住めば公園風田舎町

「住めば都」と言われるがわたしゃ田舎の方がいい。町全体が公園のようなそんな田舎町に住みたい。

534 「もしも、徐福が日本に来ていたら」 (116)

2007-12-06 23:55:49 | もしも、徐福が日本に来ていたら
 

まとめて読みたい方は、上の「もしも、徐福が、、、(カテゴリー)」↑
をクリックしてください。

目次は、ここをクリックしてください。 

534-1 弓月の君(9)



日本人ならシルクロードを一族郎党を引き連れて移動するのは無理でしょう。

食料が穀物だからです。

しかし、牧畜を主とする民族は長距離の移動が可能ですね。

馬乳、牛乳、羊乳、それらの家畜の肉など、食料自身が自力で歩くようなものなので移動が可能だったのでしょう。

農耕民族は耕してから収穫まで、土地に縛られています。
牧畜民族は移動が可能なだけではなく、家畜に食べさせる新しい草を求めて移動しなければなりません。

そのついでに、隊商たちにサービスしたり、気の効いた部族は、自ら交易品を選んで、東西の交易の市を営むことになり富を蓄えたでしょう。

シルクロード上の古代都市国家はこのようにして繁栄したと考えられます。

シルクロードは、シルクロードと呼ばれる前から、こういう民族の交流の中で、その存在が認識され、やがて、東の果てから西の果てまで、全体を往来した人たちによって、完全に認識されるようになったものでしょう。

色々な文明を吸収できた彼らの文明は非常に発展したと思われます。

それが、やがてチンギスハーンのように、大帝国を築きあげる力を蓄えさせたのだと思われます。

旧約聖書に出てくるモーゼたちがエジプトを脱出して荒野を40年間、放浪します。

何十万人という群集を率いてそんなことは不可能だと思っていました。

しかし、基本的に彼らは羊飼い達です。

青草の原があれば、羊に食べさせることは出来、そういうことが可能だったと言うことが分かります。





続 景教碑の謎というサイトでは

弓月(クンユエ)という国は現在のカザフスタン南部、アルマトイを含むバルハシ湖より南、キルギスのあたり、あるいは、ホータンと言われています。

クンユエはある地図では天山北道に示されていた。しかし、ホータンは天山南道だ。しかし両者は近い。

クンユエがそれだけの広がりを持っていたとすると、弓月の君はホータンに違いないという気がする。

「秦」(シン)を何故ハタと読む?

ハタという読みが中国にあるのか?

日本語でハタと読む必然性は無い。

しかし、弓月の君、或いはその先祖がホータン出身ならハタはホータンの訛ったものだ。

天皇から波多の名を貰っているのは、ホータンの日本風の読みだと言うことで頷ける。

ホータンには伝説がある。
ホータンの王子は、国を富ませるために、絹の生産方法を知りたいと思った。そのため中国からお姫様を貰うことにして、嫁に来る時に蚕を持って来るように頼んだ。

蚕の持ち出しは死刑であったが、王子のため、そして生まれてくる子のためにも蚕と桑の種を持ち出した。

出国時に荷物は調べられたが、冠までは調べなかった。姫君は冠の中に蚕の卵を隠して来たのである。

かくして、ホータンでは姫の指導により絹の生産に成功し、姫も尊敬されたと伝えられている。



533 「もしも徐福が日本に来ていたら」 (115)

2007-12-05 21:04:08 | もしも、徐福が日本に来ていたら
 

まとめて読みたい方は、上の「もしも、徐福が、、、(カテゴリー)」↑
をクリックしてください。

目次は、ここをクリックしてください。 

527-1 弓月の君(8)

老子に弓月國王という言葉が出てくる。

老子化胡經(中華電子佛典協會)

于?國王乃至朱?半王.?叛陀王.護密多王.大月氏王.骨咄陀王.?蜜王.解蘇國王.拔汗那王.久越得?王.悒怛國王.烏拉喝王.失范延王.護時健王.多勒建王.?賓國王.訶達羅支王.波斯國王.疎勒國王.碎葉國王.龜茲國王.拂林國王.大食國
王.殖膩國王.數漫國王.恒沒國王.?藥國王.嵯骨國王.曇陵國王.高昌國王.焉耆國王.弓月國王.石國王.瑟匿國王.康國王.史國王.米國王.似沒盤國王.曹國王.何國王.大小安國王.穆國王.烏那葛國王.尋勿國王.火尋國王.西女國王.大秦國王.舍衛國王.波羅?國王.帝那忽國王.伽摩路王.乾陀羅王.烏長國王.迦葉彌羅國王.迦羅王.不路羅王.泥婆羅王.熱?國王.師子國王.拘尸那?羅王.毘舍離王.劫毘陀王.室羅伐王.瞻波羅國王.三摩咀?王.烏荼國王.蘇剌?國王.信度國王.烏刺尸王.扈利國王.狗頭國王.色伽栗王.漫吐 王.泥拔國王.越底延王.奢彌國王.小人國王.軒渠國王.陀羅伊羅王.狼?羅王.五天竺國王。
如是等八十餘國王。及其妃后。并其眷屬。周匝圍遶。皆來聽法。爾時老君告諸國王。汝等心毒。好行殺害。唯食血肉。斷?生命。

