住めば公園風田舎町

「住めば都」と言われるがわたしゃ田舎の方がいい。町全体が公園のようなそんな田舎町に住みたい。

539 「もしも、徐福が日本に来ていたら」 (121)

2007-12-20 23:42:06 | もしも、徐福が日本に来ていたら

539-1 桂林

これは大分前に通ってきた桂林の典型的な山の姿。 

関口知弘の中国鉄道大紀行今夜は、決定版の最終日のようだ。
フフホトからカシュガルまで、天山山脈の南を通るようだ。
北を通るならば、ホータンなのだが。
guuchan説では秦(はた)はホータンである。

539-2 西に向かって

 広大な平野、西に向かってひた走る。
11月だがもう雪景色だ。


539-3 牧羊

土地は乾燥しているが天山山脈から流れ出す川で、良い牧草が育つ。
トナカイ、羊、牛、馬などが飼われている。
いよいよ、シルクロードだ。

539-4 駱駝城

 1800年前に作られた駱駝城。
隊商の駱駝を休ませたから、駱駝城という。


539-5 天山山脈

ああ、天山山脈だ。5000m級の山並みが続く。

539-6 天山南路

 列車の右手に天山山脈が見えるということは、列車は天山南路を通っている。
山脈の北側にはホータンがあるのだが。
天山山脈は日本の本州位の大きさだ。その、山陽と山陰の裾野が生活できる平野で、その外側は海の代わりに砂漠だと思えば良い。
その山脈を囲む一帯がホータンだったのかも知れない。日本に渡来してきた秦氏はホータン族だったのではないかと思って見ていると、なかなか美人が多かった。


538 「もしも、徐福が日本に来ていたら」 (120)

2007-12-17 22:56:03 | もしも、徐福が日本に来ていたら

538-1 関口知弘の中国鉄道大紀行

さくら友の会の理事会から帰って来て遅い夕食。
そのあと、関口知弘の中国鉄道大紀行に見はまっていた。
中国の風土を紹介してくれるこの番組は好きだ。
大陸の広大さと歴史を感じさせてくれる。

538-2 沿線の風景

 広大な平野、色々の作物。駅の建物も立派だし、橋梁なども立派だ。




538-3 泰山(たいざん)

泰山に登るロープウェーのゴンドラの中の関口知弘。

538-4 泰山

 泰山の頂上付近のお寺。
麓から階段を上がってくると7000段以上あるらしい。5時間半かかったといっていた。
泰山鳴動鼠一匹の格言の山。
泰山は道教、仏教、儒教の何れにも関係した山。
世界遺産。


537 「もしも、徐福が日本に来ていたら」 (119)

2007-12-14 17:10:03 | もしも、徐福が日本に来ていたら

528-1 埴輪

12月12日の朝日新聞に「豊潤太古の世界」という見出しの記事が載っていた。
これは千葉市人形塚古墳から出土したあごひげをたくわえた古墳時代の武人埴輪群、6世紀末とあった。
これは倭種ではない。
guuchanの思う秦(はた)である。
秦は白色人種であろう。見て直ぐ分かった筈である。


528-2 この表情

あごひげをたくわえ、鼻の高い顔立ちはモンゴロイドではない。
この風俗から察せられるのは、シルクロードの商人達である。
足を腿の付近で、縛っている姿は乗馬しやすくするためと思われる。

腰に付けた短剣。半月形にもっと反っておれば、アラビア風の短刀になる。
これらは、武器であったかも知れないが、もっと日常生活に道具として色々に使われたであろう。
あるときは、狩を獲た生き物を割いたり、木や竹を削ったりしていたものではないだろうか?
山の高い帽子は、フェルトで出来たものではないだろうか?
砂漠では、強い日差しと、砂を防いだものであろう。
馬の埴輪が並んでいる。
またこの瓶のようなものは、馬の両側にくくりつけて輸送させたものではないだろうか?

528-3 焼町土器

 群馬県渋川市上三原東峯遺跡、4500年前の土器とあった。
何と見事な土器であろう。
すばらしい独創的な模様だ。
4っつの吊り輪みたいなものは、瓶を吊るすためのものだろうか?
そうではないだろう、蓋をして、縄をかけそれをこの穴に通して結んだのではないだろうか。
下男に背負わせて運ばせたかもしれない。
途中で開けられないようにしたのであろう。

 
これらを含めて、今年発掘されたものの展示が熊本市立博物館で12月15日から、来年1月20日まで、熊本市立熊本博物館で展示される。
是非行きたい。そして、天草にも廻りたい。


536 「もしも、徐福が日本に来ていたら」 (118)

2007-12-09 15:02:42 | もしも、徐福が日本に来ていたら

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536-1 弓月の君(11)

