質問1.
自然主義経済においては、、、例えば単純労働者と医者を代表とする高学歴労働者の生産価値というものがどう評価分けされるのでしょう。
自然主義経済においては、、、例えば単純労働者と医者を代表とする高学歴労働者の生産価値というものがどう評価分けされるのでしょう。
資本主義において『生活にギリギリの給与所得者』と『それなりに余裕を持てる給与所得者』という分け方で考えるか、資格取得までに年月と努力が必要な者とそれ以外と考えるかなのですが、、、それをどうするかが大きな疑問点なのです。。。
こういうのも資本主義に犯された考え方なのかもしれないのですが、それ次第で人は『努力する』『しない』の価値判断を見出してしまいます。。。単純労働と同じ価値なら、責任の少ないものを選びたいと考えるのが常ではないかということを仮定します。。。現代は恐らく資本主義における価値の差によって発展をしたものであろうと思いますので、この疑問を解決してもらいたいと思います。。。
回答1.
まず単純労働と高学歴労働の二つがなぜ存在するのかを考えてみます。
単純労働と高学歴労働の間にもいくつか段階があります。
単純労働と高学歴労働の間にもいくつか段階があります。
単純と言えず、熟練した技術を必要とする労働者もいるので、一概には言えないのですが、
例えば自動車の生産工場で働く単純労働者がいたとします。
例えば自動車の生産工場で働く単純労働者がいたとします。
今では、海外に工場をどんどん作ってコストを安くしようとしていることに現れているのですが、なぜそんなにたくさん自動車を作らねばならないのでしょうか。
メーカーはどんどんモデルチェンジさせて、売りつづけなければならない事情があります。前年の売上よりもアップを目指すからです。これが全体的になると経済成長ということになります。しかし、成熟した資本主義国がなす経済成長はたかが知れています。今後、どのように経済成長のカーブを描いていくのかというと、既存の政治家や官僚は、「このまま永遠に成長をする」ということを言っているにも等しいわけです。しかし、それはありえません。
自動車の生産がなす大量生産・大量消費は、自動車を作りながらも自転車操業しています。
経済成長をする限り、当たり前ですが利子はプラスなわけです。プラス利子ということは、前年よりも今年はもっと、来年はもっともっと、再来年はもっともっともっとと売上を上げないと無理です。
そして無理して作った自動車は、無理して、買わせようとするため腕のいい営業マンが必要になってきます。無理して売るのでコマーシャルもバンバンやります。広告収入を得るものが出てきます。こうしてお金がひろがるわけです。
経済成長をする限り、当たり前ですが利子はプラスなわけです。プラス利子ということは、前年よりも今年はもっと、来年はもっともっと、再来年はもっともっともっとと売上を上げないと無理です。
そして無理して作った自動車は、無理して、買わせようとするため腕のいい営業マンが必要になってきます。無理して売るのでコマーシャルもバンバンやります。広告収入を得るものが出てきます。こうしてお金がひろがるわけです。
つまり、こうした単純労働の存在そのものが資本主義経済と密接な関係があると考えられます。必要以上に作らなければ、現在のシステムでは経済が成り立たないからです。そのために本来のものよりも過剰に労働力を欲するわけです。そして安い賃金で働かざるを得ないのも、労働者は大資本を持たないからです。大資本をもつ自動車会社が強いわけです。労働組合の運動は、企業・政府も含めてこの大資本からいかに自分たち低所得者にお金をまわすかに主眼が置かれ、企業はいかに安く仕上げて資本を増やしていくかに主眼が置かれます。ここに誰をも不幸にしてしまう制度が作られているわけです。労働者は低賃金で生活水準を制限され、企業はコスト低下による欠陥品で不祥事を起こしたりします。
では、本来のものとは何か。
大量生産をしないことです。これはきちんと試算しなければなりませんが、大量生産をしなくても欲しい車は、人が欲しいだけ供給されます。壊れた電気製品を修理するよりも、新しいものを買うほうが安く済むというのは、資本主義が成長して成熟を迎えると出てくることです。大量生産という1品あたりのコストが安くなる事によって新しいもののほうが安くなります。昭和50年くらいまでは、まだモノを大切にして修理する習慣があったと思います。江戸時代にはオールリサイクルです。ほとんどゴミがでませんでした。古紙回収においても、儲からないためみんなやめていきましたが、また最近では中国に輸出するために復興しましたが、中国に売るなどもってのほかです。国内生産物は国内で消費するのが自然主義経済の原則です。
大量生産をしないことです。これはきちんと試算しなければなりませんが、大量生産をしなくても欲しい車は、人が欲しいだけ供給されます。壊れた電気製品を修理するよりも、新しいものを買うほうが安く済むというのは、資本主義が成長して成熟を迎えると出てくることです。大量生産という1品あたりのコストが安くなる事によって新しいもののほうが安くなります。昭和50年くらいまでは、まだモノを大切にして修理する習慣があったと思います。江戸時代にはオールリサイクルです。ほとんどゴミがでませんでした。古紙回収においても、儲からないためみんなやめていきましたが、また最近では中国に輸出するために復興しましたが、中国に売るなどもってのほかです。国内生産物は国内で消費するのが自然主義経済の原則です。
もともと日本人はモノを大切にする文化があったのですが、これがアメリカ型資本主義によってその文明観も崩されていっています。
したがって自然主義経済では、今の単純労働者は激減します。技術のある技士、設計など高学歴労働とされる人たちにとって代わるわけです。そうなると単純労働者だった人は、技士をめざして職人修行として働くか、自動車を作るのが好きでやっているわけではない人は、やりたい仕事に就くでしょう。これまで労働者だった人でも容易に自営業をできるので、得意な事をし始めます。得意な事とは、現在の資本主義でお金になることだけではありません。地域のボランティアでも絵描きでも評価が高ければより多くの収入を得ることができます。多くの収入を得たら、減価するのですぐに支出するでしょう。
そうなるといくらお金が現行制度よりも入ってき安いといっても、消費者はその技術の差によって買う買わないを判定するわけで、より技術の高い医者には患者は多く集まります。患者の集まらない医者の場合は、治療費を安くするでしょう。この点においては、資本主義経済とはかわらないと思います。
ただ少し違うのは、今まで「高いからいいものだ」という価値観が少なからずあったと思いますが、これが崩れます。「良いから高い」「悪いから安い」となると思います。価格競争で安値を競う必要がなくなり品質本位・サービス本位となります。
資本主義経済は、必ずしも「良いから高い」のではなくて、途中にマージンをとる人がたくさん人数がいたり、少数の人がたくさんとりたいからそうなるわけです。
自然主義経済だと努力しないと売る商品の価格は安くなります。
ところが、資本主義経済だと努力に関係なく、原材料がはるかに安い化粧品などのように「高いと思われているもの」を高くすることができるわけです。簡単に言うと「間にいくら乗せて、それがスンナリ売れるもの」が高くなるわけです。これを改めようということです。
すると必然的に、職業の評価によって価格が選定されることと思います。