源頼朝は1180年10月に鎌倉入りし、西には上がらず東国の安定確保に務め、1192年7月に征夷大将軍に就任している。征夷大将軍は後追いで、つまり事実が先で、名は後。
源頼朝は1190年に、法皇に征夷大将軍のポストを要求しているが拒否されている。この年、いいくれとはならなかった。
法皇死去により征夷大将軍となっているが、何のポストだろうと実質上支配していることなので形はどうでもいい。
武士たちからすると、土地権利の由来やら伝統を重視する律令政治とは常に対立してきた。そこで現状を優先させる源頼朝の元へ集ったわけだ。
ではここで言うところの実質とは何か。
歴史研究者などは、政治を見るとき、ほとんど上から考えている。しかし実際には、近代以前は、ほとんどの民は上から支配されていない。年貢を取られるのは農民だけであるし、商人から徴税するにしても、集落の隅々まで戸籍を把握しているわけでもなく、現代よりも自由がそこには存在した。ただし教育や福祉などの行政サービスは受けられない。であるからこそ近隣のコミュニティーが発達し、政府介入なしで成り立っていた。
そのような中、天皇がこの国の支配者だなどと言ったところで、ほとんどの人は、おら関係ねぇと思うだろう。天皇をありがたがるのは、権力を欲しがる一部の特権階級だけだ。無学文盲の民にとっては自分たちの生活が最も大事なことであり、そういう能書きだらけの権威はありがたくない。
民衆が土地の境界線を巡って争われた場合は、武力を背景にした武士によって調停され、外敵が現れたならば民を守り、治安を維持し、コミュニティーに溶け込み、地域内での信頼を得ることを目的とした。そのためには、公権力を証明するための法的根拠など必要ない。頭でっかちは法的根拠を常に言うが、そんなものを云々語るよりも、今目の前に起きている問題をいかに片付けるかが優先されることだった。
これは中央権力が形式ばかりで内実には崩壊しているからだ。
つまりは現実が先行するということであり、こうした環境は、流通が発達し、中央権力が発達し、モノ・カネ中心の社会が出来上がって、それが徐々に崩壊してくるとこうなる。
流通・貨幣は、朝廷のある京都から西側に巻き起こり、大陸とは貿易で結ばれ、学問と経済が発達してくる。
逆に関東は閉鎖されている陸の孤島だった。
京都でのエリートコースから外れた公家がわずかにいて、彼らは京都を飛び出し、地方に住み、地元に密着し、地方力を養っていきそれが武士となった。その土地が当時は関東であった。
京都の貨幣力に対して、鎌倉初め関東は土地力を持った。土地力は生産力であり、自然万物と直結した経済システムがそこにはある。
そこで源頼朝は東国の王となった。京都のお上がどうだろうとそんなものは届かない。地方には地方の明るい暮らしがあり、架空の富たる貨幣に支配されない社会があった。机上の指揮命令など全く無力であり、実力がものを言った。
こうした幕府の存在に危機意識を持った朝廷は幕府打倒に立ち上がる。しかし朝廷が指令したのは上級武士であり、彼らが動いても下は動かなかった。
これはなぜか。公家・知識人の発想は、上が動けば下も動くと考えるからだ。
経済人の発想は、カネを払えば人が動くと考える。ここが彼らのウィークポイントであり、いつもこれで彼らは武人に敗北するのだ。
武家は政権奪取後、否が応でも、知識人の政策シンクタンクを作ることを余儀なくされ、統治機構を作り上げ完成する。
しかし知識人グループが政権をとろうとすると武人を支配できない。知識人グループが我を張り、武人グループに対抗すると間違いなく負ける。従って、知識人は、武人が政権をとるまで武人グループ傘下に収まっておくことである。それか若しくは竹中平蔵のように、守銭奴グループ傘下の知識人として生きるかである。
なにしろ、守銭奴グループは奴隷グループに滅ぼされ、次に武人グループが台頭してくる。
武人グループは、土地に根ざし、地元民と生活に密着し、開墾し、農業を発達させ、農民を増やし、外敵の脅威を退け、自然災害からの防御をなす。
これが内からの改革である。
つまりは、中央の能書き政治ではなく、地方の汗からの天下取りである。
そのためには現代では地方主権が発端となり、自民党や民主党という上から政党、そして霞ヶ関の官僚組織が解体していく。
これらを解体するには、民主党のように大臣を変えて上からの改革をするのではない。内から改革するというのは、全く新たな中心力を設け、すでに衰退しつつある中央政府の自然消滅をまつのである。
