おおさか佳巨 街頭演説のブログ

減価する地域通貨ですべての改革

内からの発想 2

2009年09月24日 03時34分14秒 | Weblog
アフリカの途上国など自給自足が成り立っている地域に、貨幣というものを教えると、一年のうちに、工場ができて、都市ができて、博打ができて、売春ができて、家族が崩壊するという。

これは極端に貨幣が未発達な地域へ、極端に貨幣が発達しすぎた円やドルなどを流しこむからこうなるんであろうが、中世日本ではゆっくりと貨幣が発達したため、そこまでひどくはないが、朝廷支配の末期は貨幣と貿易が発達し、それが崩壊したために、世の中は乱れた。


この場合、関東・鎌倉のような自給自足地域に武家は成長する。貨幣時代から土地時代への変換は武を媒体とするのである。


しかし、現代をみると自給自足地域は未だ数少ないながらあるものの、日本国内に貨幣は出回りまくっている。さらに、プラス利子制度は、利子が利子を生み出し、海を越えている。

海外の貧しい子供たちを救うためと言っては、円を外に出し、減らないお金が次々に途上国で周り出すためにますますの貧困を作り、戦争の要因を作り、それが環境破壊を作っていることに、ほとんどの指導者が気付いていない。


これに気付くのにあと何年を要するのだろう。


そのためには、我々は鎌倉と同じ場所を必要とするわけだが、プラス利子の害が大きすぎるため、また貨幣力が国内の隅々にまで至っているがゆえに、マイナス通貨を必要とするのである。

しかしこれはあくまでも道具であって、主力は土地力である。この土地という概念は近代資本主義で言う地価とは違い、自然としての土地である。

現代では土地を地価としてみなす。つまり宅地の価値であって土質はあまり関係してない。宅地というのは、そこに建物を建築し、賃貸して金を取ったり、建売りして金を取ったりしての価値であるが、古代以来、こんな考え方をしているのは近代・現代だけである。


そもそも土地は、土壌が良いか悪いか、作物がとれるか、とれないかで判断されるのが自然の在り方である。

したがって作物を採取し続ければ土壌はやせる。つまりは地価が下がるのが当然である。

土地もまた、時間とともに減価するのが当然であるのだが、シルビオ・ゲゼルの自然的経済秩序ではそのようになっていない。

貨幣の減価方式によって、土地投資へ逃げないように、土地税を課しているわけだが、これは自然に反していると言えよう。

したがって、自然主義経済では土地税を取らない。土地もまた自然と同じく減価しているからである。


つまり土地を主として、貨幣を従たる物とみなす。




源頼朝は、新天地を求め東を開拓した。
土地力を持つ武家が、貨幣・貿易を中心とした京を飲み込む。

源氏三代のあとは、北条氏による知識人時代。それも末期にはやはり京都からの貨幣流入を招く。流通により発展するが、またもや破綻する。徳政令を出すが、御家人の不満が高まり、悪党が生まれ、鎌倉幕府は倒れる。

その後の室町も江戸も明治も昭和も、全てこのサイクルが当てはまっているのだ。

そこで、土地時代・武の時代のときに、自然主義経済を導入したならばいったいどうなるのか。

貨幣時代・富の時代最期の破綻というのが切り抜けられそうである。

全く別の要因が出てきて、このサイクルには忠実に執行されそうな気もするが、今考えられる範囲では、これが最適であると考える。


では具体的に何をなすか。

それは地方主権での各地の自発的な自治権獲得である。

自民党が言うのは道州制で、中央を分権したものである。

民主党が言うのは、地方主権であるが、中身をみると、結局自民党と同じく、中央権力を分散するだけだ。

なにしろ、今の既成政党は全て貨幣から物事を考えているから枝葉末節にしかならない。いずれにしても、国税の徴収割合を地方にするというのは、真の地方主権とは呼べない。

平和党の地方主権は土地から考え、貨幣からは考えない。もともと東京には生産力がないわけだから、なぜゆえにペコペコしながら、霞ヶ関の意向なんかを気にしなきゃいけないのか。

これは我々が勝手に、貨幣とは力があるものだとか、官僚は権力者だなどと思いこんでいるのが原因である。

お上の決めた形式がどうだろうと、実質・実情が支配するのである。

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