北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】頂法寺六角堂,聖徳太子持仏奉じた寺院は山城大飢饉救済経て町衆慕われる町堂へ

2024-06-19 20:22:45 | 写真
■聖徳太子と親鸞さん
 京都散歩は意外なほど多くの人々との歴史に描かれた行程を結びつけるものと毎回感慨深いのですが。

 聖徳太子の持仏を奉じたという六角堂、この持仏は如意輪観音像というもので、残念ながら秘仏となっています。浜辺に仏像が漂着するなんて見たことが無い、といわれるかもしれませんが、仏教草創期は元々からの州境と対立する事が多かったわけで。

 仏像はよく川や海に対抗する宗教から捨てられていて、木製の仏像は浮力があるものも存在済ますから、その生流れ着いた、というのは幾つかのお寺で所縁というものをお教えいただいたことがありまして、放流していたやつがいるならば漂着もあるだろう。

 平安遷都の頃には、六角堂は区画整理の対象にならないように自ら動いて大路に道を譲った、といわれるのですけれども、能登半島地震の側方流動が実際に起こり報道で目にしますと、動くこともあるのかなあ、と思いつつ、平安遷都後の造営はのではとも。

 寺院が周りにないことは前述の通りなのですが、故に拝観の方は多いものの観光ルートから外れていることで煩いようなことはあまり感じない、そして今はビル群の中にある寺院という風情なのですが、平安朝から鎌倉時代にかけては下町の只中にあった。

 清水寺と石山寺と長谷寺、鎌倉時代までに下町にありましたこの頂法寺は清水寺と石山寺と長谷寺と並ぶ観音霊場であったといいまして、既に庶民信仰はもとより僧侶の間でも有名となっていました、そして、特にかの親鸞さんがここに籠った事でも有名で。

 範宴、のちの親鸞さんは延暦寺の堂僧であったころ、建仁元年こと西暦1201年に六角堂で百日間参籠という修業を積んでいまして、これは当時京都で影響力を示し始めていました法然さんの浄土宗について、なかなか考えがまとまらず参籠したのだ、と。

 法然さんに帰依する事となった、もともとは範宴は延暦寺にて浄土宗という専修念仏が急速に影響力を伸ばしているために、その実情を調べてくるようにと命じられた先の帰依、という実情があるようですが、その際に考えをまとめたのが頂法寺、という。

 祇園祭がまもなく始まる季節ですが、室町時代にはこの頂法寺が山鉾巡行の順番を定めるくじ引きを行った場所といいまして、下町に位置することから集会所として、騒擾の時は民兵の集合場所に用いられるなど、暖かい話から血なまぐさい話まで。

 足利義政、このかたは室町将軍ながら権力集中を避けるために実験を与えられなかったことで結果的に応仁の乱がおこることとなってしまう悲劇の将軍であり、また銀閣寺たてたことで有名になったりした方なのですが、足利義政が民衆救済を行った場でも。

 山城大飢饉という寛正2年こと西暦1461年の大飢饉に際し幕府が粥施行という無料の食糧配給所を設置したのがこの頂法寺で、この施行はこのまま応仁の乱と共に京都が荒廃する中、町堂という下町の自治活動における中心地となっていった歴史もある。

 多聞院、不動院、住心院、愛染院、中世の時代には複数の塔頭寺院がありましたがいずれも現存せず、しかし町衆に慕われた寺院という事で過去18回もの火災に見舞われているものの、その都度町衆の支援を受け復興され今日に至る寺院となっていて。

 歴史散策というには、今現代こそ千年後には歴史だ、と言われる通り、世の中も価値観も変容し続けているところではあるのですが、こうした中に抗うというよりもゆっくりと佇む頂法寺の堂宇は、なにかこう、探訪を繰り返してしまうものなのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】頂法寺六角堂,京都の街中に聖徳太子と小野妹子の四天王寺造営にまつわる歴史

2024-06-19 20:00:58 | 写真
■六角堂探訪記
 嗚呼暑いとおもいつつ梅雨入りの時は梅雨入りの時で嗚呼湿いと嘆くのだろうなあと今の時点で思うが晴天は散策に活用したい。

 頂法寺、このお寺は京都の本当に中心部にあって、観光客にはあまり親しみはわかないかもしれないけれども京都では若い頃から思い出に残る場所である、何故なら隣に河合塾があって若者本来の野心を大学受験にぶつける場への通り道にあるから。

 本堂に受験生らしきかたの団体がお参りに来ているのを見ましたけれども、駿台とかいろいろあるのにとおもいつつ、神社の様な柏手を叩く参拝作法で詣でていまして、いやここはお寺、天台宗系単立寺院なのよ、とほほ笑んだのはちょっとまえのはなし。

 六角堂、まあ前述の河合塾は半分冗談としましてもここ頂法寺は通称六角堂という事で、地下鉄烏丸御池駅にもほど近く、ビルに囲まれた一角に、しかし歴史だけはもう滔々とというほどに連綿と湛えている独特の形状の堂宇とともに記憶に残る。

 記憶に残るといいますか、散策の際にふと立ち寄る、という風情がありまして、建物は相次ぐ火災により現存するものは明治時代初期に再建されたものなのですけれども、近くに喫茶店もいくつかありまして、ちょっと立ち寄りたくはなるときがあるのだ。

