おおさか佳巨 街頭演説のブログ

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幕政復古の大号令

2009年09月24日 03時36分24秒 | Weblog
ネット右翼の語る国家観というのは、ことごとく、近代西洋に乗せられた国家論である。

まず、日本を一国と見立てている。これは日本を統治しやすいようにするためだ。例えば、インドネシア、ミャンマー、カンボジアもラオスもそれぞれ国内で一国という感覚はない。言語もバラバラだったが、首都の言葉や植民地支配した西洋の言語で統一させた。

それから比べれば、日本ははるかに国内での言語は近似だが、明治初期の軍人たちは方言があまりにもきついために日本人同士でありながら英語で話し合っていたという事実からすると、現代人の我々が考えているよりももっと言語差があり、食文化も違っていたような感じもする。

ましてや、国という言葉は、日本国内の地方、武蔵とか相模とか摂津とか筑前とかを指しており、これを国という単語を無理やり当てはめ、一つの国家観を人造したと思われる。

東南アジア各国のように、日本を植民地にするとき、一国であるほうが管理しやすいというのがあるだろう。

十九世紀から、西洋による勝手な国境線引きによって、日本ばかりでなく、アジア、中東、アフリカに至るまで西洋論理の国家論を無理やり象られたのである。

西洋では一国一王が当たり前であるから、日本は明治維新のさい、それまでに並存していた幕府と朝廷を一極化し、明治天皇でまとめた。これでどうだ。西洋と肩を並べられるフツーの国だろうと主張できたわけだ。

さらに幕藩体制というのもやめ、中央集権にした。これも西洋の真似。

で、それ以来、輝ける古代、暗黒の中世、開花した近代を語るわけだ。

輝ける古代はいいとして、暗黒の中世は、天皇様に武家なるヤクザもんが封建社会という前時代的で専制的で野蛮な時代を断ち切った、素晴らしい明治維新であるというわけだ。


しかしその近代によって、一国一極化が進められ、環境が破壊され、家族社会や地域社会が崩壊されている。

これは国の概念を一つにしてしまい、責任と郷土愛を曖昧にした結果である。

したがって、陸奥・出羽から薩摩・大隅にいたるまで、そして蝦夷と琉球という、日本多国籍制度に戻し、多神教の概念に戻るべきではなかろうか。

日本の民族主義者は、最も日本的なところから遠くにいる。明治維新から一神教のごとく天皇一色にし、国家は一つだと言い張る。


西洋の土台に乗ってしまったため、当初はアジア防衛だったのが、西洋論理に引き吊られて、植民地侵略に手を出し、軍隊の方式は全て舶来。日本人としての身体操作術を忘れ、ハンバーガーを食いながら愛国を語る始末である。


明治維新は王政復古だというが、古代の王政とは大きく異なっており、単にヨーロッパの王政真似っこに過ぎない。


今、必要なのは幕政復古である。江戸時代の循環型経済社会を取り戻し、山を川を草を木を取り戻し、バラバラに崩壊した地域社会を取り戻すことではなかろうか。


政府は一つではないというのが東洋の考え方だった。今、永田町や霞ヶ関なんぞを相手にしても全く無意味だ。


他国の脅威があるのなら日本多国籍軍が防衛すれば良い。国家が一つであっても、地域社会がバラバラでは何の意味もないではないか。蝦夷から琉球まで、それぞれがガッチリした小国があり、その小国がガッチリと組めばいいのであって、それが地方主権となり、世界のグローバル金融と対等できる方法ではなかろうか。

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