツォンカパ論師以前における中観帰謬論証派においては、コトバの世界、論理の世界が抱えている矛盾を暴き出していくために、当然に、対論者(実体論者)の主張を待って、その主張の抱えている矛盾を指摘していくことによって、「空・無自性」を証明していくため、自ら積極的に主張を行うことは、自ら矛盾をさらしてしまうこととなるため、「主張をすることはない」という考えが大勢でありました。
しかし、ツォンカパ論師は、世俗諦と勝義諦という二諦の解釈を踏まえた上で、世俗諦(コトバの世界)においては、「勝義としては、無(非有)であるが、世俗としては、有(非無)である」という「非有・非無」について、独自の解釈を展開し、「中観論者には、主張が有る」ということを示して、コトバの世界において、勝義諦として否定されるべきことと、世俗諦において否定されてはならないことをしっかりと明らかにして、正確に否定対象を否定していくための「正理のはたらき」の正しい理解をしていくことに不断の努力を積み重ねていく中、積極的にコトバの世界において、「空・無自性」を証明していこうとしたのであります。
ツォンカパ論師以前における中観帰謬論証派では、「中観論者には主張が無い」として、コトバの世界をただ否定するのみに終始していたことから、コトバの世界において、できうる限りに「空・無自性」を証明していくために、「中観論者には主張が有るのだ」と、ツォンカパ論師が明確に打ち出したことは、中観思想史上の劇的な転回となったのであります。
では、ツォンカパ論師の中観思想と、従来より「中観論者には、主張がある」として、「空・無自性」について、コトバ・論理の世界を積極的に用いて証明していこうとしていた中観自立論証派との相違はどこにあるのか、そのことについて次回は少し考えて参りたいと存じます。
・・
前回に「非有・非無の中道」について少し述べさせて頂きました。その中における『・・ややもすれば、最高真理としての勝義諦は、「非有・非無」としての「戯論寂滅・言語道断」であるのだという理解の陥ってしまう不都合な問題・・』と述べさせて頂きましたことについて、今回は考えて参りたいと存じます。
ツォンカパ論師までの中観思想において大勢を占めていたのが、「離辺中観説」であります。「離辺中観説」とは、仏教最高の真理である「勝義諦(第一義諦)」は、言語道断・不可説であり、一切の分別、戯論を離れており、有ということもできず、無ということもできない(非有・非無)、有辺と無辺を離れているという説であります。
この「離辺中観説」を痛烈に厳しく批判したのがツォンカパ論師であり、「非有・非無」は、世俗諦と勝義諦という二諦の解釈を踏まえた上で、世俗諦(コトバの世界)においては、「勝義としては、無(非有)であるが、世俗としては、有(非無)である」として、それまでの中観思想においては、最高真理である勝義諦へ向けて、無分別・言語道断・離戯論(戯論寂滅)を指向することが大いに礼賛されてきた流れが、ツォンカパ論師によってせき止められたことで、仏教思想史上の一大革新的転回を迎えたわけであります。
仮に、もしも仏教の真理が、「無分別・言語道断・離戯論(戯論寂滅)」で良しとするならば、不思不観、無念無想の境地において、「何も考えなければよい」、「何も思わなければよい」、「何も言わなくても(主張しなくて)よい」ということから、やがては、「何もしなくてもよい」、「何をしても意味がない」、「何をしても無駄である」、更には、「何をしても構わない」、「何でもあり」と、様々な弊害を生み出してしまい、お釈迦様の真なる教えが破壊されていってしまうのは明白であり、実際の仏教史上においても、そのような流れにおいて、仏教が変容していってしまいました。その大きな流れとして、やがて、仏教の教義において、絶対的な存在・実在・実体の立論(本覚思想・如来蔵思想・仏性思想)へと向かっていく傾向が顕著となってゆき、そのことによって仏教が堕落と衰退へと陥ってしまう事態が避けられなくなってしまったのも事実であります。
ツォンカパ論師は、絶対的な存在・実在・実体の立論(本覚思想・如来蔵思想・仏性思想)を基として展開されつつあった密教が前面へと出すぎてしまい、堕落へと向かい始めたチベット仏教において、その堕落を止めるため、中観思想の解釈の徹底した見直しと密教のあり方の見直しを進めると共に、修行の階梯、戒律の再整備を行い、僧院集団の綱紀粛正を図って、ゲルク派(黄帽派)を創始するに至ったのであります。
お釈迦様の教えの原点回帰を図るために興った初期大乗仏教運動の念願は、ナーガールジュナ(龍樹)論師以来、紆余曲折を経ながらも、ツォンカパ論師によって一つの結実を見ることとなったわけであります。
・・
「非有・非無の中道」・・ここの絶妙なるところにおける「深遠なる縁起の理法」の理解が、誠に仏教最大の要諦であります。
「有」というのは、モノ・コトについて、「実体・自性・自相」というあり方であるということに極端に執着してしまった見方(常見)のことであり、「無」というのは、モノ・コトについて、「無実体・無自性・無自相」というあり方であるということに極端に執着してしまった見方(断見)のことであります。