老子が80カ国以上の国王とその后と一家眷属を招いて説教している。
その中に弓月國王というのがある。
老子は孔子よりも更に前だ、勿論始皇帝や徐福よりも前である。
既にその頃、弓月國が有ったのであろう。

guuchanは弓月国は大月氏国と関係があるのかと思ったが、ここには別々に出てくるから全く別の国であることが明白である。

この書が何時頃出来たものか、また中華電子佛典協會なるものも知らない。

弓月國をネットで調べると沢山ヒットする。
そのうちの幾つかは、弓月国は天山山脈の北に存在したと言っている。
天山山脈の北に位置し、カザフスタンにある『弓月国(クンユエ)』は、199-283年には成立し、原始キリスト教を信じるユダヤ人が中心となって作った国といわれる。
敦煌よりやや西の方だ。

秦という語は、日本語の西洋人と同じようにシルクロードの西から来る白人種が秦人ではなかったかと思われる。
いわゆるモンゴロイドとは異なる。
混血の度合いにもよるが、顔を見れば、大体分かったと思われる。

大秦国はローマ帝国のことである。
随って、弓月国も秦(西方の人)の一国であったといえる。
弓月王も、弓月王の一族も漢から百済経由で渡ってきたが、白人系の民族であっただろう。
そして、ユダヤ教もしくはキリスト教の教えを持っていた可能性がある。





532 「もしも、徐福が日本に来ていたら」 (114)

2007-12-04 21:46:40 | もしも、徐福が日本に来ていたら

まとめて読みたい方は、上の「もしも、徐福が、、、(カテゴリー)」↑
をクリックしてください。

目次は、ここをクリックしてください。 

532-1 弓月の君(7)

★10応神天皇十六年(乙巳285+120)二月
◆十六年春二月。王仁來之。則太子菟道稚郎子師之。習諸典籍於王仁。莫不通達。
故所謂王仁者。是書首等之始祖也。

AD405年、応神天皇の16年2月王仁来る。即ち太子菟道稚郎子(うじのわくいらつこ)の師なり。王仁に諸典籍を習う。
通達せざるなし。

☆10応神天皇十六年(乙巳285+120)是歳
◆是歳。百濟阿花王薨。天皇召直支王謂之曰。汝返於國以嗣位。
仍且賜東韓之地而遣之。〈東韓者。甘羅城。高難城。爾林城是也。〉


AD405年、応神天皇の16年、百済の阿花王薨ず。天皇、直支王を召して是に謂いて曰く、汝、國に返りてもって位を嗣ぐべし。
仍(すなわち)、且つ東韓之地を賜い而うして遣わす。〈東韓は甘羅城、高難城、爾林城是れなり。〉

●10応神天皇十六年(乙巳285)八月
◆八月。遣平群木菟宿禰。的戸田宿禰於加羅。仍授精兵詔之曰。襲津彦久之不還。必由新羅人拒而滞之。汝等急往之撃新羅披其道路。於是木菟宿禰等進精兵莅于新羅之境。新羅王愕之服其罪。乃率弓月之人夫。與襲津彦共來焉。

AD405年、応神天皇の16年八月、平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね、武内宿禰の子)及び的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅に遣わす。
仍(よ)って精兵を授(ず)け詔(みことのり)して曰く、襲津彦(そつひこ)久しく還らず。
必ずや新羅人の拒む由ありて而して滞(とどこお)る。
汝等、急ぎ往きて新羅を撃ち其の道路を披(ひら)け。是(ここ)に、木菟宿禰(きつすくね)等、精兵を新羅之境の莅に進む。新羅王、愕(おどろ)いて其罪に服す。
乃(すなわち)弓月の人夫を率いて襲津彦(そつひこ)と共に來たる。


要約すると

AD403年に弓月の君が倭に帰化し、自分の国の人夫は多数、新羅に留められて倭に来ることが出来ないと訴えたので、葛城の襲津彦を遣わして迎いに遣った。

その間、AD404年に阿直岐(あちき)、AD405年に王仁(わに)が倭に来て帰化した。

AD405年には百済の阿花王(あふぁおう)が亡くなって、倭に人質として来ていたその王子の直支王(ときおう、そのときはまだ太子)を王位を継がせるために帰した。
そのとき、半島の倭の領土であった東韓之地を与えて帰した。

