= 安心院町寒水の景色 =
何年か前、きれいで見事な「彼岸花と稲と石垣の景色」を見た場所
昨日papaがシャッターを押すマネをしながら「行くか?(^○^)」と言う。
あまり乗り気ではなかったけど本とデジカメを持って出掛けた σ(^m^;)
正味20分くらい写して、あとはpapaが戻るまで本を読んで待った
色づいた稲と彼岸花と畦豆 …たぶん畑に植えてると思うけど…
「 今は枝豆、枝豆って言ってるけど、畦豆って言ってたよね~? 」
と、こないだpapaに言ったばかりだったからあえて畦豆 (^w^ゞ
= papa撮影 …ほんの一部 =
とても綺麗なのに「 甘い(ーー;) 」と言って編集しなかった・・・セミプロの目は厳しい
♥ ソリテュード と ロンリネス ♥
とても綺麗なのに「 甘い(ーー;) 」と言って編集しなかった・・・セミプロの目は厳しい
♥ ソリテュード と ロンリネス ♥
昨日の朝、ふと「 ひとりでいられる能力 」という言葉が思い浮かんだ。そこで調べてみると・・・
「 ひとりでいられる能力 」は、積極的な孤独=ソリテュードと言い、「 孤独感 」は、消極的な孤独=ロンリネスと言うのだそうだ。
ウィキペディアに興味深くておもしろい内容があったので、長くなるけどそっくりそのままをペッタンコさせて貰った (^人^)
♥ひとりでいられる能力(ひとりでいる能力)英国の小児科医であり、精神分析家 ドナルド・ウィニコット (ウィキペディアより)
ひとりでいる(いられる)能力(the capacity to be alone)とは、情緒的成熟と密接に関連した、安心して孤独を楽しんでいられる力のことである。ウィニコットによって分析されるまでは、一人でいることに対する恐怖や、一人になりたい願望については論じられていても、ひきこもり状態とは異なる、一人でいられることの陽性の側面についてはほとんど言及されてこなかった。一人でいられる能力とは、母親と父親との三者関係、幼児と母親との二者関係よりもっと早い時期である一者関係にまでさかのぼる。多くの子どもは、子ども時代を脱するより前に孤独を楽しめるようになり、さらには孤独をかけがえのない財産として大切にすることさえある
一人でいられる能力は洗練された現象である。いろいろな体験が一人でいられる能力の確立に寄与するが、その最も基本的なものは、「幼児または小さな子どものとき、母親と一緒にいて一人であった」という体験である。つまり一人でいる能力は逆説であり、誰か他の人が一緒にいるときに持った、「一人でいる(to be alone)」という体験である。他者と一緒にいて一人であるということは、未熟な自我が、母親に自我を支えてもらうことによって自然な均衡を得る人生早期の現象である。こうして時を経るとともに、自我支持的な母親を取り入れ、母親が四六時中横にいなくても、一人でいられる能力が育ってくるのである。
母親を自己に内在化することで、やがて幼児はしばらくは一人でいることができるようになるし、そしてまた、安心して一人でいることを楽しむことができるようにもなっていく。幼児はこの一人でいる能力をもった状態になってはじめて、外界からの侵害に反応することなく、やけに活動的な人間にならずともいられるようになる。すなわち、成人の言葉で言えば、くつろいでいられるのである。こうした体験を重ねることで得られるのは、それがない場合に突出してくるであろう空虚さではなく、実在感を伴った豊かな体験であり、自分本来の衝動や感情である。やがて幼児は実際に母親が付き添うことを諦めることができるようにもなる。それは内的環境の確立が達成されたからである。一人でいられる能力は情緒的成熟とほとんど同意語である。
一人でいられる能力は自己の内的世界に良い対象がいるかどうかによって決まる。内的な対象と良い関係が確立され、それが壊されないでいると、個人は現在と未来に自信をもつことができるようになる。内的な対象との関係ができあがると、内的関係に対する自信が生じてくるとともに、それ自身満足な生活ができるようになる。そうすることで、外界からの刺激や対象がなくても、安心して休息していられるようになる。成熟や一人でいる能力を持てるということは、個人が適切な母親の世話を通じて良い環境を信用する機会をもったということである。この信用は、十分な本能満足が繰り返されてはじめてできあがる。内的な良い対象が十分形作られているために、妄想的な不安に苛まれる状態を脱して、クラインのいう抑うつポジションに持ちこたえられる状態であることを示している。一人でいる能力は情緒発達のかなり早期の関係に由来するものであるが、一方では自我の成熟がかなりの程度成し遂げられていることをも示しているのである。
