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【京都幕間旅情】青蓮院門跡,東山粟田御所遺構と泉廻遊式庭園包む熾盛光如来の光との出逢い

2017-11-15 20:01:00 | 写真
■青蓮院,秋季夜間特別拝観探訪
 紅葉の季節となりました、多忙な平日でもふと心の救いを求める際、夜の拝観は仕事に追われる日常からふと古都の安らぎ、暖かい宵の口へと赴く事が出来ます。

 青蓮院、青蓮院門跡としても知られる東山の寺院です。創立者たる開基は伝教大師最澄として伝わる十一世紀からの歴史ある寺院ですが、この程紅葉季節を迎え、秋の夜間特別拝観が始りました。単色の電燈を超えた天然色の灯火が醸す幽玄な庭園を散策しましょう。

 妙法蓮華経唱える天台宗の寺院たる青蓮院門跡は本尊に熾盛光如来を迎え、三千院、妙法院、と並ぶ天台宗の三門跡寺院として崇敬を集めてきました。天台宗は平安時代初期に伝教大師最澄が修行を経て大陸より持ち帰ったもの、妙法蓮華経は諸経の王とされています。

 門跡寺院、とは皇族出身で法親王や入道親王として親王の称号を与えられた高僧が住職たる門主を務める寺院です。その始まりは房として比叡山上にあった小寺院にあり、1150年に鳥羽上皇美福門院皇后が祈願所として定め、小寺院は門跡寺院として格を上げています。

 最澄の天台宗伝来は、律宗天台宗兼学の高僧鑑真和上が典籍伝来として日本に広め、最澄により本格的に日本へ広められました。最澄の帰国は平安遷都として長岡京を京都へ遷都を経て僅か数年の後、日本国内での仏教解釈に大きな論点を経て高める機会を残しました。

 衆生は須らく成仏できる、法華一乗の理念こそが天台宗の核心であり、大乗仏教の基本理念です。奈良仏教として法相宗や華厳宗といった南都六宗が日本では広く信仰されていましたが、これらは天台宗より分派した新しい宗派であり、原初状態の理念として伝来した。

 比叡山延暦寺を総本山とし、大本山に岩手県西磐井郡平泉町関山中尊寺、栃木県日光市日光山輪王寺、東京都台東区東叡山寛永寺、長野県長野市定額山善光寺大勧進、と広く日本に根付いています。比叡山延暦寺は京都市が見上げる滋賀県大津市、最澄も大津出身です。

 三条白川は青蓮院門跡最初の地でした。鳥羽上皇第七皇子覚快法親王の出家を始め皇家摂家子弟が門主務める格式高い寺院として平安朝に栄華を広めますが、三条白川は度々鴨川の氾濫に洗われ、鎌倉時代には水害を避け、高台にある現在の位置に遷座されたとのこと。

 十楽院という寺社が高台にはありました。平安時代は華やかな印象がありますが実は鴨川の氾濫を治水に至ったのは安土桃山時代に豊臣秀吉が御土居として市街地を覆った事で漸く中心部が水害より守られ、それ以前は水害起因の疾病を祇園祭の疾病祓いで願ったほど。

 愚管抄、この歴史書は第三世門主慈鎮和尚慈円により本堂熾盛光堂で著されました。慈円は藤原家の血筋ですが、神武天皇から八四代順徳天皇への日本史を貴族政治と武家政治への転換に軸を置き、藤原家政治関与へ客観批評と源頼朝の鎌倉幕府の新政治を評している。

 室町幕府六代将軍足利義教は将軍襲名まで義円として門主を務め、浄土宗の高僧蓮如も出家の儀式である得度を受けたのはここです。伏見天皇第六皇子で第十七世門主の尊円法親王は和様書風御家流をここ青蓮院で興し、日本絵画の一つの転換点の現場でもあるという。

 粟田御所として一時は御所が遷座した事もあります。これは1788年に発生した天明の大火で御所が焼失し、後桜町天皇が遷座していまして、後桜町天皇は女系天皇、門跡寺院としてこの青蓮院を仮の宮として選ばれたとのこと。青蓮院旧仮御所として現存しています。

 門前の大楠は親鸞聖人の手植えと伝わり、四脚門とともに拝観者を迎えています。夜の特別拝観は来月四日まで、宵の口1800から2200まで快く拝観を受入れ池泉廻遊式庭園全体が熾盛光如来の光をあらわす実に一千ものの灯火で彩られ、不思議な情景を醸しています。

北大路機関:はるな くらま
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