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メキシコ五輪、200m走の表彰台

2021-07-10 | 日記

ピーター・ノーマンというオーストラリア陸上200mの選手の事を知った。メキシコ五輪の200m走の銀メダリストである。オーストラリアにとって歴史的な快挙を成し遂げたはずの彼は、1位と3位のアメリカ黒人選手の人種差別への講義に同調したとして、五輪後の帰国時も一切無視され彼の業績が母国で称えられることは無かったという。その後もオーストラリアのトップクラスの選手でオリンピック参加標準記録をクリアしていたにも拘らず、次のオリンピックでオーストラリア代表として認められなかった。

 メキシコ五輪の200m走の表彰台で1位と3位のアメリカ黒人選手が、国旗掲揚時に黙って下を向いたまま黒い手袋の拳を黙っている姿はあまりにも有名で、知っていたが、その横の2位の位置に立って前を向く白人選手が誰であったか、その後どのような人生を辿ったかについては知らなかった。オーストラリア代表で白人の彼は、2人の黒人選手と同じ「人権を求めるオリンピック・プロジェクト」(Olympic Project for Human Rights)のバッジを胸に付けて表彰台に上っていたそうだ。その事が母国オリンピック委員会の怒りを誘い、その後の不遇な人生の発端となった。一見2人の黒人の姿だけが印象に残ったメキシコ五輪の200m走の表彰台では、2位の位置にひっそりと立つ白人選手も含めて全員が、オリンピックの舞台における人種間の平等と人権尊重の共有を身をもって示していたことを知った。

 数十年を経て、ようやくIOCやオーストラリア・オリンピック委員会も2人の黒人選手(カーロスとスミス)そしてピーター・ノーマン選手への不当な扱いを謝罪しその名誉が回復されているというが、彼らの選手生活はそれで取り戻せるわけでは無い。本来、オリンピック運動は平和と人権の尊重を求めるところから始まっていたはずだと、自分は思っている。そのオリンピックの場で人権の尊重を求める行為を非難し、その行動に共感した選手を不当に扱うのは、元々のオリンピック精神に反しているような気がしてならない。

 オリンピックの「政治からの独立」を口実にして、人としての根源的な権利の主張までも「反オリンピック的な行為」と捉えるならば、オリンピックは単なる記録会あるいは勝ち負けだけを見せるイベントに成り下がってしまう。彼らの名誉が回復されたのは良いが、それがもっと早ければ良かったと思う。「政治からの独立」は「大国の政治的干渉からの独立」であったはずだし、政治を持ち込み純粋に技や速さを競うアスリートの「全身全霊を掛けた闘い」を歪めないようにするためだと考える。

 「政治からの独立」はアスリートに社会の政治的利害からの独立を保障することであって、IOCは開催国や参加選手の母国からの政治的意見や非難を防ぐ「盾」にななるべきということではないか。純粋に速さを競い合った当のアスリート同志が、互いに社会から人として尊重されていて欲しいとの共感を表したことを「人種差別が続く国の政府」や「白豪主義の政府」を慮った「大会側」が非難することでは無いはず。一人の人が人間として基本的な「人権」を求める行為を「政治的主張」と判定し「勝利者の権利」まで奪うのは、「抑圧されている人々の存在を無視する」側に立つ政治的な行いと言うべきような気がする。

 歴史を見れば、オリンピックは間違いを犯しながら、同時にそれを反省しながら続けられて来た。本来は勝利者を称えるためにその母国・祖国の旗を掲げたはずなのに、いつの間にか国家と政府を称える徴となり、ある意味で国家の「覇権」を示す道具として利用されてしまっている。今回は、その歴史上初めてパンデミック感染拡大の下で行われようとしている。おそらく今回のオリンピック開催についても、後々振返った時には何らかの間違いが含まれているのだろう。それをきっちりと検証・反省し、オリンピックという世界的運動の意義を失わないように修正し続けて行くことが大切なのだと思う。世界にその様子が報道されることで、日本国内の人だけでなく、世界の人々の意見が加わって何が間違いで何が正しかったのかを考えることに役立って欲しい。

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