住めば公園風田舎町

「住めば都」と言われるがわたしゃ田舎の方がいい。町全体が公園のようなそんな田舎町に住みたい。

393 「もしも、徐福が日本に来ていたら」(65)

2007-06-29 15:44:12 | もしも、徐福が日本に来ていたら

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382 倭伊波禮毘古命(カムヤマトイワレヒコノミコト)(3)


赤字、緑時は参考のために載せました。
飛ばして読んでも差し支えありません。

故倭伊波禮毘古命從其地迴幸 到熊野村之時 大熊髮出入即失 
爾倭伊波禮毘古命忽爲遠延 及御軍皆遠延而伏【遠延二字以音】 
此時 熊野之高倉下【此者人名】齎一横刀 到於天御子之伏地而 獻之時 
天御子即寤起 詔長寢乎 故受取其横刀之時 其熊野山之荒自皆爲切仆 
爾其惑伏御軍悉寤起之
 故天御子問獲其横刀之所由 高倉下答曰 己夢云 天照大 高木二柱之命以 
召建御雷而詔 葦原中國者 伊多玖佐夜藝帝阿理祁理【此十一字以音】我之御子等 
不平坐良志【此二字以音】 其葦原中國者 專汝所言向之國 故汝建御雷可降 
爾答白 僕雖不降 專有平其國之横刀 可降是刀【此刀名云佐士布都 
亦名云甕布都 亦名布都御魂 此刀者 坐 石上宮也】降此刀状者 
穿高倉下之倉頂自其墮入 故阿佐米余玖【自阿下五字以音】汝取持 
獻天御子 故如夢而 旦見己倉者 信有横刀 故以是横刀而獻耳

そうして、カムヤマトイワレヒコノミコトは、その地より廻って熊野村にきたとき、
大熊が突然出没した。
こうしてカムヤマトイワレヒコノミコトも、軍も気が遠くなって伏せた。
此の時に、熊野の高倉下(たかくらじ)一ふりの横刀(たち)を齎(も)ちて、
天つの御子の伏せし地に到りて獻(たてま)つる時に、天つの御子、即ち寤(い)ね起きて、
「長く寢ねつるか」と詔(の)りき。 
故、其の横刀を受け取りし時に、其の熊野の山の荒ぶる、自から皆切り仆(たお)されき。 
爾くして、其の惑(おえ)伏しき御軍(みいくさ)、悉く寤ね起きき。
 故、天つの御子、其の横刀を獲(え)し由を問うに、高倉下(たかくらじ)、
答えて曰く、「己が夢に云う。
天照大・高木の、二た柱のの命(みことのり)以ちて建御雷(たけみかづち)のを召して、
『葦原中國(あしはらのなかつくに)は伊(い)多(た)玖(く)
佐(さ)夜(や)藝(ぎ)帝(て)阿(あ)理(り)祁(け)理(り)【此の十一字は音を以ちてす】。
我が御子等(たち)、平らかならず坐(いま)す良(ら)志(し)【此の二字は音を以ちてす】。
其の葦原中國は專(もは)ら汝が言向(ことむ)けし國。
故、汝、建御雷の降るべし』と詔りき。
爾くして答えて、『僕、降らずと雖ども、專ら其の國を平げし横刀有り。
是の刀降すべし【此の刀の名は佐(さ)士(じ)布(ふ)都(つ)のと云い、
またの名を甕(みか)布都のと云い、またの名は布(ふ)都(つ)の御魂(みたま)。 
此の刀は石上宮に坐します】。
此の刀を降す状(さま)は、高倉下が倉の頂を穿ちて其より墮し入れん。
故、阿(あ)佐(さ)米(め)余(よ)玖(く)【阿より下の五字は音を以ちてす】
汝取り持ちて天つの御子に獻れ』と白(もう)しき。
故、夢のえの如くに、旦(あした)に己が倉を見れば、信(まこと)に横刀有り。
故、是の横刀を以ちて獻る耳(のみ)」。

