平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

4億5000万人の祈り

2005年02月04日 | Weblog
スマトラ沖地震に関連した話題をもう少しつづけます。

「萬晩報」というメルマガに、ロンドン在住の藤澤みどりさんという方が、以下のようなレポートを載せていました。

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 ヨーロッパは一昨日(2005年1月5日水曜日)、南アジアの津波被害者への共感をこめて、EU加盟国25カ国で4億5000万人が、正午の鐘の音とともに3分間の沈黙のときを持った。この大がかりな3ミニッツ・サイレンスは、死亡が確定した人々や行方不明者への追悼として行われただけでなく、けがをした人や親をなくした子どもたち、家を失った人々、親しい人を亡くした人々すべてへの連帯を表すために行われたものだ。

 わたしは、まだ冬休み中の息子と自宅でその時を過ごしたが、ビッグベン(英国国会議事堂の大時計)がテレビ画面の中で正午を告げると、同時に近所の教会からも鐘の音が響き、それから静けさが、ウイークデイの日中としては信じがたいような静けさが訪れた。

 こんなに規模の大きなサイレンスは初めてだが、いままでに経験したダイアナ妃やクイーンマザー、セプテンバー・イレヴンの被害者を追悼するサイレンスなどでは、あたりがほんとうの静けさに包まれるのにいつも驚かされた。サイレンスの開始時刻が近づくと地下鉄もバスも最寄りの駅やバス停で停車してその時を待ち、路上を行き交う車も路肩に寄って停車する。商店のレジや銀行の窓口にはサイレンスの告知と、その時間帯にはサービスが行えないとの但し書きが張り出され、動きを止めることによって支障がある事象を除いたすべての動きが停止する。

 かつてもっとも驚いたのはラジオがまったく沈黙することで、初めてラジオを通じてサイレンスを経験した際に、いくらなんでもラジオが完全に黙ることはないだろうと、鐘の音か静かな音楽が流れるのを予期していたので、サイレンス開始を告げる教会の鐘の後に完全な沈黙が訪れたとき、ちょっとどきどきした。この静けさの中でサイレンスに参加するそれぞれが被害者を思い、神か自然か、あるいは自分自身と対話し、祈る。

 一昨日はテレビを見ていたのだが、やはり音は何もなく、全国の何カ所かに置かれたカメラがとらえた映像が、あらかじめプログラムされているのだろう、一定の間隔で次々に切り替わっていた。取引のその場で立ちつくし頭を垂れるシティの人々、ショッピングセンターのアトリウムで沈黙する買い物中の人々、赤絨毯の階段の途中で立ち止まった外務省のオフィサーたち、支援物資の荷造りの手を止めたエイドワーカーたち、仏教寺院の人々・・・。動いていたのは、額を床にこすりつけたり立ち上がったりして沈黙の祈りを繰り返すムスリムの人々と、寺院の床をくったくなく這い回るスリランカ系の小さな男の子だけだった。

 ロンドン市民にとって、これは大晦日の2ミニッツ・サイレンスに続く津波被害に対するふたつめのサイレンスになる。しかし、世界の多くの場所で多くの人々が悲しみを共有した大晦日のサイレンスや黙祷の儀式とは違い、この日の3ミニッツ・サイレンスには悲しみや傷みだけでない、何か希望のようなものがかすかに感じられた。

 欧州各地のNGOに対して、それこそ洪水のように押し寄せる人々の善意が、まだ引きも切らずに続いているせいかもしれない。そして、そうした市民の志による圧力が、政府の財布を緩ませている事実がある。あの日、ホリディ客として滞在していた地で被災したにもかかわらず、そこにとどまったばかりか新たにボランティア組織を立ち上げた少なくない人々がいる。地域の経済を応援するために休暇先を変更せずに、もしくは他の場所からこの地域に変更して、あえて新年のホリデイ客となった多くの人々がいる。そうしたことのすべてが始まりの予感に満ちている、ように思える。思いたい。

 3分間の沈黙を通して、ヨーロッパの人々の気持ちが南アジアに正面から向き合った時間、もしかすると、これが今世紀はじめの転換点のひとつかも、と思わせる3分間だった。何かが変わるかもしれない。何かを変えられるかもしれない。・・・・・
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4億5000万人というのは赤ん坊まで含めたEUの総人口です。その半分の2億人あまりの人々が参加したとしても、すごいことです。数億人が同時に、心を一つにして被災者に心を向け、祈りを捧げる。心はエネルギーです。意識はエネルギーです。普段は人類の意識はてんでばらばらな方向に向かっていますが、それが一点に集中する。それは人類の集合意識を変え、地球の波動に大きな影響を与えるに違いありません。

おそらく藤澤さんは、普段はとくに祈りや瞑想を実践なさっている方ではないと思います。そういう方でも、「この日の3ミニッツ・サイレンスには悲しみや傷みだけでない、何か希望のようなものがかすかに感じられた」「もしかすると、これが今世紀はじめの転換点のひとつかも、と思わせる3分間だった。何かが変わるかもしれない。何かを変えられるかもしれない」と感じたのです。

もし人類63億すべてが同時に世界平和という一つの目標に向かって祈りを捧げたならば、世界はどうなるでしょうか。

人類すべてとはいいません。せめて日本人だけでも、政治上の立場の違いはさておいて、同時に世界平和を祈るひと時を持つべきではないでしょうか。

いや、日本人はもうそれを部分的には実践しています。毎年8月15日正午に1分間、戦没者を追悼する黙祷が行なわれています。甲子園の高校野球では、選手がプレーをやめて黙祷します。しかし、いくつかの会場を除いては、多くの人々は日常生活の喧噪の中でこの1分間を忘れているようです。

「取引のその場で立ちつくし頭を垂れるシティの人々、ショッピングセンターのアトリウムで沈黙する買い物中の人々、赤絨毯の階段の途中で立ち止まった外務省のオフィサーたち、支援物資の荷造りの手を止めたエイドワーカーたち、仏教寺院の人々・・・動いていたのは、額を床にこすりつけたり立ち上がったりして沈黙の祈りを繰り返すムスリムの人々と、寺院の床をくったくなく這い回るスリランカ系の小さな男の子だけだった。」

という姿は日本では見られません。「ウイークデイの日中としては信じがたいような静けさ」が訪れることもありません。

今年は終戦60周年。広島・長崎原爆60周年。8月6日、9日、15日には、日本人が心を一つに、心から戦没者を追悼し、世界人類の平和を祈念するひと時を持てたら素晴らしいと思います。

藤澤さんの記事