おおさか佳巨 街頭演説のブログ

減価する地域通貨ですべての改革

銭の武人→土地の武人 への転換

2009年09月24日 03時37分11秒 | Weblog
鷹派で知られる石原慎太郎、これになびき警察力の強化を促進してきた松沢成文、上田清司、森田健作らが隣接自治体にいる。また大阪には橋下徹がいる。彼らはいずれも元知事が利権にまみれた政治家であり、前知事は市民の反乱によって登場してきた奴隷側の味方であり、青島幸男や堂本暁子がいた都府県である。

宮城県でも浅野史郎という奴隷側の味方から、陸上自衛隊出身の村井よしひろに変わり、長野県でもまた奴隷側の味方、田中康夫に変わったのは防災対策担当大臣と国家公安委員長を務めた村井仁。

宮崎県は一歩遅れ、利権知事から東国原英夫へ。名古屋市も河村たかしに。

このように考えると、宮崎県と名古屋市を除き、武人政治家への交代はすでに終わったように見える。

しかしながら、これら知事はいずれも守銭奴時代を引き継いでしまい、迷走している。

新銀行東京は破綻寸前、大阪府は行政の効率化を求めた公務員切りと民営化は格差社会を助長している。宮崎県の産物は他県に買ってもらうことにより銭を儲けようというわけだ。


逆に利権政治に戻る自治体もあり、中央政府からの配分を待つという昔ながらの発想しかない政治家も多くあり、結局全てはカネが支配する世の中を延長させている。


彼らはタイプは武なのだがやってることがカネカネだ。


これは、完全武人政治に入る前に、守銭奴援助型の武人政治家が現れるからである。守銭奴援助型武人政治をしばらく続けないと次に進まないという歴史がある。

大東亜共栄圏の名目は、アジア民族自身による欧米植民地からの解放と、アジア民族の共存共栄を図るものであった。

しかし、それならばもっと早くからやっていれば良かったのであり、実態は日本に石油、ゴム、ボーキサイトが回らなくなり、領土の拡大を必要とした。軍政による労働力調達が優先であるとし、軍票による軍事資材の調達、土木作業や鉱山労働への強制動員など経済の拡大を目的としたものであった。

結果、敗戦しGHQが支配し、財閥は解体され、以来米軍が居座っている。彼らは今と違って経済を目的とせず武力により支配するため基地を置いていった。つまり価値観は経済よりも軍事にあった。そして日本軍を解体した。当時の彼らの基準は経済になく、軍事力をそぐことだった。


その前サイクルである明治維新の過程では、幕末における各藩がどのように藩政改革をしたかで勝敗が決まっている。

幕府打倒に成功した各藩は、金融ルールを無視し、土地力を増強させ、生産物を専売にし、得た利益を軍事へ注いでいる。

負けた側、幕府維持に動いて沈んだ各藩は、土地力よりも貨幣・貿易・金融を重視している。また、教育や文化が基礎だという考えを持ち、観念論に走り、得た利益を財政や学問に注いでいる。

まず勝った側から。薩摩は五百万両の負債を無利息250年というムチャクチャな長期返済で棚上げにし、一方黒砂糖の専売を強化し、琉球には土地及び海洋産物の増強に努めた。

長州の負債も銀八万五千貫を37年返済で棚上げ。紙と蝋の専売をし、下関では越荷方という方法を用い、商業都市たる大坂への商品流通を減少させた。


肥前は、均田制を実施し百姓体制を再建。陶磁器を専売にし、大砲製造所を設け軍備強化を図った。

土佐は改革派が支出緊縮による財政再建を図るが失敗。その後、紙と木材の専売で成功している。

宇和島は、紙、蝋、こうぞを専売。やはり兵隊の強化を図る。

一方、水戸は藩校の弘道館を設立したり、百姓改革をすることなく、ただ検地して終わり。行動よりも論理が重視された結果である。

同じく負け組の越前は財政再建には成功したものの、松前貿易や長崎貿易によるものである。つまり生産物がない。土地生産よりも流通での貨幣獲得に頼っている。




では、その前サイクルはどうか。これはまず織田信長がなした統一事業であるが、楽市楽座が有名。市場における自由取引を保証し、数々の商業税を免除。


続く豊臣秀吉は、天正大判などの貨幣を鋳造。経済都市である京都、大阪、堺、伏見、長崎などは貨幣獲得の場としては最高であるから直轄に置いた。さらには堺の千利休・小西隆左、博多の島井宗室ら豪商の経済力を掌握した。

しかし最後に勝ったのは徳川家康だった。徳川幕府は、財政では三分の二を年貢にし、新田開発を行った。村の自治にも力を入れ、領主→代官→村方三役→本百姓という制度や五人組を作った。

農民の地位を上にし、商人を最下位に置いた。織田・豊臣とは正反対である。



次にその前サイクル、鎌倉幕府の衰退と室町幕府の勃興は、鎌倉時代末期に貨幣経済が浸透したことにある。もともと関東は武士の基盤であり農の基盤であった。しかし貨幣が発達するにつれ、流通の基盤である京都に力を持って行かれることになる。

京の朝廷が経済力をつけてくると、幕府からの政権奪回を狙う。後醍醐天皇は足利尊氏を使って、幕府が朝廷を監視する六波羅探題を襲撃。

建武の新政を行われ、後醍醐天皇は大内裏の造営を計画。費用を捻出するために貨幣の発行を計画。地頭に費用負担を命じた。また、土地訴訟が多く、この時代は武人でなければ対応できなかった。

これにより建武の政権に反対する武士らが集まり、足利尊氏が支持を受け室町幕府が誕生する。室町幕府もまた、守護領国制など土地を重視し、戦国大名の制度が出来上がった。


その前サイクル、平氏政権も武人であるが日宋貿易を開始し、大量に輸入された宋銭は日本経済に大きな影響を与えた。

その後の源平争乱で源氏が勝つ。源氏のやったことは、守護・地頭の設置、幕府の経済基盤はことごとく土地である。


このように考えると、金融の儲けで東京都を運営しようとしたり、財政切り捨てで再建しようと考えている武人知事は、もう少しのさばらせておけば勝手に自滅するようだ。

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