住めば公園風田舎町

「住めば都」と言われるがわたしゃ田舎の方がいい。町全体が公園のようなそんな田舎町に住みたい。

345 「もしも、徐福が日本に来ていたら」 (38)

2007-05-10 06:06:20 | もしも、徐福が日本に来ていたら

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烏奴國

烏奴國は、支惟國と奴國の間にある。そうすると、下関の辺りか門司の当たりか、門司と福岡の間の北九州かということになる。
下関辺りは、周防國がカバーしているようだ。あるいは、北側は長門に属していたかもしれない。
すると、門司付近か?
ここは、関門海峡の要衝で、通行する船から税を徴収することも出来るし、干満に応じて発生する潮流の方向によって、交通する船舶に安全のために指示を出すなど公の仕事がある。
しかし、この地域は豊國に属していたようだ。
すると、烏奴国はそれより南になる。
若松湾も考えられるが、この地名の由来は仲哀天皇の熊襲征伐に因んで名がつけられている。6世紀のことだ。
もう一つの候補地は遠賀川だ。
調べてみると、河口付近の町には縄文時代からの遺跡があったり、金屋遺跡という鉄を溶かした時に出るカスの遺跡もある。いい砂鉄が出るのであろう、芦屋釜という鉄の釜でも有名だ。
芦屋、山鹿は遠賀川の河口だが岡湊(遠賀をオカと発音したのか?)として、万葉の時代から知られていた。同時に陸路は唐津街道がここを通っており、水陸の要衝であった。
岡県主また、芦屋は、大宰府の支所の役割もしていたという。
日本書紀に神武天皇が東征へ向かう途中、岡水門(おかのみなと)に立ち寄った、とある。古事記ではこのことを、竺紫(つくし=筑紫)の岡田宮(をかだのみや)に一年間滞在した、としている。
岡水門(おかのみなと)は、のちの葦屋津(あしやのつ)、今の芦屋港(あしやこう)とされている。
とうわけで、遠賀(岡)は非常に有力だ。オンガという読みもいわくありげだ。
オンガと鼻濁音で発音するとウナに近いと思う。遠賀川ににその名をとどめている、オンガこそウナ國ではあるまいか。?

中世には、
(長門国赤間の関壇ノ浦の海上に於いて、
源平相対し各々三町(町は、60間。1町は、約109m)を隔てて舟船を艚ぎ向かう。
平家五百余艘を三手に分け、山峨兵藤次秀遠並びに松浦党等を大将軍と為し源氏の将帥と挑戦す。)
この山鹿兵頭秀遠の居城が山鹿にあった。

また、烏奴国であるが、岡(遠賀)県(あがた)と同じように烏奴県(うなあがた)などと呼ばれていたとすれば、これが直方(ノウガタ)になることは直ちに分かる。直方平野は遠賀川の流域の平野を指す。
水陸の交通の要衝で、神武天皇の東征の時もここに一年滞在して、物資を集めたという、芦屋、山鹿、これこそが烏奴国という気があなたもしてきた筈だ。
(この説はguuchanがはじめて唱えるもの、引用する時は、guuchan説と断って引用してください。それでないと、別の出典があるかと、研究を混乱させることになります。)

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12 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
GUUCHANさん....おはよう御座います. (お気楽で--す.)
2007-05-10 07:45:25
いゃイャ 益々 近所に 一年も逗留していたのですか.
何でか 親近感 覚えます...
おまけに お気楽は 退職前の 4年間 芦屋競艇の
側の 会社に 通いましたよ....
そぅソゥ 八幡の 浅川...今は 八頭(やつがしら)に
地名が 変更に なっています....
お見事な 推理 恐れ入ります...

