住めば公園風田舎町

「住めば都」と言われるがわたしゃ田舎の方がいい。町全体が公園のようなそんな田舎町に住みたい。

532 「もしも、徐福が日本に来ていたら」 (114)

2007-12-04 21:46:40 | もしも、徐福が日本に来ていたら

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532-1 弓月の君(7)

★10応神天皇十六年(乙巳285+120)二月
◆十六年春二月。王仁來之。則太子菟道稚郎子師之。習諸典籍於王仁。莫不通達。
故所謂王仁者。是書首等之始祖也。

AD405年、応神天皇の16年2月王仁来る。即ち太子菟道稚郎子(うじのわくいらつこ)の師なり。王仁に諸典籍を習う。
通達せざるなし。

☆10応神天皇十六年(乙巳285+120)是歳
◆是歳。百濟阿花王薨。天皇召直支王謂之曰。汝返於國以嗣位。
仍且賜東韓之地而遣之。〈東韓者。甘羅城。高難城。爾林城是也。〉


AD405年、応神天皇の16年、百済の阿花王薨ず。天皇、直支王を召して是に謂いて曰く、汝、國に返りてもって位を嗣ぐべし。
仍(すなわち)、且つ東韓之地を賜い而うして遣わす。〈東韓は甘羅城、高難城、爾林城是れなり。〉

●10応神天皇十六年(乙巳285)八月
◆八月。遣平群木菟宿禰。的戸田宿禰於加羅。仍授精兵詔之曰。襲津彦久之不還。必由新羅人拒而滞之。汝等急往之撃新羅披其道路。於是木菟宿禰等進精兵莅于新羅之境。新羅王愕之服其罪。乃率弓月之人夫。與襲津彦共來焉。

AD405年、応神天皇の16年八月、平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね、武内宿禰の子)及び的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅に遣わす。
仍(よ)って精兵を授(ず)け詔(みことのり)して曰く、襲津彦(そつひこ)久しく還らず。
必ずや新羅人の拒む由ありて而して滞(とどこお)る。
汝等、急ぎ往きて新羅を撃ち其の道路を披(ひら)け。是(ここ)に、木菟宿禰(きつすくね)等、精兵を新羅之境の莅に進む。新羅王、愕(おどろ)いて其罪に服す。
乃(すなわち)弓月の人夫を率いて襲津彦(そつひこ)と共に來たる。


要約すると

AD403年に弓月の君が倭に帰化し、自分の国の人夫は多数、新羅に留められて倭に来ることが出来ないと訴えたので、葛城の襲津彦を遣わして迎いに遣った。

その間、AD404年に阿直岐(あちき)、AD405年に王仁(わに)が倭に来て帰化した。

AD405年には百済の阿花王(あふぁおう)が亡くなって、倭に人質として来ていたその王子の直支王(ときおう、そのときはまだ太子)を王位を継がせるために帰した。
そのとき、半島の倭の領土であった東韓之地を与えて帰した。

その年、襲津彦(そつひこ)と弓月の民とを迎えに二人の宿禰を遣った。
二人は弓月の民と、襲津彦(そつひこ)を連れ還ってきた。

関連の無い記事の羅列だけでは面白くないかもしれないが、ここに歴史の謎を解く多くの鍵が含まれている。