北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

普天間移設後の運用展望 在日米軍基地板付・厚木・座間・立川・三沢返還後の実例

2012-02-07 22:38:23 | 国際・政治

◆国際情勢変化に備えた返還後利用の重要性

普天間飛行場返還後の運用ですが、規模を縮小し自衛隊と国土交通省の共用飛行場とする方式が最も妥当だと考えます。

Img_1943本日新聞各紙の朝刊に在沖米軍機能の岩国移転案が出されました。実のところ、日本側が提示した嘉手納以南米軍施設弁全面返還要求について普天間飛行場移設先建設と併せて行う日米合意に対して、日本側は普天間問題に関係なく先行返還を、即ち日本側は合意を履行しないがアメリカ側へは履行を求めるという手前勝手な提示もありましたので、微調整は致し方ない、と考えていたのですが岩国へは厚木から第五空母航空団が移駐予定、移駐は司令部機能のみとのことでしたが、収容できるのか、と素朴な疑問も。他方、海兵隊の一部フィリピン駐留案が出まして、実のところ海兵隊海外移転先で唯一、台湾海峡有事への対処を考えた場合フィリピン北部だろう、と過去に記載していたものですから、この国名は驚きました。こちらは詳細を調べ、再度記事としましょう。
Img_1565さて上記の通り在沖米軍機能の一部岩国移転という話が出ていますが、本日は普天間の話題。日米交渉において普天間という飛行場設備を完全に失う可能性を示唆しての代替基地建設という問題が交渉の難航と固定化を指向してしまうわけでして、普天間飛行場は自衛隊による南西諸島防衛用設備として、また国土交通省を中心に海上保安庁の航空機を受け入れ、また那覇空港滑走路における緊急事態に際しては受け入れ飛行場としての機能を有する、この方式が一つの落としどころになるのではないでしょうか。
Img_13711971年6月25日の日米合同委員会、参考となりえる事例として、この40年ほど前の決定が普天間問題の解決策を示唆する重要な先例となりえます。日米合同委員会では、板付基地、厚木基地、キャンプ座間、立川基地、三沢基地の全部もしくは一部返還が決定されました。主として横田基地へ米軍基地機能の集約が意図されたのですが、三沢基地や厚木基地などは米軍からの返還後、最終的に全ての米軍部隊の撤収も視野には含まれており、他方国際情勢の緊迫化に際しては再度再検討する、という視野に基づくものでした。こちらの方が完全廃止よりもリスクが薄い。
Img_2757日本政府は、この問題について交渉を円滑に進展させるべく提示した方策は当時の防衛庁と運輸省へ移管する、というものです。三沢基地は米軍部隊に対して航空自衛隊が北部航空方面司令部を展開させていましたが、米軍部隊の撤収から軍事的空白を回避するべく暫定的に百里基地よりF-104一個飛行隊を展開、続いて約半年後に航空自衛隊八戸基地より第81航空隊を移転させ三沢基地維持の方針を提示、小牧基地の第3航空団を展開させ基地機能を維持させ、新冷戦に伴う米ソ関係激化に際しては米空軍F-16飛行隊を受け入れる基盤を残していました。
Img_7788厚木基地、米海軍部隊が撤収したのちに海上自衛隊は航空集団司令部を下総航空基地より厚木へ移転、海上自衛隊航空集団の拠点としての厚木航空基地となり下総航空基地よりS-2F対潜哨戒機を運用する第14飛行隊が移転しました。米海軍部隊の撤収はヴェトナム戦争における米軍北東アジア戦略の転換が背景となり決定したものですが、1973年には再度見直され、空母ミッドウェーの横須賀前方展開が決定、その空母艦載機の受け入れ基地として厚木航空基地が再度注目されることとなり、海上自衛隊が重油王な吉として運用していたからこその基地機能維持が情勢変化を見越した返還に対応できたことを物語るものと言えましょう。
Img_2807立川基地については、横田基地への集約によって返還が実現しました。この立川基地は砂川事件として在日米軍の合憲性が争われた事例が思いこそされるでしょうが、首都圏における米軍基地反対闘争の焦点というような位置づけにありました。この返還が実現したのも、宇都宮駐屯地より第1師団第1飛行隊、東部方面航空隊のヘリコプター部隊が移駐し、続いて東部方面航空隊司令部機能が移駐したことで駐屯地として飛行場機能は維持されました。立川基地は完全返還され横田基地へ集約は実現したのですが、現在は政府の立川広域防災基地がおかれ、首都直下型地震などのような官庁街や都庁を含めた首都機能が完全に麻痺した状態においては政府機能が暫定的に移る、非常に重要な機能を有しています。集約と共に機能を残す、という返還前の計画がかなり意味を持っていたところ。
Img_3683板付基地は、現在の福岡空港です。運輸省に完全移管され第二種空港となっていますが、この1971年の米軍基地としての返還が背景にあります。こちらも福岡空港として運用されていますが、有事の際には米軍が運用する、という朝鮮半島有事をにらんだ施設として維持されているわけです。普天間ですが、那覇空港と交代するかたちで、板付が実施したような方式は採れないでしょうけれども、基地機能を維持する、という前提により移設を促すという方式は普天間問題についても両立できるでしょう方式と言えないでしょうか。
Img_1426普天間の代替飛行場を必要とするのは移設が迫られているからです。海外に移設しないのは台湾海峡や朝鮮半島を睨むうえで必要であるからです。基地反対派は、まさか抑止力低下を誘致しているわけではないでしょう、何故ならば抑止力が低下すれば最終的に地域が不安定化し、沖縄周辺での武力紛争の可能性が高まるからです。下手をすれば第二次沖縄戦、ということにもなりかねません。特に中国との関係が今後良好化し永続的に推移する、といういわばソ連崩壊のような劇的な転換が予測できない以上、普天間の重要性は大きくは変化しないでしょう。
Img_2498また、移設を促すとしても海上空港方式を採る名護市の新飛行場には不安要素が残り、ここがさらに建設が難航しているからこそ、移設そのものを見直して普天間固定化、という選択肢が有力となってしまう実情があり、それならば、普天間移設後の普天間飛行場の維持方針を提示することが、固定化を防ぐ選択肢となるやもしれません。米軍基地反対、夜間飛行反対、この二点については少なくとも平時においては自衛隊施設や国土交通省飛行場として使用される限り担保されます。学校授業への支障は行事日や試験事案に配慮することが防衛省施設であれば可能になります。宜野湾市はリゾート開発などを構想しているようですが、現実的な普天間基地の再利用方式を今後考えることも必要なのではないでしょうか。

北大路機関:はるな

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コメント (2)
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