薔薇の お花 綺麗です....
又 遊びに 来ます.
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お気楽さんーこんにちは (guuchan)
2007-05-10 09:32:51
 これも何かのご縁でしょうねえ。

 guuchanも山鹿にご縁のあるものですが、これほど由緒あるところだとは知りませんでした。

 ちらほらと、子供の頃から、百足退治の俵藤太秀郷の話しなど聞いたことがありました。

 正直驚いています。
 
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身近に (かのこ)
2007-05-10 11:09:26
guuchanさん今日は。
下関近辺のお話になってきたのですね~。
お二人には嬉しいお話ですね~。

芦屋は兵庫の芦屋と関係あるのでしょうか・・?
そちらに芦屋があることを初めて知りました。

由緒ある所に住まれたことで guuchanさんにのり移って書かせている様にもみえました。

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かのこさん~こんにちは (guuchan)
2007-05-10 12:32:01
 そうですね。
 芦屋といえば今は阪神の芦屋のほうが有名です。

 しかし、古代史の上では、福岡県の芦屋が大きな役割を果たしていました。

 山鹿の芦屋は、芦で作られた家というところから、芦屋になったといわれています。

 葦なら、遠賀川のこの辺には大きな葦原があったことが想像されます。

 船、武器など多数作らねばなりません。九州の各地からも集積したでしょうが、兵隊など多数を集めれば、多数の労働者も必要です。

 その宿泊施設はどうするでしょう。葦で仮設住宅を多数作ったと思います。
 これが芦屋ではないかとguuchanオリジナルです。

 兵庫の芦屋も、そのように軍を集めたりした場所で、周囲に葦があれば、同じく芦屋と名づけられる可能性は高いとお思います。

 神武東征の時、その辺りがベースキャンプになったでしょうかねえ? 

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遠賀川水系 (しげチャン)
2007-05-10 14:01:04
面白い推理です。遠賀川水系には、王塚古墳や竹原古墳などの装飾古墳や大小の古墳が点在、稲作初期の遺跡(伊佐座遺跡)があり、古代より定住がなされた地域です。生産性から、集落の形成も早期と考えられます。
 当時の地形は、遠賀川と彦山川の合流地点から北側は、湿地帯であったと考えられます。また若松半島は、孤立した島だったと思います。
当時の地形を考え合わせると、場所の設定は、やや南よりではと、思っています。
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若松が島であった証拠 (しげチャン)
2007-05-10 14:57:28
遠賀川の河口と洞海湾を結ぶ4km程の「江川」について、興味深い内容を説明します。江川は潮位で流れが変わる河川です。実験に空き缶を浮かべても、潮位が同じ場合は、留まっています。近郊の方に聞いてもどちらに流れるか答えられません。

故に江川は、昔の海峡の跡だと思います。周辺の土砂が堆積し、尚新田開発で海峡を埋めたものと考えられます。中間点に潮境地蔵があり不思議な感覚の河川でした

岡田宮は、黒崎の岡田神社の説もあります。芦屋は洲の上に出来た漁村と考えられます。芦屋の岡湊神社は近世の雰囲気があります。岡田神社のお祭りは、勇壮で喧嘩に行く感じがします。
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しげチャン~こんにちは (guuchan)
2007-05-10 16:17:56
 若松は島、言ってみれば今でも島です。

 その通り、いわば中洲です。
 数万年前なら、もっと奥まで、海が入っていたということには同意できます。安岡付近でもそうです。しかし2,000年前ぐらいですとそれほど変わらないでしょう。

 神宮皇后も江川を取って芦屋に、豊臣秀吉も江川を通って芦屋についています。
 むしろ人工的に開鑿したのではないかと思うほどです。
 それだから、なお交通の要衝となったと思います。
 芦屋を歌った万葉の歌が数多くあります。
 
