住めば公園風田舎町

「住めば都」と言われるがわたしゃ田舎の方がいい。町全体が公園のようなそんな田舎町に住みたい。

544 「もしも、徐福が日本に来ていたら」 (122)

2007-12-30 22:57:58 | もしも、徐福が日本に来ていたら
 

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544-1 羊太夫



「もしも、徐福が日本に来ていたら」は、秦氏(はたし)のところで、ハタと止まってしまった。
 ハタシてこのままで年を越させて良いものだろうか?
 
秦氏に関係が深いとされる、群馬県多野郡吉井町に多胡碑というのがある。
711年(和銅4年)3月9日多胡郡が設置されたことを示したものだそうだ。

その碑文は
「弁官苻 上野国片岡郡緑野郡甘良郡并三郡内三百戸郡成給羊成多胡郡
  和銅四年三月九日甲寅宣 左中弁正五位下多冶比真人 太政官二品穂積親王
  左太臣正二位石上尊 右太臣正二位藤原尊」



この意味は、上野の国の片岡郡、緑野郡、甘良郡のあわせて三郡内三百戸を

この碑文のなかの「給羊」を「羊に給ふ」と読み、「郡成給羊多胡郡」を「郡と成して羊に給ひて多胡郡と成す」と読むのが一般的である。



 とされている。

guuchanは少し違う。
上野の国の片岡郡、緑野郡、甘良郡のあわせて三郡内の給羊を成す三百戸の郡を多胡郡と成す。

 給羊とは牧羊のことと思う。
日本に羊は居なかった。それをカモシカを家畜化し飼う事に成功したのではないだろうか?
その産業を保護育成するため多胡郡を置いたのであろう。

地元ではこの碑をお羊様と呼んでいる。羊太夫の墓としている。

羊太夫には色々伝説があるようであるが、朝廷に始終出入りしていたと思われるが、あるとき叛いたとして滅ぼされたらしい。

 その羊太夫の墳墓から「INRI」と書いた銅版が出土している。700年代の初めのものとされている。

INRIというのはイエス、ナザレ、王、ユダヤの頭文字で、ピラトがキリストを十字架に付けた時、その十字架に貼り付けた文字だ。

多胡の胡は胡弓(こきゅう)、胡瓜(きゅうり)、胡坐(あぐら)などの胡と同じで中国から見て西方の人のことだ。

従がって多胡とは胡の人の多いことを意味する。

秦氏は、もともと牧畜を行う民族だから、牧畜をしたくてし方がない。
京都の土地を貰ったが、一部はもっと東に出て行って、牧畜に適した土地を探しただろう。
それが多胡郡辺りだ。片岡、緑野など名前からして牧畜に適していそうだ。
この場合の羊は日本カモシカであったかもしれない。今の羊は明治時代オーストラリアから輸入されたものらしい。

カモシカは本来「氈鹿」で、氈(かも)は「毛織りの敷物」(カモシカの毛は毛氈に使われたそうです)。『語源辞典──動物編』(吉田金彦)によると、南欧や西アジアのシャモア(ヤギ亜科)の語源となる camo-(カモ)が、製品の毛氈とともに日本に入り、毛氈を「かも」とよぶようになった可能性がある、とか。(紫字の部分は引用)

羊太夫とは羊で富みを築いたから羊太夫と呼ばれるようになったものであろう。
またお羊様はお蚕様と同じで、羊が生計を立てる貴重な元だからそう呼ばれて大事にされたものであろう。

乳製品や絨毯などが献上されて天皇に喜ばれたと思われるが、製品に人気が出ると過酷な要求に間に合わなくなり、不興を被り約束を違えたという事で、滅ぼされることになったのかもしれない。
或いは富みを集め勢力が強くなりすぎたため、妬まれたり、警戒されて滅ぼされたのかもしれない。

しかし、羊太夫は秩父で、銅を発見したり、進んだ文化を関東地方に持ち込み、関東発展の基礎を築いたと思われる。