わたしは薔薇を描こうと何度か挑戦したのだが、いま一つこれは…と思える薔薇が描けてない。
花は薔薇を含めて牡丹、クチナシ、藤、蓮、と描いたことがあるのだが、いずれも前述のいま一つを
抜けきらないでいる。正直、描く前は花は描きやすい被写体ではないかと、少しタカをくくっていた
感は否めないのだが、描いてみると、本物の美しさに負けてしまうのである。
「本物より美しくないものを見たいと思うだろうか?」これが胸に突き刺さってくるのである。
絵は本物をただ写しとるだけではなく、実物を自分の心に一度投影して、そこに見えるもの、或いは
感じるものを表現したものが、いわゆる「絵」であり、「絵画」という作品なのである。
そこには本物より美しいとまでは言わないが、本物を見ただけでは感じない“何か”がほしい
のである。その何かこそ、絵描きの真価の問われるところなのだ。
だから、何としてもこれは…と自分で納得できるものを描きたいのだ。特に薔薇に関しては
それがより強いのである。幸いなことに、このところ薔薇の表現イメージが3つ程ひらめいて
いるので、何とかそれをものにしたいと薔薇を真近に、それこそ穴のあくほどに見つめている
のである。
そしてつい昨日ジッと見ていた薔薇からメッセージを受け取ったのだ。薔薇はこう言った。
「ちゃんとわたしを見てよ」???ジッと見ているわたしにである…。
はてさて…これはどういうことなのか、さらにわたしはジーッと見つめるのだった。
ささやける 薔薇が「わたしをよく見てよ」
issei
花は薔薇を含めて牡丹、クチナシ、藤、蓮、と描いたことがあるのだが、いずれも前述のいま一つを
抜けきらないでいる。正直、描く前は花は描きやすい被写体ではないかと、少しタカをくくっていた
感は否めないのだが、描いてみると、本物の美しさに負けてしまうのである。
「本物より美しくないものを見たいと思うだろうか?」これが胸に突き刺さってくるのである。
絵は本物をただ写しとるだけではなく、実物を自分の心に一度投影して、そこに見えるもの、或いは
感じるものを表現したものが、いわゆる「絵」であり、「絵画」という作品なのである。
そこには本物より美しいとまでは言わないが、本物を見ただけでは感じない“何か”がほしい
のである。その何かこそ、絵描きの真価の問われるところなのだ。
だから、何としてもこれは…と自分で納得できるものを描きたいのだ。特に薔薇に関しては
それがより強いのである。幸いなことに、このところ薔薇の表現イメージが3つ程ひらめいて
いるので、何とかそれをものにしたいと薔薇を真近に、それこそ穴のあくほどに見つめている
のである。
そしてつい昨日ジッと見ていた薔薇からメッセージを受け取ったのだ。薔薇はこう言った。
「ちゃんとわたしを見てよ」???ジッと見ているわたしにである…。
はてさて…これはどういうことなのか、さらにわたしはジーッと見つめるのだった。
ささやける 薔薇が「わたしをよく見てよ」
issei