「 ひとりでいられる能力 」は、積極的な孤独=ソリテュードと言い、「 孤独感 」は、消極的な孤独=ロンリネスと言うのだそうだ。
ウィキペディアに興味深くておもしろい内容があったので、長くなるけどそっくりそのままをペッタンコさせて貰った (^人^)
♥ひとりでいられる能力(ひとりでいる能力)英国の小児科医であり、精神分析家 ドナルド・ウィニコット (ウィキペディアより)
ひとりでいる(いられる)能力(the capacity to be alone)とは、情緒的成熟と密接に関連した、安心して孤独を楽しんでいられる力のことである。ウィニコットによって分析されるまでは、一人でいることに対する恐怖や、一人になりたい願望については論じられていても、ひきこもり状態とは異なる、一人でいられることの陽性の側面についてはほとんど言及されてこなかった。一人でいられる能力とは、母親と父親との三者関係、幼児と母親との二者関係よりもっと早い時期である一者関係にまでさかのぼる。多くの子どもは、子ども時代を脱するより前に孤独を楽しめるようになり、さらには孤独をかけがえのない財産として大切にすることさえある
一人でいられる能力は洗練された現象である。いろいろな体験が一人でいられる能力の確立に寄与するが、その最も基本的なものは、「幼児または小さな子どものとき、母親と一緒にいて一人であった」という体験である。つまり一人でいる能力は逆説であり、誰か他の人が一緒にいるときに持った、「一人でいる(to be alone)」という体験である。他者と一緒にいて一人であるということは、未熟な自我が、母親に自我を支えてもらうことによって自然な均衡を得る人生早期の現象である。こうして時を経るとともに、自我支持的な母親を取り入れ、母親が四六時中横にいなくても、一人でいられる能力が育ってくるのである。
母親を自己に内在化することで、やがて幼児はしばらくは一人でいることができるようになるし、そしてまた、安心して一人でいることを楽しむことができるようにもなっていく。幼児はこの一人でいる能力をもった状態になってはじめて、外界からの侵害に反応することなく、やけに活動的な人間にならずともいられるようになる。すなわち、成人の言葉で言えば、くつろいでいられるのである。こうした体験を重ねることで得られるのは、それがない場合に突出してくるであろう空虚さではなく、実在感を伴った豊かな体験であり、自分本来の衝動や感情である。やがて幼児は実際に母親が付き添うことを諦めることができるようにもなる。それは内的環境の確立が達成されたからである。一人でいられる能力は情緒的成熟とほとんど同意語である。
一人でいられる能力は自己の内的世界に良い対象がいるかどうかによって決まる。内的な対象と良い関係が確立され、それが壊されないでいると、個人は現在と未来に自信をもつことができるようになる。内的な対象との関係ができあがると、内的関係に対する自信が生じてくるとともに、それ自身満足な生活ができるようになる。そうすることで、外界からの刺激や対象がなくても、安心して休息していられるようになる。成熟や一人でいる能力を持てるということは、個人が適切な母親の世話を通じて良い環境を信用する機会をもったということである。この信用は、十分な本能満足が繰り返されてはじめてできあがる。内的な良い対象が十分形作られているために、妄想的な不安に苛まれる状態を脱して、クラインのいう抑うつポジションに持ちこたえられる状態であることを示している。一人でいる能力は情緒発達のかなり早期の関係に由来するものであるが、一方では自我の成熟がかなりの程度成し遂げられていることをも示しているのである。
お彼岸をまえに心静かになれたな
おまけ♥幸せをみつける能力=セレンディピティ
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