人はその人それぞれの旅をする。旅において眞に自由な人は人生において眞に自由な人である。 三木清『人生論ノート』より
一月は早かった!あっという間に二月になってしまった。時の流れに早いも遅いもないのだから、感じる者の事情によって早くなったり遅くなったりするわけです。芭蕉さんも言ってます。「月日は百代の過客にして」、と。芭蕉は旅に憧れた人です。「旅行」や「ツアー」と聞いても何も感じないけれど、「旅」という文字をみると、ジーンとなるのは私だけでしょうか。
仏教経典で「旅」を詳細に記述しているのは、『涅槃経』でしょうか。釈尊最期の旅を詳しく記録しています。経典ではないけれど、玄奘三藏法師の『大唐西域記』のような貴重な旅行記もある。
では、禅はというと、旅に関する記述は皆無なのではないでしょうか。たとえば、中国・臨済禅師(?~866)の言行録『臨済録』にこんな記述があります。若き臨濟は修行の成果があがらないので、師匠のもとを去ろうとします。師匠は言います。
「よそへ行くことはならぬ。行くなら大愚老師のところへ行きなさい。きっとあなたに説いてくれるであろう」
というわけで、臨済は大愚禅師のもとへ向かうわけですが、旅自体には一字の記述もありません。地図で調べてみると、直線距離で約200キロ。一日40キロ歩いたとしても五日以上の旅です。なのに、「師到大愚」の四文字だけ。お芝居でいう早変わりです。
面白いことに禅は、「草を払いのけて師を求めて行脚しなさい(撥草參玄)」と旅を推奨するのですが、旅自体の記録というのは少ないような気がします。なぜだろう。前々から気になっていたのですが、不勉強者だから、よく調べないでいます。宿題です。
というわけで、今月のことばは哲学者の三木清(1987~1945)の言葉です。出典は『人生論ノート』所収の「旅について」。三木清は第二次戦争中に治安維持法違反の友人をかくまったとして逮捕され、終戦後も拘留がつづき、1945年9月に豊多摩刑務所内で48歳で獄死する。そうした悲劇と「旅」「自由」といった言葉がちりばめられたこのフレーズを重ねると、黒ぐろとした深い闇がみえてきます。
さて、スマホやタブレットのナビに頼った旅は移動であって、旅ではありません。と、思って昨秋、旅先で携帯の電源を数時間きっていたら、その間に寺でちょっとした用事が発生して、数名の友人知人に指名手配された不自由な私です。