「実体・自性・自相」として、成り立っているモノ・コトは見当たらないことについては、改めてここで説明はもう致しませんが、問題は、「無実体・無自性・無自相」ということの理解について少し補足しておきたいと存じます。
それは、あくまでも「無実体・無自性・無自相」ということを説明しなければならない事態は、「実体・自性・自相」としてのあり方があるという執着を離させるための教説展開に過ぎないということであります。
そのため、「実体・自性・自相」は、非(無)「実体・自性・自相」であり、更には、非(無)「無実体・無自性・無自相」であるということも「非有・非無の中道」においては、理解しておかなければなりません。
つまりは、「無実体・無自性・無自相」も非(無)「無実体・無自性・無自相」として、「無」ということにとらわれて、何か「無」というものがあるとしてしまう偏見も取り除かなければならないこととなります。
そこから、有、無、非有無、非有非無のそれぞれのあり方について、そのいずれもが成り立たない、執着できないという「空」を理解し、最高真理としての「勝義諦」は、戯論寂滅であるというところへと誘っていくこととなりますが、ツォンカパ論師の中観思想における、師の理解では、「非有・非無」は、世俗諦と勝義諦という二諦の解釈を踏まえた上で、世俗諦(コトバの世界)においては、「勝義としては、無(非有)であるが、世俗としては、有(非無)である」という独自の解釈展開が行われます。
ここは非常にツォンカパ論師の中観思想を学ぶ上で重要なところであり、ややもすれば、最高真理としての勝義諦は、「非有・非無」としての「戯論寂滅・言語道断」であるのだという理解の陥ってしまう不都合な問題を、ツォンカパ論師はどのようにして解決へと導くことができたのかを考えていかなければなりません。
「中観論者には、主張が無い」とするツォンカパ論師以前の中観思想が占めようとしていた大勢的立場から、世俗諦(コトバの世界)において、「非有・非無」について「勝義においては無であるが、言説(世俗)においては有である」として、「中観論者には、主張が有る」と明確に示すに至ったツォンカパ論師の考察過程をしっかりと学ぶことが、「深遠なる縁起の理法」を理解していく上でも誠に大切なこととなります。
・・
「縁起賛」・「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」・「四つの捕われから離れる秘訣」
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/m/197611
「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%9F%BB%E3%81%AE%E7%93%B6%E3%81%A8%E8%B1%A1%E3%81%AE%E7%93%B6
教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51749171.html
チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト
「苦楽中道説について」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51739221.html
「苦楽中道説について」補足
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51746333.html
中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html
mixiコミュニティ「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752
仏教・学びの進捗状況全般参照
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/
集中的に再読していく論著集
「中論―縁起・空・中の思想(上・中・下)」三枝充悳著 レグルス文庫
「大乗仏典14 龍樹論集」 中央公論新社
「講座 大乗仏教7 中観思想」春秋社
「講座 大乗仏教9 認識論と論理学」春秋社
「講座 仏教思想1 存在論・時間論」理想社
「講座 仏教思想2 認識論・論理学」理想社
「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版
「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」
ツォンカパ著・ツルティムケサン翻訳・藤仲孝司翻訳 UNIO
『「空」の構造 -「中論」の論理』立川武蔵著・第三文明社
施本シリーズ
施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html
これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾
これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾
これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾
終日寺院勤務
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さて、前回におきましては、ツォンカパ論師以前における中観帰謬論証派とツォンカパ論師の中観思想の相違につきまして簡単に触れさせて頂きました。次に、ツォンカパ論師の中観思想(中観帰謬論証派)と中観自立論証派との相違につきまして考えて参りたいと存じます。
中観自立論証派は、積極的にコトバの世界、論理の世界を扱って、正覚・正悟・涅槃へ至るために「空・無自性」を証明しようとしていく中観論者たちの一派のことであります。
ツォンカパ論師は、中観自立論証派に対して厳しい批判を展開するわけですが、ツォンカパ論師の中観思想(中観帰謬論証派)と中観自立論証派との最大の相違は、中観自立論証派においては、「世俗(言説)において自相を認めている」ということに対して、中観帰謬論証派は、そのような自相すらも否定するということであります。
「自相を認めるということ」は、「ある各モノ・コトそれぞれにおいて、それたらしめている構成要素(属性・性質・作用)が、それぞれ自身において 成立していることを認めていること」ということであります。この自相が成立していることを認めることによって、中観自立論証派の論証式は成り立っているわけですが、勝義諦では当然として、世俗(言説)においても、そのような「自相」の成立を認めないのが、中観帰謬論証派となるわけであります。
ここの差異の吟味が非常に難しいところでありますが、非常に分かりやすい解説がなされているのが、
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「誰も知らない火事(齋藤保高氏)」
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の内容でございますので、是非共にご参照して頂ければと存じます。
少し私の拙い現状での理解を簡単に述べさせて頂くと致しますと、中観自立論証派の場合、自ら打ち立てた論証主張を相手にも認めさせるためには、自分と相手との間に共通のモノ・コトが無ければ、相手にそれを認めさせることができずに論証主張は成り立たなくなってしまいます。
これは当然のことであって、主張者が、どのように論証主張をしたとしても、自分と相手との間で、知覚・知識・認識・概念・思考などにおいて何らかの確かなる共通のモノ・コトが無ければ、理解の相違・異同・差異が生じるは当たり前のことで、議論に齟齬をきたすのは明白であるからであります。
それは、もしも、自分と相手との間で何らかの確かなる共通のモノ・コトが無いとなれば、いくら頑張って論証主張しても意味が無く、無駄となってしまうため、中観自立論証派においては、何とかして論証主張を成立させるためにも、自分と相手との間において共通のモノ・コトをどうにかして設定しなければならなかったわけであります。それが「自相の成立」についてであり、「世俗(言説)において自相を認めている」として、中観帰謬論証派から批判を受けたのであります。
次回も、もう少しツォンカパ論師の中観思想(中観帰謬論証派)と中観自立論証派との相違につきまして考えて参りたいと存じます。
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前回には、ツォンカパ論師による「離辺中観説」の批判概要について簡単に触れさせて頂きました。当時、中観帰謬論証派において主流を占めつつあった「中観論者には主張がない」という見解から、「中観論者には、主張が有る」と明確に示すに至ったツォンカパ論師の考察過程を学ぶことが非常に大切なこととなります。
中観帰謬論証派、中観自立論証派、離辺中観論者も含めて、中観思想論者全般の共通して目指すところは、当然に正覚・正悟への到達、迷い苦しみの輪廻からの解脱を図り、涅槃へと到達することであります。
しかし、正覚・正悟への到達、涅槃への到達における過程の相違が、中観思想の中においても様々な見解を生じさせてしまったのであります。
特には、中観思想を大きく分けることとなった二派において、中観自立論証派は、積極的にコトバの世界、論理の世界を扱って、正覚・正悟・涅槃へ至るために「空・無自性」を証明しようと尽力し、中観帰謬論証派は、コトバの世界、論理の世界が抱えている矛盾を暴き出すことによって、「空・無自性」を証明しようと尽力したのであります。
仏教最高真理としての「勝義諦(第一義諦)」は、「無分別」・「不可説」・「戯論寂滅」・「言語道断」というコトバ・論理の世界を超えたところであることは両派も認めるところであります。しかし、「勝義諦(第一義諦)」へと至るための「世俗諦」の扱いにおける見解の相違によって、両派は分かれて議論を展開することになってしまいました。
ツォンカパ論師以前における中観帰謬論証派においては、コトバの世界、論理の世界が抱えている矛盾を暴き出していくために、当然に、対論者(実体論者)の主張を待って、その主張の抱えている矛盾を指摘していくことによって、「空・無自性」を証明していくため、自ら積極的に主張を行うことは、自ら矛盾をさらしてしまうこととなるため、「主張をすることはない」という考えが大勢でありました。
