平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

京都会議(1998年2月)

2005年02月18日 | バックナンバー
2月16日に京都議定書が発効したので――

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京都会議(1998年2月)

 昨年(1997年)十二月の地球温暖化防止のための京都会議で、日本は二酸化炭素の排出量を、一九九〇年に比べて六%削減することを義務づけられた。EUは八%、アメリカは七%の削減である。日本が最も少ない削減率であるが、三地域の中では、日本の数字がいちばん厳しいと言われている。

 EUの八%というのはEU全体での平均で、各国ごとの削減率はまちまちである。最初、EU各国が削減すべき量を持ち寄って計算したところ、十五%という数字が出た。このように大きな数字が出たのは、なんといっても旧東ドイツの削減分が大きい。基準になる一九九〇年というと東西ドイツ統一の年であるが、東ドイツには膨大な二酸化炭素を吐き出す非効率な工場がまだたくさんあった。古い工場を閉鎖したり近代化するだけで、ドイツは自然に大量の炭酸ガスの削減ができるのである。

 アメリカは最初〇%を主張していた。それを七%にしたのだから、大幅な譲歩のように見えるが、アメリカは二酸化炭素の排出権の売買を認めさせた。隣国メキシコの排出分を買うことができるのである。したがって、金さえ払えば、今まで通りの生活や経済を続けることができる。

 これに対して、日本は自動車や電気製品の省エネ技術ですでに世界のトップレベルにあるから、これからさらに六%削減するのは非常に厳しいのだと言われている。会議の議長国である日本は、米欧に足元を見られ、一国だけ過酷な削減義務を背負わされたわけである。交渉下手な日本は、欧米にうまくトランプのババを押しつけられたようなものである。

 とはいえ、欧米のずるさや日本政府の拙劣さに腹を立てても仕方がない。この厳しい数字をチャンスとして生かさない手はない。日本は省エネ技術が進んでいるとはいうが、日本人の生活は決して省エネ型ではない。テレビやラジオの深夜放送や、二四時間営業のコンビニや自動販売機など、今日の生活にはあまりにも無駄と浪費が多すぎるのではなかろうか。

 これまで日本人は、経済発展と物質的豊かさの増大を自分たちの生きる目的としてきたが、「もっともっと」という物質的欲望の拡大的充足は、環境問題によってはっきりと枠がはめられた。欲望の充足が生きる目標になりえなくなったときに、人びとは何を人生の目標とし、幸福としたらよいのだろう。環境問題は、人間にとって真の豊かさとは何か、真の幸福とは何か、ということを考え直すよい機会を与えてくれたことになる。

 幸福とは最終的に、自分の心の中に感謝と喜びがわき上がることであろう。物質的にどんなに豊かになっても、心が満たされなければ幸福ではない。この機会に私たちは、外面にばかりではなく、自分たちの内面に、もっと心の眼を向ける必要があるのではないだろうか。
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日本は1990年当時に比較して、二酸化炭素排出量が8%増加しています。ということは、これから14%も減らさなければならないということで、たいへんなことです。

議定書の制定から発効まで7年もかかったことが残念ですが、アメリカが議定書から離脱したことにはあきれます。アメリカだけで世界のCO2の1/4を排出しています。

さらに、世界の13%の中国、日本の5%に次ぐ4%のインドが、開発途上国という理由で、削減義務から免除されています。

世界各国の二酸化炭素排出量

このままでは、京都議定書が発効しても、世界全体の二酸化炭素の削減にはつながらないでしょう。

しかし、他国がやらないから日本も努力する必要はないのだ、ということにはなりません。日本の役割は、二酸化炭素の削減と国民の幸福が両立しうるというモデルを世界に示すことにあると思います。そういう日本の行き方は、やがて世界中のあこがれの的になるでしょう。

かつてアメリカでマスキー法という、自動車の排ガスを規制する法律が作られたとき、当初、日本の自動車メーカーは厳しすぎるといって悲鳴を上げましたが、結局、マスキー法をクリアーする自動車を開発し、その結果、燃費がよく有害排ガスも少ない日本車の性能が世界的に認められました。

これは自動車産業だけのことでしたが、これからは日本全体として二酸化炭素の削減に取り組む必要があります。そのためには、個々の産業分野での省エネ努力だけでは不十分で、日本人全体の意識の変革と日本の社会システム全般の変更が必要とされるでしょう。

参考:京都議定書は日本のチャンス