平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

自分史(2005年12月)

2006年01月07日 | バックナンバー
 『地球のまわる音を聞きながら』(光文社)という本の著者・原水音さんは、若くしてアメリカに渡航し、人里離れたカリフォルニア山中で暮らし、その後、日本に帰国してからも、屋久島や熊野山中で自然と一体の生活を送ってきた女性である。原さんは、「結婚願望ゼロ、子どもがほしいなんて思ったこともない。都会志向の私が、電気もガスも水道もない山のなか、赤ちゃんを産み育てることになるなんて、つくづく人生って不思議だ」と書いているが、たしかに、世間一般のルートからはかなり逸脱する、不思議で波瀾に富んだ人生である。

 この本は、第一四回北九州自分史文学賞の佳作に入賞した作品だという。この賞は、「誰もが一編の物語をもっている。人生はひとつの長編小説です」というコピーで、作品を募集している。

 「自分史」という言葉は、いつから使われるようになったのだろうか。この賞は平成の初めから開始されているので、その頃から一般的になったのだろう。

 自分史は言うまでもなく自伝の一種である。ただし、自伝が著名な人物の自分史であるのに対し、自分史は、いわば名もない庶民の自伝である。著者が有名人ではないからといって、その人生が興味深くないということはない。どんな人生にも、その人独自の貴重な体験が含まれている。それが自分史の魅力である。

 自分史の流行の背景には、個の自覚の高まりがあるのだろう。たとえ自分の人生が世間の華やかな脚光を浴びるものではなくても、そこには何かの意義があるはずだ、それを本という形で確認し、できれば他の人々とも共有したい――そういう願望があるのだろう。そして、パソコンやインターネットの出現によって、自分史を本として出版することが、以前よりもはるかに容易になっている。

 だが、自分史を書くには、まず書くに値するだけの人生を生きなければならない。人生は「長編小説」、人によっては「短編小説」かもしれないが、たしかにある種の物語ではある。その物語が波瀾万丈の方もいれば、平凡な方もいるだろう。平凡だからといって、それが無意味ということにはならない。大切なことは、人生という物語を通して何を学ぶか、ということであろう。その物語が苦労や失敗の連続であったとしても、愛や感謝や希望の結末になれば、それは素晴らしい物語である。逆に、成功と幸福の人生でも、内面性の成長が感じられなければ、つまらない物語となる。

 自分史を本として著わす人は今でも少ない。だが、執筆とは無関係に、私たちはすべて、日々の想念行為によって、宇宙に一つしかない自分史を創造しつつあるのだ。それを光明の自分史とすることは、私たちの責任である。

原さんのHP