多摩平和イベント実行委員会

多摩の市民グループが「戦後60年」を契機に地域の視点から、「戦後」「平和」「民主主義」を考える

中国残留邦人 鈴木則子さん のお話を聞く会 5月31日 ベルブ永山で

2008-05-26 23:09:39 | 戦争体験
○中国残留邦人 鈴木則子さん のお話を聞く会

 5月31日(土)午後1時30分から。
 ベルブ永山(京王線・小田急線永山駅下車) 講座室
 参加費300円
 主催 多摩平和イベント実行委員会
    連絡先 090-1107-8264


「私はリーベングィズ(日本鬼子)だった」

 鈴木則子さんは、1928年 東京・京橋生まれ。
今年で80歳を迎えられます。
 戦争中に一家で満州へ。1943年の満豪開拓団ですから、「五族協和」「王道楽土」のための国家政策の先兵として満州へ、とはいえ、移住する道で活路を求めざるをえない、一家でした。
 中国民衆からは侵略者として罵倒される立場ではあっても、鈴木さんらはまさに大日本帝国の大東亜共栄圏幻想がもたらした国家による犠牲者そのものでした。
 1945年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を破棄し、満州に攻め込みます。関東軍は開拓団を見殺しにし、逃げ去ります。鈴木さんたちは、ソ連軍の激しい銃撃の中、言語に絶する死の逃避行を経験します。逃げ惑った開拓団の多くは殺され、鈴木さんは 中国人家族に救われます。
 しかし、それは自らの意思ではなく゛生きる゛ために異国の地で選ばざるをえなかった選択。鈴木さんには過酷な試練が待ち受けます。何度も死を意識されたとか。そのたびに「誰か生きていたら、日本に帰って、遺族や国に、私たちは何でこんな目に遭わなければならないのか、こうやって死んでいったのだということを訴えてくれ」と開拓団のおばさんに息絶え絶え伝言されたことを果たさなければと思われたそうです。
 日本政府は非情です。「13歳以上は、ものがわかるから、勝手に残った。だから援護対象外である」と。
 2001年、鈴木さんは国家の戦争責任と指導責任を問い、国家賠償訴訟に踏み切ります。リーベングィズ(日本鬼子)として戦後も中国の大地に残り、国家の罪を一身に背負い、生きるために暮らしてきた、その過去を返せ、と。

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