 XXXHOLiCのユーコさんのミセというか家に似ているね、と知人に言われまして、なるほど建物ん形状は全く違うけれども高いビルに囲まれてそこだけ時間は穏やかに流れているような気分になるのは、と、2000年代初頭の作品話題で意気投合したことも。

 この世に偶然なんてない-あるのは必然だけ、とはXXXHOLiCの主人公たる壱原侑子さんの台詞なのですけれども、必然かは別として烏丸かいわいを散策していますとここ六角堂は前を通ることも相応に多く、いや京都の街の成り立ちとも深くかかわっていて。

 中京区六角通東洞院西入堂之前町、この一角は、二条通りまで出て15分ほど歩けば二条城が見えてきますし、四条通まで下って30分ほど歩けば八坂神社が見えてくる、烏丸通を45分ほど歩けば東本願寺が見えるのですが、この周りに寺院はというと。

 用明天皇2年こと西暦587年に創建となったといい、平安遷都よりもはるか前から存在していたこととなります。もっとも昭和中期の発掘調査では飛鳥時代の遺物は発見されず、藤原道長の御堂関白記にはその名が記され、平安朝中期ごろの創建と言われる。

 天台宗系寺院なのですが、もともとのいわれは敏達天皇の時代に海岸に漂着していた仏像を聖徳太子がひろい、これを持仏像とした。この持仏像に戦勝祈願を行い物部守屋討伐に臨んだところ見事勝利し、その功徳に感謝し四天王寺を造営することとした。

 四天王寺建立のための木材を探し小野妹子とともに当地を訪れた際に近くの池で聖徳太子が水浴びをしていたところ、持仏像がその場所から動かなくなり、その再偶然出会った老師風の翁からここに寺院を造営する事を進められたのがこの寺院の始まり。

 聖徳太子が水浴びしたという池は、人工のいかにもというかたちにはなってしまっているのですけれども、堂宇に隣接して現存していまして、聖徳太子さんは水浴びしていませんが、この暑いこの頃となりますと鳩さんや烏さんが水浴びしていたりする。

 堂宇が六角となっていますのは、その老師風の翁より寺院に相応しい銘木の場所を教えられ、四天王寺の建材とするとともにこの場所に堂宇を組む際、組み木が微妙に絡み合ったことで六角形の独特の形状となった為、それを本堂にした、ということでした。

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ウクライナ情勢-ヴォフチャンスク市街戦概況とロシア軍損耗部隊交代,新しい焦点スタロマイオルスケ

2024-06-19 07:00:27 | 防衛・安全保障
■防衛情報-ウクライナ戦争
 こうした攻撃の状況には兎に角数としての戦車が必要なのだと思うのですけれども。

 ヴォフチャンスク市街戦の概況について、ISWアメリカ戦争研究所は6月16日付戦況報告において市街地北部の石材工場に陣地占領したロシア軍部隊に対しウクライナ軍が激しく攻撃を加えていると景況を示しています。この状況はロシア軍がウクライナ軍分断を図り突出した地点が逆に孤立している典型的な状況となっているもよう。

 石材工場の一部にロシア軍部隊は陣地を維持しているとのことですが、ここにウクライナ軍が再度攻撃を集中させており、16日の段階でロシア軍は死傷者を含む200名が孤立している状況にあるとのこと。ヴォフチャンスク突出部とともにこの数日間、ロシア軍の行動に変化が生じており、この変化はウクライナ軍の反撃に好影響を与えている。

 クレミンナ近郊ではウクライナ軍旅団が24時間で2kmに渡り領土奪還に成功したともISWは報告しています。この24時間での新しい焦点はスタロマイオルスケ、ザポリージャ州とドネツク州の境界地域で、ここにはロシア軍が最大54発の滑空誘導爆弾を短時間で投下しており、今後この地域での航空攻撃が激化する懸念があるとのこと。
■防衛情報-ウクライナ戦争
 こういう浮動した状況こそ火力が有れば付け入る事が出来るのですけれども。

 ヴォフチャンスク戦区においてロシア軍が損耗部隊交代を始めている、ISWアメリカ戦争研究所が6月17日に発表した戦況報告によればウクライナ軍ハリコフ管区報道官ポポフ大佐の発表として、ロシア軍はヴォフチャンスク戦区において損耗の激しい部隊を新部隊へ転換しているとしています、また同様にリプシ戦区でも同様の動きがある、と。

 太平洋艦隊第155海軍歩兵旅団、レニングラード軍管区第11軍団隷下の第18ライフル師団がヴォフチャンスク戦区に新戦力として投入されているという交代部隊はロシア中からかき集められた構図で、第6諸兵科連合軍隷下の第138自動車化狙撃旅団もリプシ戦区かヴォフチャンスク戦区に異動しようとしている兆候があるもよう。

 ヴォフチャンスク戦区の新戦力は、ハリコフ州と国境を接するロシア軍部隊に動きが生じ始めている事を示しています。ただ、ロシア軍攻撃はこのヴォフチャンスク戦区に集中されたものではなく、チャシブヤール近郊でもクリシチフカとアンドリイフカ付近でロシア軍の行動が活性化しているとウクライナ軍広報官ヴォロシン中佐の発言がある。

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