住めば公園風田舎町

「住めば都」と言われるがわたしゃ田舎の方がいい。町全体が公園のようなそんな田舎町に住みたい。

386 「もしも、徐福が見本に来ていたら」 (62)

2007-06-20 09:40:13 | もしも、徐福が日本に来ていたら

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382 中国の史書に現れる倭(1)

史記

史記は司馬 遷(しば せん、紀元前145年 - 紀元前86年?)によって書かれている。
BC100年頃に書いたと思われる。
それには徐福が良家の子女3000人を連れてBC220に東方の海中にある島に向ったとある。
その伝説を追ってこのブログを書き始めた。
その後は、中国の史書にどういう形で現れているだろう。

漢書

漢書(かんじょ)は、前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)のことを、AD100年頃に書いたもである。
著者は班固(はん こ、男性、32年 - 92年(建武八年 - 永元四年)およびその妹班昭。
父班彪も歴史家であり、班固に先立ってすでに65編を編纂していた。
その漢書に、

「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」

とある。

朝鮮半島の先の海の中に倭人がいて百余の国を作り、時に来て朝貢していたとある。
AD100年頃、BC200~8のことを書くのである。
今から江戸中期ないし明治のことを書くのであるからそう信頼性を欠くことは無いと思う。

秦の始皇帝が亡くなった後も、徐福集団の末裔たちは、中国と連絡を取っていたのである。
朝鮮半島が目的ではなく、中国皇帝に国王として認められ、その領土が認められることで、安心できたのである。
それと同時に、技術導入、最新兵器、兵術の導入、新しい文物の導入、人材の教育に、
中国との往来は不可欠だったと思っている。
それを怠れば、朝鮮半島の国々を含め、国内の相互の間でも、紛争が起こった場合に、戦争に敗れる恐れを心配したであろう。

「漢書」も、「三国志」の魏志倭人伝もこの記事は参照できた。
今のように、インターネットでホイホイと検索することは出来なかったから、たった一つのことでも、
どの書のどこに書かれているということを発見することは大変な苦労だったであろう。

後漢書

『後漢書』「東夷傳」

『後漢書』(ごかんじょ)は、中国後漢朝について書かれた歴史書で、編者は范曄(はんよう、398年 - 446年)である。
後漢(ごかん、25年 - 220年)は、魏志倭人伝が書かれた三国時代より一つ前の時代である。
しかし、後漢書はAD450年くらいに書かれているとすると、魏志倭人伝より200年も後のことである。
そのため、当然魏志倭人伝も見ることが出来るので、魏志倭人伝を見て書いたとされ、史料価値が劣るとされてきた。
しかし、後漢書は魏志倭人伝が参照したと思われる第三の史料があって、それを参照しただろうと説がある。
guuchanもそう思う。
そのサイトを紹介しておく
『魏志倭人伝』と『後漢書』倭伝の違い

その後漢書に、
建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
安帝、永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う
「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」


AD57年、AD107年に朝貢している。
朝貢が行われるのは、大体即位した時に行われたと思われる。

続く