母のものだったiPadから何枚か写真を分けてもらってきた。
だんだん病気が進行して体が動かなくなり、表情もなくなっていく母と過ごしたいくつもの誕生日や旅行、日々。
なんでだろう、その写真の中の私は活き活きと明るく輝いているように見える。
多分、私が明るさをもたらす役をしていたから。
母にとって私はいつでも圧倒的に好ましく良きもの、だった。
(一番最期は違ったかも、ずいぶん失望させただろうから)
それは私がそうだったというよりは、母と私が出会った面で、おそらくは主に母がそのように私を見た、信じたから。
母の目が私に力と輝きを与えた。
存在は絶対ではなく関係の中でその場に発生するライブ、ジャムセッションだ。
自分というものも、出会ったものに合わせて反応しあい、その都度新たに鳴り響く音だ。
相手と自分で共同でお互いを発生させる場を作るのだから、つまり相手は、かなり、自分だ。
必要があって写真を探していて、結局娘に一緒に自撮りしてもらった。
風邪っぽくて調子もいまいちで写真なんて撮りたい気分じゃなかったけど。
撮れた写真の中で、娘の横の私は、柔らかく輝いていた。
だんだん病気が進行して体が動かなくなり、表情もなくなっていく母と過ごしたいくつもの誕生日や旅行、日々。
なんでだろう、その写真の中の私は活き活きと明るく輝いているように見える。
多分、私が明るさをもたらす役をしていたから。
母にとって私はいつでも圧倒的に好ましく良きもの、だった。
(一番最期は違ったかも、ずいぶん失望させただろうから)
それは私がそうだったというよりは、母と私が出会った面で、おそらくは主に母がそのように私を見た、信じたから。
母の目が私に力と輝きを与えた。
存在は絶対ではなく関係の中でその場に発生するライブ、ジャムセッションだ。
自分というものも、出会ったものに合わせて反応しあい、その都度新たに鳴り響く音だ。
相手と自分で共同でお互いを発生させる場を作るのだから、つまり相手は、かなり、自分だ。
必要があって写真を探していて、結局娘に一緒に自撮りしてもらった。
風邪っぽくて調子もいまいちで写真なんて撮りたい気分じゃなかったけど。
撮れた写真の中で、娘の横の私は、柔らかく輝いていた。
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