住めば公園風田舎町

「住めば都」と言われるがわたしゃ田舎の方がいい。町全体が公園のようなそんな田舎町に住みたい。

481 「もしも、徐福が日本に来ていたら」 (90)

2007-10-12 08:10:25 | もしも、徐福が日本に来ていたら
 

まとめて読みたい方は、上の「もしも、徐福が、、、(カテゴリー)」↑
をクリックしてください。

目次は、ここをクリックしてください。 

481-1神無月を考える

 神無月については、神様が出雲に集まるので、日本の各地では神無月となり、出雲では逆に神有月になるというのが通説である。
出雲に集まった神々は出雲大社に、旧暦10月の11日(2007年では11月20日)から17日(2007年11月26日)の間滞在されるようだ。
17日に大社を去って佐太神社に旧暦10月26日まで滞在される。旧暦10月26日(2007年12月5日)に出雲を発たれる。

出雲大社では旧暦10月10日に神迎祭が行われるそうである。
また17日と26日の両度にわたり、神等去出祭(からさでさい、神を見送る神事)を執り行う。
17日は大社からおたちになる日、26日は出雲の国を去り給う日ということらしい。

 ウィキペディによると、
「神無月」の語源として以下のような説があるが、いずれにしても「神無」は宛字としている。
醸成月(かみなんづき): 新穀で新酒を醸す月
神嘗月(かんなめづき): 新嘗(にいなめ)の準備をする月
神な月(かみなづき):「神の月」の意
雷無月(かみなしづき):雷のない月


  しかし、guuchanはウィキペディアで紹介されている方を俗説と思う。
神様が居なくなるとか、出雲に集まるとかそんなばかなという考えがあるから、出雲の神社以外は通説が迷惑であり、意味もないから自分たちの常識で理解出来るよう作った説だろう。

神在月まめ知識によると
平安時代末(1177)の「奥義抄」にすでに神無月の解釈として「天下のもろもろの神、出雲国にゆきてこと(異)国に神なきが故にかみなし月といふをあやまれり」とある。それ以前の成立であることは間違いないであろう。

guuchan説は、神々とは徐福集団の人々とその子孫のことであるから、それらが出雲に年に一度集合することは大いにありうることと思っている。
何も全員が集まるわけではないが、できるだけ代表者は出かけて行っただろう。
それは国会を兼ねており、それぞれの国を代表して、大倭の重要な決定に与り、あるいはその決定がなされたことを知ることになる。
中国や、朝鮮半島の情報も知ることになっただろう。
自国や他国の政治や、災害などの情報を交換したり、相互に援助をしたりする話し合いもしたことであろう。
役職の就退任、転勤など人事が決まる場であったろう。
自分の一族の、死亡、婚姻、出生など戸籍の修正の申告の場でもあったろう。
また同時に社交の場でもある。息子、娘など成人するものは、お目見えが有利であるから、できるだけ連れて行ったであろう。また一族の婚姻の相手を探すことになる。
それは政略結婚でもあるから、極めて重要な政治的問題でも有る。

日本の何処に集まったら最も良いか。
当初は、天の安川(天草)で有ったろうと思う。
それはまだ、全国展開しておらず、九州、四国、中国地方が主で、その大部分が北部九州であり、本拠地であった天草で行うに問題はなかった。
それが、比重が北に移るに従がって、間では北部九州の伊都国あたりで、開かれた可能性もある。
更に、近畿あるいは、それ以北にも勢力が広がって来ると、近畿の人たちは日本海側に出て丹後から、船に乗るルートが有るので、日本海側が選ばれた。
また、会議には壱岐や対馬のほか、朝鮮半島の南部の百済、任那、加耶韓国、新羅などの中の重要な地位にあった徐福勢力もメンバーだったと考えられる。

旧暦10月10日~26日(新暦11月下旬から12月初め)が選ばれたのは、季節として、夏から秋にかけては台風がいつ来るか分からず、そのシーズンを避けたものと思われる。
 彼らのそれぞれの国の出発は9月の下旬から10月の初めとなったことであろう。
また、ぐずぐずして冬の季節風が吹き始めても困る。
収穫を終わって冬の支度をする季節が選ばれたと思われる。

出雲には高い櫓を立てて、灯台とし、船を導いたであろう。
島の多い瀬戸内海と違って、寄港するのは、古代の真っ暗な夜間でも、また、一年に一度しか来なくても、灯台と地形から比較的容易だったと思われる。
出雲大社の神迎祭りの神事が、海から迎えるというのも面白い。

 とはいえ、長い間には、この海路で遭難した神々も決して少なくなかったかもしれない。