住めば公園風田舎町

「住めば都」と言われるがわたしゃ田舎の方がいい。町全体が公園のようなそんな田舎町に住みたい。

383 「もしも、徐福が日本に来ていたら」 (61)

2007-06-14 14:08:15 | もしも、徐福が日本に来ていたら

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382 近畿情勢


 神武東征の時、近畿はどういう情勢にあったかを考えてみよう。

それは神武東征が何年ごろかによって違ってくる。
推定の史料としては、
 1)三国史記新羅本紀の記述、卑弥呼が女王に即位したのは、「二十年 夏五月 倭女王卑彌乎 遣使来聘」で175年のこととされる。
 2)魏志倭人伝の記述、248年(正始8年)、卑弥呼の死去、在位64~73年。
 3)古事記の記述、出雲の国譲り、天孫降臨、神武東征

出雲の国譲りの時期

 スサノオノミコト(天照大神(卑弥呼)の弟)は出雲に行き、そこで結婚し須勢理比賣を儲けます。
スセリヒメは卑弥呼の女王就任から5~20年後に生まれたとしましょう。
これだけ幅を持たせたのは、スサノオは沢山の相手に子を産ませている様子だからです。
大国主のミコトハそのスセリヒメに出あって結婚します。
スセリヒメが大国主を見初めて大国主の長男を生むのが18~20歳だったとすると、女王就任から23~40年後となります。
その長男が、近畿で勢力を張る約30歳の年というと女王就任から53~70年後となります。
すると建御雷之男神が出雲の国を譲り受ける交渉が成立したのは、女王就任から53~70年になります。
西暦でいうと(175+53~70)=228~245年

大国主はスクナヒコという神と一緒に国を作り紀伊などとも交流を深め、勢力を延ばしました。
出雲は近畿の隣と言う感じで、丹後(京都)、若狭(福井)とも交流を深め、近畿進出が早かったと思われる。
天照大神は、建御雷之男神を派遣して、大国主からその全土の統治権を譲らせます。
天も出雲も、もともと同じ徐福集団でした。そして、天の族長の方が、家柄において徐福、始皇帝、徐王など王家の血筋を引く、全集団の支配的地位にあったと思われます。
このような理由で、出雲の国禅譲は行われたと思います。
そのとき、近畿地方を治めていた大国主の長子の方も権利を譲りました。

神武東征の時期

出雲の国譲りを待って、天孫降臨は行われました。
従って天孫降臨もそのまま、西暦228~245年に行われたとしましょう。

イツセノミコト、神武天皇などは、ニニギノミコトの曾孫です。
ニニギノミコトは降臨後に結婚していますから、ホオリノミコトが生まれたのは降臨後5年としましょう。
ホオリノミコトが結婚して、孫のナギサタケウガヤフキアエズの尊が生まれたのが、さらに25年後とすると降臨後30年になります。
その4男のジンムテンノウが生まれたのは、その30年後とすると降臨から60年になります。
その東征の時、兄イツセノミコトが30歳、カムヤマトイワレヒコ(ジンムテンノウ)20歳の時とすると、東征は降臨後80年になります。
さらにヤマトに入るのは東征開始から16年は経っていますから、降臨から96年を経ていることになります。

神武東征で近畿に入るのは、西暦(228~245年+96年)後の西暦324~341年になります。
4世紀前半と言うことになります。

近畿から出雲が手を引き、領土を天に譲り渡してから約100年間、近畿は空白状態にありました。
勿論近畿周辺にも、、天や出雲と関係の深い紀の国などの徐福集団も居ました。
しかし、その100年の間にも、朝鮮半島で繰り返される混乱から、自由の天地を求めて日本列島に入ってくるものもありました。
彼等は王族として、天や出雲と無関係では有りませんでしたが、住むに当たっては、未開の辺境に追いやられました。
それらが、一部は近畿、更に関東に行って住んだものと思われます。
彼等は、全土は天の土地として認めたうえで、その中で土地を与えられて住むことを許すというのが天の姿勢でしたが、住む方は、新天地に先も後も有るかと方々に唾を着け領土の奪い合いになりました。

朝貢もしない。そういうのが増え、天の権威を認めない国々、すなわち(まつろわぬ国)が増え力も増していたと思われます。
イツセノミコトとカムヤマトイワレヒオが京都(みやこ)を何処において、政をするのが良いかを議したのはこういう背景があったかたらだと思われます。