10連休とかで、お出かけのかたもおおいでしょう。そこで「どこへも行かない」、どこへ行っても「たいして変わらない」という、へそまがりな言葉を五月のことばとしました。
アーネスト・ヘミングウェイの『日はまた昇る』(新潮文庫)に、次の一節があります。
第一次世界大戦で傷ついた小説の主人公、ジェイク・バーンズの台詞です。
「どこの国だって、映画で見るのと同じようなもんさ」
そして、こう続けます。
「一つの場所から他の場所へ移ってみたところで、自分からぬけだせるもんじゃない」 と、うそぶいてみたものの、主人公・ジェイクは、この後、パリからスペイン北部へマス釣りの旅に出かけるのですから、旅自体を否定しているのではなく、変わることを目的に旅に出ても何もかわらない、と言っているのでしょう。
ところで、おもしろいことに「旅」という文字を仏教の経典でみつけることはたぶんありません。経典や禅の語録では、旅ではなく遊行や行脚という表現が使われます。それは、どうしてなのか。 「旅」ということばの素性を、毎度お世話になっている白川静著『字統』(平凡社)でひいてみると、「旗を掲げて、多くの人が他に出行する意。それで軍行の集団となり、旅行の意となる」と、あります。
ここからは私の想像ですが、「旅」はもとはといえば、軍旗をかかげての行軍の意味だから、平和主義の仏教にはふさわしくない。そこで、経典を古代インド語から漢字へ翻訳した訳業僧らは、「旅」ではなくて、「遊行」とか「行脚」ということばを採用したのではないでしょうか。今の陸上自衛隊でも、部隊編成の単位として「旅団」という言葉を使っているようですから、現役の軍事用語なのです。
生いたちが軍事用語だというのに、「悠久の旅、六泊七日」とか、「まだ間に合うゴールデンウィークの旅」なんていうキャッチフレーズがあふれている現代です。言葉のもとの意味を探りもせずに、「旅」に憧れるわけです。広辞苑は「憧れる」の項で、「さまよい出る」と説明しています。
さまよった結果、だいたいは思いが破れて、しょぼしょぼと夕暮れの街をもとの場所にもどってくるのは、多くの人が共有する思い出でしょうか。だから、「ちょっと気分転換に」どこかへ出かけても、何の解決にもならないのです。
というわけで、この10連休。私はたぶん、渋滞や雑踏には近寄らないと思います。なんて、かっこうつけちゃって。「どこか知らない街をあるいてみたい」、のも本心です。
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