帯方郡は公孫氏が支配していたが、AD238年に公孫氏は滅ぼされ、魏の郡国制度に組み入れられた。

帯方郡太守は頻繁に代わった。
正始元年(240)、はやくも3代目となったが、弓遵という人が、帯方郡の太守となった。
新太守となった弓遵は、魏の明帝の詔書・金印紫綬を配下の梯雋に持たせて卑弥呼のもとへ送った人である。
倭に対して好感を持っていたに違いない。
ところがこの弓遵はAD245年、郡内の韓族の反乱にあって戦死する。

この弓遵が弓月国と関係があったのではないかとguuchanは想像している。
弓遵の在任期間は比較的長く240~245年であったが。245年には戦死したのである。
戦死しなければもっと長い在任を半ば約束されていたのかも知れない。
弓遵は魏の国内に居た一族郎党と共に、帯方郡に新しい国を作ろうと、手元に呼び寄せていたのではないだろうか?
しかし、弓遵が戦死して、太守は新しく任命されて本国からやってきた。弓月の一族郎党は留まって、代々の太守の下、協力していた。
AD313年に高句麗が楽浪郡を支配下に置くと帯方郡も浮き足立って自壊してしまった。
帯方郡は政治的には、馬韓(百済)に預けられたと思われる。
しかし、半島の情勢は不安定で、北方の高句麗が、いつ帯方郡に攻めてくるか分からない。
弓月一族の財産生命の安全は保証されなくなった。安全な土地を求めて、百済、伽耶國、新羅国などに分散して住んで様子を見ただろう。
しかし、新羅国は好ましい国ではなかったと思われる。
贈られたか奪ったか大量の財宝だけは、新羅は懐に納め、見返りに土地を与え国を作らせるような優遇はしなかったと思われる。

そこで、先にも述べた、AD320年、功満王が倭に来て、仲哀天皇、神功皇后に逢って。
「新羅に自分達の奪われた財宝がある。それを取り返せば差し上げますという」提案が為されたと思われる。
そうでなければ、新羅が急にそんなに富む訳がない。

そこで、神功皇后は新羅に攻め入って、その財宝を出させたのだろう。

それから85年、弓月王が倭を訪れた。

しかし、85年というのがちょっと長すぎるような気がする。
60干支一巡り分遅くなっているのではないかという気がする。
AD405年なのか?AD345年の可能性がないのか?
よく、見てみる必要がある。
AD345年であっても、AD32O年から25年も経っていて、長いと思えるのだ。
また、弓月の君が功満王の子とされている。
子の意味が子孫ということも考えられなくはないが、直ぐの子であればなおさら80年の間隔は開きすぎだ。

535 「もしも、徐福が日本に来ていたら」 (117)

2007-12-08 12:11:00 | もしも、徐福が日本に来ていたら
 

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535-1 弓月の君(10)

弓月の君のまたの名は融通王である。融通(ゆうどぅ)の発音はユダあるいはユダヤを表そうとしたのではないだろうか?
そして意味として何でも自由自在に出来る融通無碍(ゆうづうむげ)の意味である。

秦の一族は、天皇からハタの名前を許され、都(みやこ)が未だ、奈良にあった時代に、京都の土地を与えられて住んだ。
彼らはそこの土地を太秦と名づけえた。大秦がローマ帝国である。が西欧を意味するなら、猶太(ユダヤ)のから来たとも考えられる。
単に西欧の国でなく、その中でも猶太系の秦国を意味したのではないか。
太秦をどうしてウズマサと読むのかは日本語からの発想では分からない。
しかし、イエス・キリストも使われたであろうアラム語で、イエス・キリストのことは「イシュ・マシァ」あるいは「イエス・メシア」と呼ばれた。
イエス・メシア(イエス・救い主)の語は、東方に広がり「イズ・マシ」とか、「イザ・マサ」、さらに東へ移動して、インド北部あたりまで来ると、「ユズ・マサ」などと発音されたようである。
京都には神社、お寺、地名など色々なものに太秦が使われている。

京都の大酒神社の由緒書きには、弓月王は一万八千六百七十余人統率して日本に帰化したとある。
大集団が太秦に住み始めた時は、未開の原生林だったに違いない。 
彼らは希望に燃えて自分達の理想の国づくりに取り組んだことであろう。
京都の東にある湖は近淡海(おうみのみ)と呼ばれていたのだろうか?
何時から琵琶湖と呼ばれるようになったのであろうか?

イエスが説教を始められ、弟子達を集められたのはガリラヤ湖の湖畔である。
ガリラヤ湖はキリスト教発祥の地であり、キリスト教徒にとっては、懐かしい故郷のように思い浮かべる湖だ。
そのガリラヤ湖は古代ではキテレネ湖と呼ばれていたことがあり、それは琵琶湖と言う意味だそうです。

太秦をネットで調べたら、あまりにもユダヤ、ネストリウス派キリスト教(景教)、などとの繋がりを説くものが多いのにビックしました。