しかし、ツォンカパ論師は、世俗諦と勝義諦という二諦の解釈を踏まえた上で、世俗諦(コトバの世界)においては、「勝義としては、無(非有)であるが、世俗としては、有(非無)である」という「非有・非無」について、独自の解釈を展開し、「中観論者には、主張が有る」ということを示して、コトバの世界において、勝義諦として否定されるべきことと、世俗諦において否定されてはならないことをしっかりと明らかにして、正確に否定対象を否定していくための「正理のはたらき」の正しい理解をしていくことに不断の努力を積み重ねていく中、積極的にコトバの世界において、「空・無自性」を証明していこうとしたのであります。
ツォンカパ論師以前における中観帰謬論証派では、「中観論者には主張が無い」として、コトバの世界をただ否定するのみに終始していたことから、コトバの世界において、できうる限りに「空・無自性」を証明していくために、「中観論者には主張が有るのだ」と、ツォンカパ論師が明確に打ち出したことは、中観思想史上の劇的な転回となったのであります。
では、ツォンカパ論師の中観思想と、従来より「中観論者には、主張がある」として、「空・無自性」について、コトバ・論理の世界を積極的に用いて証明していこうとしていた中観自立論証派との相違はどこにあるのか、そのことについて次回は少し考えて参りたいと存じます。
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前回に「非有・非無の中道」について少し述べさせて頂きました。その中における『・・ややもすれば、最高真理としての勝義諦は、「非有・非無」としての「戯論寂滅・言語道断」であるのだという理解の陥ってしまう不都合な問題・・』と述べさせて頂きましたことについて、今回は考えて参りたいと存じます。
ツォンカパ論師までの中観思想において大勢を占めていたのが、「離辺中観説」であります。「離辺中観説」とは、仏教最高の真理である「勝義諦(第一義諦)」は、言語道断・不可説であり、一切の分別、戯論を離れており、有ということもできず、無ということもできない(非有・非無)、有辺と無辺を離れているという説であります。
この「離辺中観説」を痛烈に厳しく批判したのがツォンカパ論師であり、「非有・非無」は、世俗諦と勝義諦という二諦の解釈を踏まえた上で、世俗諦(コトバの世界)においては、「勝義としては、無(非有)であるが、世俗としては、有(非無)である」として、それまでの中観思想においては、最高真理である勝義諦へ向けて、無分別・言語道断・離戯論(戯論寂滅)を指向することが大いに礼賛されてきた流れが、ツォンカパ論師によってせき止められたことで、仏教思想史上の一大革新的転回を迎えたわけであります。
仮に、もしも仏教の真理が、「無分別・言語道断・離戯論(戯論寂滅)」で良しとするならば、不思不観、無念無想の境地において、「何も考えなければよい」、「何も思わなければよい」、「何も言わなくても(主張しなくて)よい」ということから、やがては、「何もしなくてもよい」、「何をしても意味がない」、「何をしても無駄である」、更には、「何をしても構わない」、「何でもあり」と、様々な弊害を生み出してしまい、お釈迦様の真なる教えが破壊されていってしまうのは明白であり、実際の仏教史上においても、そのような流れにおいて、仏教が変容していってしまいました。その大きな流れとして、やがて、仏教の教義において、絶対的な存在・実在・実体の立論(本覚思想・如来蔵思想・仏性思想)へと向かっていく傾向が顕著となってゆき、そのことによって仏教が堕落と衰退へと陥ってしまう事態が避けられなくなってしまったのも事実であります。
ツォンカパ論師は、絶対的な存在・実在・実体の立論(本覚思想・如来蔵思想・仏性思想)を基として展開されつつあった密教が前面へと出すぎてしまい、堕落へと向かい始めたチベット仏教において、その堕落を止めるため、中観思想の解釈の徹底した見直しと密教のあり方の見直しを進めると共に、修行の階梯、戒律の再整備を行い、僧院集団の綱紀粛正を図って、ゲルク派(黄帽派)を創始するに至ったのであります。
お釈迦様の教えの原点回帰を図るために興った初期大乗仏教運動の念願は、ナーガールジュナ(龍樹)論師以来、紆余曲折を経ながらも、ツォンカパ論師によって一つの結実を見ることとなったわけであります。
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「非有・非無の中道」・・ここの絶妙なるところにおける「深遠なる縁起の理法」の理解が、誠に仏教最大の要諦であります。
「有」というのは、モノ・コトについて、「実体・自性・自相」というあり方であるということに極端に執着してしまった見方(常見)のことであり、「無」というのは、モノ・コトについて、「無実体・無自性・無自相」というあり方であるということに極端に執着してしまった見方(断見)のことであります。