その年、襲津彦(そつひこ)と弓月の民とを迎えに二人の宿禰を遣った。
二人は弓月の民と、襲津彦(そつひこ)を連れ還ってきた。

関連の無い記事の羅列だけでは面白くないかもしれないが、ここに歴史の謎を解く多くの鍵が含まれている。





531 「もしも、徐福が日本に来ていたら」 (113)

2007-12-03 18:21:16 | もしも、徐福が日本に来ていたら
 

まとめて読みたい方は、上の「もしも、徐福が、、、(カテゴリー)」↑
をクリックしてください。

目次は、ここをクリックしてください。 

531-1 弓月の君(6)
☆10応神天皇十四年(癸卯283+120=403)是歳
◆是歳。弓月君自百濟來歸。因以奏之曰。臣領己國之人夫百廿縣而歸化。然因新羅人之拒。
皆留加羅國爰遣葛城襲津彦。而召弓月之人夫於加羅。然經三年而襲津彦不來焉。




AD403年、応神天皇の御世の14年に百済より弓月の君来たり帰す。
よってもって奏して曰く、臣は己国の人夫百廿県を領し而して帰化す。然れども新羅人此れを拒む。
皆加羅國に留まる。爰(ここ)に、葛城の襲津彦を遣わし而して加羅に居る弓月の君の民を召す。
然れども、三年を経て襲津彦来たらず。

guuchan注:
己国(おのれのくに)とは、其の出身母国である漢のことを指すと思われる。
★10応神天皇十五年(甲辰284+120)八月丁卯《六》◆十五年秋八月壬戌朔丁卯。
百濟王遣阿直岐。貢良馬二匹。即養於輕坂上厩。因以以阿直岐令掌飼。
故號其養馬之處曰厩坂也。阿直岐亦能讀經典。即太子菟道稚郎子師焉。
於是天皇問阿直岐曰。如勝汝博士亦有耶。對曰。有王仁者。是秀也。
時遣上毛野君祖荒田別。巫於百濟。仍徴王仁也。其阿直岐者。阿直岐史之始祖也。


AD404年、応神天皇十五年(甲辰284+120)八月。
百濟王、阿直岐(あちき)を遣わす。良馬二匹を貢ぐ。
即ち軽(かる、奈良県橿原市大軽付近)の坂上(さかのうえ)の厩に養う。因って以って阿直岐を以って飼うを掌(つかさど)らしむ。

故に其の馬を養う所を厩坂と号す。阿直岐はまた經典を能く読む。
即ち太子(たいし)菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の師なり。
ここにおいて天皇は阿直岐に問うて曰く、汝に勝るが如き博士はまた有るか。
王仁(わに)なるもの有り。是れ秀でるなり。
時に荒田別の祖の上毛野の君を百済の巫(こうなぎ)に遣わす。
すなわち王仁を徴すなり。其の阿直岐なる者は阿直岐史(あちきのふひと)の始祖なり。

国語大辞典(新装版、小学館1988)によると、

坂上(さかのうえ)は古代の帰化族で後漢の霊帝の子孫で、
応神天皇のころ来朝した東漢氏の一族といわれている。
はじめ東漢坂上(やまとのあやのさかのうえ)と称していたが、
天武天皇のころから坂上氏と呼称した。
飛鳥・奈良時代の名門で、一族からは苅田麻呂・田村麻呂らの名将、
是則・望城らの歌人、範政・明兼・明基らの明法家を輩出した。




530 教会の花、ネズミモチ

2007-12-02 16:56:29 | 教会の花

530-1 クランツ

いつも花が飾られる台に、今日はアドベントクランツがありました。
教会は今日から新しい一年のカレンダーが始まります。
今日は待降節(アドベント)です。
クリスマスの4週間前から始まります。
アドベントクランツを作り、ローソクを4本立てます。
毎週一本づつ点灯したローソクが増えます。
クリスマスの日に4本たつことになります。
何処で始まった習慣でしょうか?
勿論、キリストが生まれたときにはそんなものはありませんでした。
電気のなかった頃、クリスマスのときに最も明るくしたかったのでしょうか?

530-2,3 ネズミモチ モクセイ科イボタノキ属

 近くの公園の生垣にネズミモチの実がたくさんついていました。
今年は実も大きくて大豊作のようですね。
ネズミの糞に似ている?
しかし、最近ネズミの糞など見たことの無い人も多いでしょうね。
ネズミの糞にそっくりな実をつけるところからネズミモチと言われるそうですね。
この実は焼酎に漬けて、老人の足腰、筋力低下、めまい、白髪等に効くそうですが、美味しそうには見えませんね。
なお、詳しいことは、詳しいことを知ってる方に尋ねてください。