 芦屋には川を挟んで対岸の山鹿には山鹿城があり、壇ノ浦で平家軍の水軍の総大将であった山鹿兵頭秀遠の居城もあります。

 それほど、かっては芦屋、山鹿は重要視されていたのですね。

 古墳は興味あるところです。

 その二つの古墳が、新しいのか古いのか非常に実興味があります。

 古墳といえば、弥生時代の後として5、6世紀というのが定説ですが、昔の考古学の年代推定は当てにならないと思います。
 何か科学的に推定する方法が欲しいですね。

 全国に若宮という地名が多いので、なんとも居えませんが若宮古墳、竹原古墳の壁画は、神武東征の物語を伝えているようでもありますし、あるいはそれ以前、イザナギだったか、若宮に帰る。というのがあったように思います。
 その地が、そんなに古代のロマンに溢れているとは知りませんでした。
 少し、伊都国に押されて居るようですね。
 古墳の発見整備が遅かったからかの知れません。

 貴重な御意見ありがとうございました。
 
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学ぶ (自然を尋ねる人)
2007-05-10 16:29:40
 最近はご無沙汰ばかりの毎日です。
連休は遊びつかれ、6日以降は川を綺麗にする作業に没頭しています。
本日は雨が降り風が強いので草刈を止めて、出てきたゴミの処理をしていましたがやはり神ではありませんから午後から少し頭を休ませています。
テレビやパイプ、弁当の食べかす、丁寧に荷造りしたダンボールの中?の為放置していたら、カラスが検査してくれて台所の残飯などでした。
これを処理するためにセンターへ持ち込めば偉い役人はいやな顔をする。
ストレスを解消する為のブログ製作となりました。
これを除福さんがみていたら私なら福山の職員から除くがといったでしょう。
これでストレス解消。サンキュウ。
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自然さん~こんにちは (guuchan)
2007-05-10 16:53:31
 自然さん、福を除いてしまうから、苦労ばまりするのです。

 ヤッパリ捨てるのに有料という今の制度が悪いのですね。
 ボロ買いさんではありませんが、ゴミを持ち込めば僅かであるが金を支払う。
 そういう制度を試してみる価値はあるようですがいかがでしょう。
 
 自然を尋ねる人さん、時には役所を尋ねる人さんにもならねばなりませんね。
 辛いところです。
 ガンッバってください。
 いやいや、頑張らないでいいです。
 楽しくやりましょう。
 
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万葉集と歌と場所 (しげちゃん)
2007-05-11 12:48:12
万葉集と歌と場所については、矛盾が見られます。志賀島の荒雄が、対馬に渡り遭難した歌が五島の福江の三井楽に歌碑あったりします。

若松が島なら、山鹿は島の西の端にあたります。重要な要所と云うならば、潮待ちか風待ち程度の地点でしょう。芦屋は砂州上の集落で河川交通の基点でしょう。大量輸送が河川に依存した時期には、基点となった地域と考えられます。万葉時代の地形は西川が遠賀川に合流する地点が大きな入江になっていたと考えられます。入江は、古月の横穴(史跡)付近まであったのではと思っています。近辺は自転車で名度も通過して地域なので、良く分かります。
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訂正 (しげちゃん)
2007-05-11 12:50:48
近辺は自転車で名度も通過して地域なので、良く分かります。




近辺は自転車で名度も通過した地域なので、良く分かります。
以上変更します。失礼しました。
返信する
しげチャン~こんにちは (guuchan)
2007-05-15 12:17:29
 荒尾が対馬に向うのに五島に行く必要はないので、美禰良久を五島の三井楽に否定するのはおかしいと以前から思っていました。
 しかし、唐津付近にそれと思わせる地名がすぐには見つからないので宿題になっています。

 万葉の地名は充てにならぬ、だから芦屋もおかしいということでしょうか?

 山鹿は汐待、風待の意味しかない?
 
 山鹿兵頭の城が山鹿にあったことは間違いないでしょう。

 山鹿兵頭は500艘の平家方の船を率いる船戦の大将として参戦しています。

 遠賀川の山鹿のすぐ上流には、川幅が広くなったところがあって、汐待にも適しています。

 500艘もの船を安全に係留出来る川もそう多くは有りません。

 guuchanは造船所の遺跡の可能性を探しています。
 
 何度も訂正されているようですが、名度は訂正されていないようで、名度の意味がわかりません。
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