漢文の原文と、緑字の読み下しを多少現代文風にしたものとを載せた。
しかし、これでは、何も新しいものはない。
そこで、guuchanの解釈を施す。

ジンムテンノウが熊野村に来た時、大熊が出没した。
ジンムテンノウも軍も気が遠くなって伏したとある。日本書紀ではその熊が毒気を吹いたとある。

冗談ではない。如何に大きな熊であろうと熊が出たぐらいで、大将から兵隊まで気が遠くなって、倒れてしまうような腰抜け軍隊で戦など出切るわけがない。
そんな風に解釈しては、東征軍に失礼だろう。

想像して欲しい。遠征して来て、初めての土地で山に分け入って居るのだ。
道案内は居ただろうが、現代のように地名や目印を書き込んだ地図があるわけではない。
山道を進んで来ると、遠くにちらちらと集落が見えてくる。
近寄って行くと大きな集落のようだ。
これは敵か見方か。どういう人たちが住んで居るのか?
敵ならどういう武器を持ち、どれ位の人数が居て、どれくらい強いのか?
用心するのは当然だ。

少し遠くに引いて様子を見ただろう。
あるいは、様子を探らせる間、休憩して一眠りしたかも知れない。
大熊とは何か?それはこの熊野村のことだろう。大きな村だったので大熊としたのだろう。

初めての土地の名の「熊野」をしっかりと脳裏に刻むには大熊が出たという話しにしておくと熊野という地名が覚えやすい。
そしてそこは大きい村だったということだ。

次に、
そこに、高倉下(たかくらじ)という人が、
「あなた方をお待ちしていた」と言って現れ、一振りの刀を献上した。

高倉下いわく、
「天照大神と高木神が高天原で話し合っている夢を見た。
。あそこは建御雷神(たけみいかずちのかみ)を呼んで、『東征軍が苦労しているようだ。あそこはあなたが出雲と話し合って天(あめ)に譲ることに決まったところだ。あなたがもう一度行ってくれ。』と言うと
建御雷神は『わたしが下るまでもない。そのとき使ったこの横刀(かたな)を持っていけばよい。』
と言われた。
刀は倉の屋根に穴あけて、そこから投げ入れるというのだ。
「阿(あ)佐(さ)米(め)余(よ)玖(く)」とは何か?
朝目翌ではないかと思う。翌朝の目覚めのことだろう。

この話の意味は

高倉下が現れた。
倉下は高建御雷神が出雲の大国主命の息子の建御名方(タケミナカタ)のを追い詰めた戦に参加して力有ったものと思われる。
すでに、高建御雷神は亡くなっているが、高倉下はこの地が天(アメ)の領土であることを知っていて、この度も力になると言っているのだ。

倉の天井に穴あけては、これも記憶術だ。
「高倉下」という字を覚えるには、これを映像化するとき、高い倉の天井から刀を下げるとイメージして脳裏に刻む。
この刀が、実際に石上宮に奉納されていると書いてあるから、宝刀はあったのだろう。

ジンムテンノウは熊野において、荒ぶる神を高倉下の助勢を得て簡単に倒すことが出来た。
日本書紀によると、これは神武即位の3年前ということになる。

これらの話を報告したのは東征軍に従軍した従軍記者だ。
即ち語部(かたりべ)である。
彼等は、従軍中いちいち、木簡に書き留めるなどできない。そんな木簡などの資材を運ぶことが出来ないだろう。
脳裏に刻むしかない。そのとき、熊野村や高倉下という名を忘れないように脳裏に刻むために、こういう物語にして帰ってそれを報告しただろう。

この話の中の、事実の部分は正確に報告されたものがあったはずだ。
他方、その語り部は、この暗号めいた話を宴席などで披露して、みんなで笑ったかもしれない。
従軍した人たちにはよく分かっただろう。そしてうまく地名や人の名が織込まれた話しに笑い興じて誉めそやしたに違いない。
この物語を一度聞くと、自分たちが東征軍でどんな風に戦ったかを、子孫に語ることができた。地名や人の名を間違えずに正しく伝えるのに大いに助けになったに違いない。
しかし、事実を知る人が死んでしまって、物語だけ残され、それが数世紀を経て新しく解釈されるととんでもない神話になってしまったのだ。