「実体・自性・自相」として、成り立っているモノ・コトは見当たらないことについては、改めてここで説明はもう致しませんが、問題は、「無実体・無自性・無自相」ということの理解について少し補足しておきたいと存じます。
それは、あくまでも「無実体・無自性・無自相」ということを説明しなければならない事態は、「実体・自性・自相」としてのあり方があるという執着を離させるための教説展開に過ぎないということであります。
そのため、「実体・自性・自相」は、非(無)「実体・自性・自相」であり、更には、非(無)「無実体・無自性・無自相」であるということも「非有・非無の中道」においては、理解しておかなければなりません。
つまりは、「無実体・無自性・無自相」も非(無)「無実体・無自性・無自相」として、「無」ということにとらわれて、何か「無」というものがあるとしてしまう偏見も取り除かなければならないこととなります。
そこから、有、無、非有無、非有非無のそれぞれのあり方について、そのいずれもが成り立たない、執着できないという「空」を理解し、最高真理としての「勝義諦」は、戯論寂滅であるというところへと誘っていくこととなりますが、ツォンカパ論師の中観思想における、師の理解では、「非有・非無」は、世俗諦と勝義諦という二諦の解釈を踏まえた上で、世俗諦(コトバの世界)においては、「勝義としては、無(非有)であるが、世俗としては、有(非無)である」という独自の解釈展開が行われます。
ここは非常にツォンカパ論師の中観思想を学ぶ上で重要なところであり、ややもすれば、最高真理としての勝義諦は、「非有・非無」としての「戯論寂滅・言語道断」であるのだという理解の陥ってしまう不都合な問題を、ツォンカパ論師はどのようにして解決へと導くことができたのかを考えていかなければなりません。
「中観論者には、主張が無い」とするツォンカパ論師以前の中観思想が占めようとしていた大勢的立場から、世俗諦(コトバの世界)において、「非有・非無」について「勝義においては無であるが、言説(世俗)においては有である」として、「中観論者には、主張が有る」と明確に示すに至ったツォンカパ論師の考察過程をしっかりと学ぶことが、「深遠なる縁起の理法」を理解していく上でも誠に大切なこととなります。
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「縁起賛」・「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」・「四つの捕われから離れる秘訣」
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/m/197611
「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%9F%BB%E3%81%AE%E7%93%B6%E3%81%A8%E8%B1%A1%E3%81%AE%E7%93%B6
教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51749171.html
チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト
「苦楽中道説について」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51739221.html
「苦楽中道説について」補足
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51746333.html
中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html
mixiコミュニティ「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752
仏教・学びの進捗状況全般参照
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/
集中的に再読していく論著集
「中論―縁起・空・中の思想(上・中・下)」三枝充悳著 レグルス文庫
「大乗仏典14 龍樹論集」 中央公論新社
「講座 大乗仏教7 中観思想」春秋社
「講座 大乗仏教9 認識論と論理学」春秋社
「講座 仏教思想1 存在論・時間論」理想社
「講座 仏教思想2 認識論・論理学」理想社
「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版
「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」
ツォンカパ著・ツルティムケサン翻訳・藤仲孝司翻訳 UNIO
『「空」の構造 -「中論」の論理』立川武蔵著・第三文明社
施本シリーズ
施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」
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施本「佛の道」
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