源頼朝は1190年に、法皇に征夷大将軍のポストを要求しているが拒否されている。この年、いいくれとはならなかった。
法皇死去により征夷大将軍となっているが、何のポストだろうと実質上支配していることなので形はどうでもいい。
武士たちからすると、土地権利の由来やら伝統を重視する律令政治とは常に対立してきた。そこで現状を優先させる源頼朝の元へ集ったわけだ。
ではここで言うところの実質とは何か。
歴史研究者などは、政治を見るとき、ほとんど上から考えている。しかし実際には、近代以前は、ほとんどの民は上から支配されていない。年貢を取られるのは農民だけであるし、商人から徴税するにしても、集落の隅々まで戸籍を把握しているわけでもなく、現代よりも自由がそこには存在した。ただし教育や福祉などの行政サービスは受けられない。であるからこそ近隣のコミュニティーが発達し、政府介入なしで成り立っていた。
そのような中、天皇がこの国の支配者だなどと言ったところで、ほとんどの人は、おら関係ねぇと思うだろう。天皇をありがたがるのは、権力を欲しがる一部の特権階級だけだ。無学文盲の民にとっては自分たちの生活が最も大事なことであり、そういう能書きだらけの権威はありがたくない。
民衆が土地の境界線を巡って争われた場合は、武力を背景にした武士によって調停され、外敵が現れたならば民を守り、治安を維持し、コミュニティーに溶け込み、地域内での信頼を得ることを目的とした。そのためには、公権力を証明するための法的根拠など必要ない。頭でっかちは法的根拠を常に言うが、そんなものを云々語るよりも、今目の前に起きている問題をいかに片付けるかが優先されることだった。
これは中央権力が形式ばかりで内実には崩壊しているからだ。
つまりは現実が先行するということであり、こうした環境は、流通が発達し、中央権力が発達し、モノ・カネ中心の社会が出来上がって、それが徐々に崩壊してくるとこうなる。
流通・貨幣は、朝廷のある京都から西側に巻き起こり、大陸とは貿易で結ばれ、学問と経済が発達してくる。
逆に関東は閉鎖されている陸の孤島だった。
京都でのエリートコースから外れた公家がわずかにいて、彼らは京都を飛び出し、地方に住み、地元に密着し、地方力を養っていきそれが武士となった。その土地が当時は関東であった。
京都の貨幣力に対して、鎌倉初め関東は土地力を持った。土地力は生産力であり、自然万物と直結した経済システムがそこにはある。
そこで源頼朝は東国の王となった。京都のお上がどうだろうとそんなものは届かない。地方には地方の明るい暮らしがあり、架空の富たる貨幣に支配されない社会があった。机上の指揮命令など全く無力であり、実力がものを言った。
こうした幕府の存在に危機意識を持った朝廷は幕府打倒に立ち上がる。しかし朝廷が指令したのは上級武士であり、彼らが動いても下は動かなかった。
これはなぜか。公家・知識人の発想は、上が動けば下も動くと考えるからだ。
経済人の発想は、カネを払えば人が動くと考える。ここが彼らのウィークポイントであり、いつもこれで彼らは武人に敗北するのだ。
武家は政権奪取後、否が応でも、知識人の政策シンクタンクを作ることを余儀なくされ、統治機構を作り上げ完成する。
しかし知識人グループが政権をとろうとすると武人を支配できない。知識人グループが我を張り、武人グループに対抗すると間違いなく負ける。従って、知識人は、武人が政権をとるまで武人グループ傘下に収まっておくことである。それか若しくは竹中平蔵のように、守銭奴グループ傘下の知識人として生きるかである。
なにしろ、守銭奴グループは奴隷グループに滅ぼされ、次に武人グループが台頭してくる。
武人グループは、土地に根ざし、地元民と生活に密着し、開墾し、農業を発達させ、農民を増やし、外敵の脅威を退け、自然災害からの防御をなす。
これが内からの改革である。
つまりは、中央の能書き政治ではなく、地方の汗からの天下取りである。
そのためには現代では地方主権が発端となり、自民党や民主党という上から政党、そして霞ヶ関の官僚組織が解体していく。
これらを解体するには、民主党のように大臣を変えて上からの改革をするのではない。内から改革するというのは、全く新たな中心力を設け、すでに衰退しつつある中央政府の自然消滅をまつのである。
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