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【日曜特集】厚木基地フレンドシップデイ米海軍航空百周年【1】基地入場(2011-09-11)

2017-11-12 20:00:39 | 在日米軍
■第五空母航空団日米友好行事
 アメリカ海軍100周年行事として行われました厚木航空施設第五空母航空団日米フレンドシップデイ、今回からその様子をお伝えしましょう。

 厚木基地、といいますと海上自衛隊厚木航空機とを示すと同時にアメリカ海軍厚木航空施設を意味します。厚木航空祭はWINGSとして2000年まで盛大に行われ、二日間で実に56万名という小さな政令指定都市並みの来場者で大いに賑わった事で知られるところです。

 アメリカ海軍空母航空団の海外における唯一の拠点でもある厚木基地は、神奈川県に位置し、横須賀基地へ前方展開するアメリカ海軍航空母艦、海外へ前方展開するのはフィリピンスービック基地閉鎖以降、日本が唯一となっていますが、この重要な艦載機の拠点です。

 厚木ウイングス、厚木基地航空祭は2000年を最後に実施されていません。2001年同時多発テロ以降の対テロ警備問題、更に首都圏の厚木基地が抱える重大な周辺人口増大に伴う騒音問題により、航空基地祭が出来なくなってしまった、という厳しい事情がありました。

 さくら祭り、として厚木基地は毎年春にアメリカ海軍が、そして秋に海上自衛隊が航空基地を一般開放していました。昨今は日米共同開催となり一回のみとなっていますが、規模は大きく縮小され、飛行展示は実施されないものの、地上展示を中心に実施されています。

 今回紹介します厚木基地日米友好祭は2011年9月10日に実施されました。九月とはさくら祭りも大きく移動したものだ、と思われるかもしれませんが、2011年3月11日東日本大震災により厚木基地は首都圏における横田基地と並ぶ重要な米軍拠点となっていました。

 東日本大震災は先進国で一日に一万数千もの人命が失われ数万の人命が危機に曝されるとともに世界最悪規模の原発事故を誘発という、第二次世界大戦後では戦災を含めて空前の大災害であり、アメリカ軍も四軍合同対日支援作戦“トモダチ作戦”を展開していました。

 アメリカ海軍は自衛隊の10万名規模の災害派遣を航空機や情報収集などでの支援を行うと共に、自衛隊が展開した事で顕在化の徴候があった周辺国による日本周辺海域での軍事行動へ空母戦闘群を含めた膨大な戦力で抑止し、結果自衛隊は災害派遣に専念出来た訳です。

 厚木基地へ話題を戻しますと、2011年は四月下旬や五月上旬に例年行われている厚木基地さくら祭りを開催できる情勢では無かった訳です。実際、当時の菅内閣、厚木の直前まで菅内閣でしたが、原発事故の情報を充分開示させず世界から大きな疑念を集めていたころ。

 アメリカ政府は名古屋京都以東の地域からの自国民退避の可能性を示唆し、時際のところ福島第一原発事故が制御不能となった場合、東京や仙台は今世紀いっぱい人が住めなくなるのではないかと真剣に危惧された時期であり、そんな時期にさくら祭りは開催できない。

 厚木基地日米友好祭は、これら事故が一旦は鎮静化し、九月に改めて実施する事が出来た訳です。なお、菅内閣はこの二週間前の8月30日に総辞職、当時の民主党代表選により野田新総裁が当選、衆議院首班指名選挙において野田内閣が指名された、そんな時期でした。

 綾瀬市と大和市に位置する厚木基地は、総面積506.9 ヘクタールという広大な敷地にあり、滑走路は2450m、アメリカ海軍第5空母航空団と海上自衛隊航空集団司令部が置かれています。飛行場施設は広大ですが滑走路を挟み、海上自衛隊とアメリカ海軍が共用している。

 相模鉄道本線さがみ野駅より徒歩20分、という立地にありまして、都心からも小田急線を相鉄線に乗り換え、気軽に足を運ぶことができる航空部隊行事です。WINGSの二日間来場者56万、と聞くと一歩引いてしまいますが、現在は飛行展示も無く往時程は混雑しない。

