住めば公園風田舎町

「住めば都」と言われるがわたしゃ田舎の方がいい。町全体が公園のようなそんな田舎町に住みたい。

531 「もしも、徐福が日本に来ていたら」 (113)

2007-12-03 18:21:16 | もしも、徐福が日本に来ていたら
 

まとめて読みたい方は、上の「もしも、徐福が、、、(カテゴリー)」↑
をクリックしてください。

目次は、ここをクリックしてください。 

531-1 弓月の君(6)
☆10応神天皇十四年(癸卯283+120=403)是歳
◆是歳。弓月君自百濟來歸。因以奏之曰。臣領己國之人夫百廿縣而歸化。然因新羅人之拒。
皆留加羅國爰遣葛城襲津彦。而召弓月之人夫於加羅。然經三年而襲津彦不來焉。




AD403年、応神天皇の御世の14年に百済より弓月の君来たり帰す。
よってもって奏して曰く、臣は己国の人夫百廿県を領し而して帰化す。然れども新羅人此れを拒む。
皆加羅國に留まる。爰(ここ)に、葛城の襲津彦を遣わし而して加羅に居る弓月の君の民を召す。
然れども、三年を経て襲津彦来たらず。

guuchan注:
己国(おのれのくに)とは、其の出身母国である漢のことを指すと思われる。
★10応神天皇十五年(甲辰284+120)八月丁卯《六》◆十五年秋八月壬戌朔丁卯。
百濟王遣阿直岐。貢良馬二匹。即養於輕坂上厩。因以以阿直岐令掌飼。
故號其養馬之處曰厩坂也。阿直岐亦能讀經典。即太子菟道稚郎子師焉。
於是天皇問阿直岐曰。如勝汝博士亦有耶。對曰。有王仁者。是秀也。
時遣上毛野君祖荒田別。巫於百濟。仍徴王仁也。其阿直岐者。阿直岐史之始祖也。


AD404年、応神天皇十五年(甲辰284+120)八月。
百濟王、阿直岐(あちき)を遣わす。良馬二匹を貢ぐ。
即ち軽(かる、奈良県橿原市大軽付近)の坂上(さかのうえ)の厩に養う。因って以って阿直岐を以って飼うを掌(つかさど)らしむ。

故に其の馬を養う所を厩坂と号す。阿直岐はまた經典を能く読む。
即ち太子(たいし)菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の師なり。
ここにおいて天皇は阿直岐に問うて曰く、汝に勝るが如き博士はまた有るか。
王仁(わに)なるもの有り。是れ秀でるなり。
時に荒田別の祖の上毛野の君を百済の巫(こうなぎ)に遣わす。
すなわち王仁を徴すなり。其の阿直岐なる者は阿直岐史(あちきのふひと)の始祖なり。

国語大辞典(新装版、小学館1988)によると、

坂上(さかのうえ)は古代の帰化族で後漢の霊帝の子孫で、
応神天皇のころ来朝した東漢氏の一族といわれている。
はじめ東漢坂上(やまとのあやのさかのうえ)と称していたが、
天武天皇のころから坂上氏と呼称した。
飛鳥・奈良時代の名門で、一族からは苅田麻呂・田村麻呂らの名将、
是則・望城らの歌人、範政・明兼・明基らの明法家を輩出した。