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488-1 日本人の特性 (4) よらしむべし、知らしむべからず 「よらしむべし、しらしむべからず」という言葉、一度や二度は誰でも聞いたことがあるであろう。 論語にある。 子曰民可使由之不可使知之 子曰、民可使由之、不可使知之、 しのたまはく、たみはよらしむべし、しらしむべからず 孔子は云われた。民は依らせなさい。知らしめてはなりません。 依らせなさいの解釈が問題だ。 子供が親に従がうように、信頼されていれば、いちいち、説明しないでも民は王の言葉に従がうものだ。 そういう風に政治をしなさい。 親がいつも子の為を思うように、王がいつも国民のためを思って政治をしているならば、おのずと民は従がうものだ。 信用がないから、いちいち、説明しなければならない。 いちいち説明しないと国民が従がわないような政治ではまだまだ駄目だ。 孔子はそういう意味で、言ったのではあるまいか? それを、為政者は自分に都合のいいように解釈した。 ただ力で教え込むだけで、従がわせるのが正しく、民に本当のことを教えてはならないのだ。 という愚民政治に解釈した。 いまでも、大部分の人は、そう思っているのではあるまいか。 若しそうなら、それは孔子の言葉でなく、そういって居る人自身の下劣な言葉でしかない。 論語は孔子の言葉を集めたものである。孔子は徐福よりも200~300年位前の人であり、秦の時代にあっても当時の政治のお手本として、帝王達は学んでいたことであろう。 もっとも、始皇帝は、教師面をして帝王に教えるという学者を憎み、坑儒を行った。 儒者を生き埋めにし、儒教の本(竹簡や木簡)を燃やさせた。 始皇帝の気持ちも分かる気がする。 儒教は古に学ぶ学問である。 周時代の王様達の言動から学ぶだけで、科学的真理の発見につながるような自然科学的要素がない。始皇帝の進歩的な気質に合う筈がない。 あまり儒教が尊重されて、人々がそういうものを学ぶことは、工業、商業の壮大な発展を意図する始皇帝からみれば、何の役にも立たない遊びにしか、見えなかっただろう。 来日した徐福集団はどうだったろう。 徐福は方士だから、始皇帝の考えも理解出来たであろう。 だが、徐王家の血筋につながるという徐福は、帝王学として学んだ論語もそれなりに用いるべきところがあると思っていたのではあるまいか? 来日した徐福集団も縄文原住民の支配にあたって、「よらしむべし、しらしむべからず」という方針は根底にあったと思う。 民に、仁政をしいて依らせるという理想を持っていたに違いない。 しかし、現場ではそうはいかぬ。 命令の理由を教えることなく従がわせねばならない。 中間管理職も、いちいち説明できるほどの理解を持っていないこともあったろう。 質問も許されなかったかもしれない。 そして、 (1)天皇の命令は絶対とする教育が古からなされた。 (2)本当の理由を知らせず、占いによって得た結論として、天の意思として伝えた。 戦争をしたときなど、 敵を欺くにはまず味方から、を実行するには、よらしむべし、知らしむべからずでなければ、そういうことは出来ない。 被支配者の国民は、優秀な指示待族になるよう教化し続けられてきたといえよう。 士農工商の身分制もその一環だ。 |