 日本海軍が1938年に建設した厚木飛行場が現在の厚木基地の始りです、厚木海軍航空隊がおかれると共に首都防空に活躍した厚木第302海軍航空隊が展開しています。しかし1945年の終戦と共に厚木航空部隊は終戦を拒否し単独交戦継続を宣言、厚木事件が発生します。

 厚木事件は航空部隊指揮官のマラリア悪化に伴い自然鎮圧となり、厚木基地の太平洋戦争は終り、8月28日にマッカーサー連合軍総司令官が専用機により厚木基地へ到着、日本への第一歩を歩む様子は歴史教科書にも載る今への日本戦後史への第一歩ともなっています。

 アメリカ陸軍航空軍第3爆撃群、第49戦闘群、第374輸送群が展開し東京周辺の哨戒任務に当たると共にフィリピンより第5戦闘機軍団夜間戦闘飛行隊が展開します。意外にもこの頃の厚木は陸軍飛行場であり、キャンプ座間第二野外物資集積所としても機能しました。

 アメリカ海軍飛行場としての厚木基地は1946年の木更津飛行場アメリカ海軍航空運輸支援集団厚木移転により始まりました。1949年には完全撤収検討が本格化しましたが1950年の朝鮮戦争勃発に伴い横須賀基地や横浜港等に近い厚木基地は最重要施設へと転換します。

 エセックス級空母が大量に維持されていたアメリカ海軍は、日本海軍より接収した横須賀基地へ複数の空母を前方展開させ、この空母艦載機の整備補給拠点や陸上訓練拠点として厚木基地は重要視されるとともに拡張工事を実施、朝鮮戦争中に現在の規模となりました。

 海上自衛隊創設後も厚木基地の重要性は変化せず、多くの空母艦載機が配備されていたことから海上自衛隊草創期には訓練以外での厚木基地使用は実現せず、厚木基地は長くアメリカ海軍航空隊専用の飛行場という位置づけで、朝鮮戦争停戦後はヴェトナム戦争が始る。

 ヴェトナム戦争期にはアメリカ海軍は常時三隻程度の航空母艦を南ヴェトナム沖に遊弋させる通称“ヤンキーステーション”を展開させ、北ヴェトナム空軍への航空優勢維持や近接航空支援、航空阻止任務へ空母航空団はその威力を最大限に発揮することとなりました。

 フィリピンのスービック基地はヴェトナム戦争時におけるアメリカ海軍の最大拠点となっており、特にスービック基地は太平洋戦争会背に膳からのアジア地域におけるアメリカ海軍の拠点で、朝鮮戦争時の最前線であった横須賀基地は今度は後方拠点となっていました。

 1968年にヴェトナム化政策として、ヴェトナム戦争におけるアメリカ軍の関与を順次縮小し北ヴェトナム軍への対処を南ヴェトナム軍へ移管する施策が進められますと、同時にアジア地域でのアメリカ海軍行動は徐々にその必要性を低下させる事となり、厚木も変化が。

 香港にイギリス海軍拠点が維持され、オーストラリア海軍に航空母艦があった時代、第二次世界大戦後にアメリカが運用を開始した横須賀基地や厚木基地よりも、戦前からの拠点であるスービック基地への回帰する動きが顕在化します。ただ、全て返還のリスクは高い。

 アメリカ海軍は日本への厚木基地返還を提示すると共に、厚木基地の民有地移行へは懸念を表明しました、要するにアジア情勢の転換により厚木基地を米海軍が必要とする状況は一時縮小するが、朝鮮半島有事や台湾海峡有事の際には再度使用する、という視点ですね。

 海上自衛隊航空集団司令部は、当時千葉県の下総航空基地に置かれていました。アメリカ海軍の撤収意向を受け、海上自衛隊は航空集団司令部を厚木へ移駐し、下総には航空教育集団司令部を置く方針を提示、これにより日米共同の厚木基地という歴史が始まりました。

北大路機関:はるな くらま
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