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532-1 弓月の君(7)
AD405年、応神天皇の16年2月王仁来る。即ち太子菟道稚郎子(うじのわくいらつこ)の師なり。王仁に諸典籍を習う。 通達せざるなし。
AD405年、応神天皇の16年、百済の阿花王薨ず。天皇、直支王を召して是に謂いて曰く、汝、國に返りてもって位を嗣ぐべし。 仍(すなわち)、且つ東韓之地を賜い而うして遣わす。〈東韓は甘羅城、高難城、爾林城是れなり。〉
AD405年、応神天皇の16年八月、平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね、武内宿禰の子)及び的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅に遣わす。 仍(よ)って精兵を授(ず)け詔(みことのり)して曰く、襲津彦(そつひこ)久しく還らず。 必ずや新羅人の拒む由ありて而して滞(とどこお)る。 汝等、急ぎ往きて新羅を撃ち其の道路を披(ひら)け。是(ここ)に、木菟宿禰(きつすくね)等、精兵を新羅之境の莅に進む。新羅王、愕(おどろ)いて其罪に服す。 乃(すなわち)弓月の人夫を率いて襲津彦(そつひこ)と共に來たる。 要約すると AD403年に弓月の君が倭に帰化し、自分の国の人夫は多数、新羅に留められて倭に来ることが出来ないと訴えたので、葛城の襲津彦を遣わして迎いに遣った。 その間、AD404年に阿直岐(あちき)、AD405年に王仁(わに)が倭に来て帰化した。 AD405年には百済の阿花王(あふぁおう)が亡くなって、倭に人質として来ていたその王子の直支王(ときおう、そのときはまだ太子)を王位を継がせるために帰した。 そのとき、半島の倭の領土であった東韓之地を与えて帰した。 その年、襲津彦(そつひこ)と弓月の民とを迎えに二人の宿禰を遣った。 二人は弓月の民と、襲津彦(そつひこ)を連れ還ってきた。 関連の無い記事の羅列だけでは面白くないかもしれないが、ここに歴史の謎を解く多くの鍵が含まれている。 |