気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

七飯町 気になる旧峠下ホテル跡

2015-09-11 10:33:37 | 日記
2年前、2013年11月、函館の交流センターで開催されていた“箱館写真の会”を見て、古い七飯町の写真の中に気になる場所があり、その場所へと大沼隧道の手前、鳥越というところから無沢峠に行ったこともあったが、一か所まだ訪ねていなかったところがあった。
函館交流センターでの写真展

写真展の中に、「札幌本道と大沼」というタイトルを読むと・・・

函館は明治2年の箱館戦争を経てから急速に開発が進み・・・北海道に近代的な馬車が通ることのできる道路を開発させることが決定された。
 函館ー森間は箱館街道と呼ばれ、森ー室蘭は海道で、その道は札幌まで札幌街道と呼ばれたことが書かれている。

因みに、明治11年に「日本奥地紀行」の著者である英国の女性旅行家のイザべラ・バードは函館から七飯町を経て大沼、森と馬に乗って、旧森桟橋から室蘭に海路で行っている。
写真の中には、茅葺の茶屋が2~3軒移しているものがあったが、バードは「馬に乗って七マイル来たが、単調な沼沢地を通り、一方は火山、他方は低く森の茂った丘の、砂地の道路で・・・村は一つもなく、いくつかの実にみすぼらしい茶屋があるだけ・・・。」との記録があるが、あの写真展で見た茅葺の茶屋か・・・
茶屋の写真


説明の中には、私が数年前から巡っている北海道の名付け親であり、「蝦夷日誌」の松浦武四郎や鷲ノ木に上陸した榎本軍もこの古道を歩いたに違いない・・・」と書いてあったのは嬉しい情報である。
さらに、新道開通と同時に蓴采沼付近に新しく旅館が出来たともあり、イザべラ・バードは著書にその宿泊し、駒ケ岳などの風景を記載している。(旅館は宮崎旅館)
 写真展で見て気になる所は、当時あったという『旧峠下ホテル』。
その場所は函館から「赤松街道」を通り、大沼方面に向かう峠下である。

現在のその峠下は昔の面影をみることが出来るのは、唯一、古い一軒の茅葺の家屋が見えるが、最近、右側には旅行者にも人気というラッキーピエロが出来たり、左側には昆布館があり、ホテルの跡らしきものは国道5号線の両サイドには確かめられなかったが、「道北の海と釣り」のホームページ管理者のFさんが訪ねていた。
 場所は七飯の駐在所が目印。街路樹で石碑などは分かり難いが、函館から進むと、国道5号線にある昆布館を少し過ぎたところから右折して脇道に入る。
 新しい駐在所の広場横の街路樹側に説明版と石碑・小学校学校と中学校の門柱が残っている。

「明治天皇御駐蹕之地碑」の説明版と峠下中学校校門がある。
説明版にの右側には交流センターの写真展で見た「旧峠下ホテル」の写真がある。(ホテルは○囲みの写真)

『明治5年(1872)に始まった札幌本道(現在の国道5号)の開削時、kの場所には工事作業のためい、病院やに人夫小屋などが設置された。明治13年(1880)に建物の一部を借用し開校したのが峠小学校の始まりで、付属する建物も峠ホテルと呼ばれる宿泊施設として活用された。
明治14年(1881の天皇行幸の際には峠ホテルが行在所としてあてられ、御膳水やリンゴが献上された・・・と記録されている。
行幸の記念として、大正2年(1913)に、この碑が建立された。  平成25年3月 七飯町教育委員会』と掛かれています。
御駐蹕之地(明治十四年)

説明版の横の旧峠下中学校の校門
『昭和22年(1947)5月に認可された峠下小学校に併設される形で設立した峠中学校は2学級で78名で開港された。昭和38年亥、この場所から移転し改築され、43年にわたり多くの人材を輩出してきたが、平成2年(1990)3月に七飯中学校と統合したため、その歴史を閉じた・・・』


旧峠下小学校の校門

無沢峠頂上近くにある「天皇野点の碑」(鳥越林道から蓴莱沼への道)



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