わたしは、軍艦島上陸を終えて大波止から、出島へ向か いました。時間的に余裕がないので、さっと歩いて行きました。
出島橋
この橋は明治43年(1910年)に旧出島橋の老朽化に伴い、現在の場所に移設されました。もともとは、中島川の河口に明治23年(1890年)にあったのです。
構造は、ボルトで結合されたプラットトラスで、架設工事はアメリカから輸入され、日本人監督者のもと日本土木会社が行いました。一般に使用されている道路橋としては日本最古の橋梁になります。
珍しいので、撮影しました。
傍には、和蘭商館跡という史跡が建っていました。指定は大正11年10月になります。
出島は、1636年(寛永13年)、江戸幕府はポルトガル人によるキリスト教の布教を禁止するために、約1万5千平方メートルの人工島を築き、そこにポルトガル人を収容したのです。
1639年、鎖国令によってポルトガル船の来航が禁止され、出島は一時無人島になりましたが、1641年平戸オランダ商館が出島に移転して以来、1859年(安政6年)まで218年間、出島は西洋に開かれた日本唯一の窓口となります。
ここは、貿易の拠点であり、商館員たちの住居があったものの、自由な出入りは禁止されていました。
近くに、ミニ出島がありましたが、ここは1820年当時を再現したもので、川原慶賀の描いた「長崎出島之図」をもとに模型化され、昭和51年完成しました。
縮尺は15分の1になります。
そして、平成13年と平成18年に五棟づつ建築物が復元されて、建物が10棟建ちました。
もともとは扇形をした面積15000平方メートルの敷地でしたが、明治37年の港湾改良工事により、その姿を失いました。
綺麗に復元されています。
見ないで行こうかと思いましたが、入ってみて良かったと思います。
わたしは、オランダというと、今度グスタフ・レオンハルト氏のチェンバロ演奏会があり、もう胸がどきどきして緊張していました。
だって、高名な音楽家で、家族から「君のような人が一番レオンハルトが嫌いなタイプだと思 うから、他人のふりをする」と言われていました。
もうどうしようか、何を着て行こうか、咳をしたら大顰蹙だからたいへんだ、万が一眠くなった場合どうしたらいいか、誰かに何か言われたらどうしようと、もう頭がいっぱいでした。
しかし、これはみな杞憂だったのです。(レオンハルト氏は温厚な紳士でした)
そして、会場のみなさんも人をあれこれ言うような方々ではありませんでした。
右は、未来の国王ウイレム・アレキサンダー皇太子殿下の植樹のハナミズキの樹木です。これだけ大きく成長しました。日本の皇太子ご夫妻ともお年が近く、良い友好関係が結ばれていることと推察します。
オランダへは行く機会がありませんが、きっと素敵な国なのでしょう。
急ぎ足で、旧長崎内外クラブへと向かいました。
トーマス・グラバーのご子息である倉田富三郎氏と荘田平五郎氏らが発起人となり、長崎に住む外国人との交流の場としました。
明治36年(1903年)F・リンガーによって建てられた洋風建築です。右、緑の縁のある建築物がそこです。
ここの窓から、外を撮影しました。周囲はこんな感じです。
旧出島神学校は1878年(明治11年)に建築された日本最古のプロテスタントのキリスト教の神学校です。
綺麗に撮影したいなあと思いつつ、いろいろな角度から外から撮影してみました。
夕日が静かに沈んで行く中、なにか静謐で、我を悪から救い給えと祈りたくなるような光景です。
カピタンの部屋にも行きましたが、豪華なものの、やはり本国とは違って、身体の大きな外国人の方々には窮屈な場所だったかも知れないですね。
ブロンズ製12ポンド砲
この青銅製大砲は、昭和29年(1954年)浦上河口付近で発見されました。
オランダ船の絵姿と、オランダ東インド会社の社章「VOC」及び「AMSTERUDAM ANNO 1640」と刻まれていることから、鋳造界の名門アスウェーラス・コスターによって製作され、アムステルダム支部所属の船舶に搭載されていたと推定されます。
オランダは、布教を目的とせず、貿易のみを重視したせいで、ほかの国以外とは違って特別待遇を江戸幕府から受けていました。
詳しいことはよくまだ勉強していません。
右は、水はけの良い△へこみの下水口。
そして、蔵がふたつありました。これらは古い建造物です。
案外見落とされがちです。
旧石倉
安政の開国後に、大浦天主堂やグラバー亭を建設した小山 秀之進によって施工されたと言われた石造倉庫を西半分、昭和36年(1956年)に復元したものです。
新石倉
慶應元年(1865年)の石造倉庫。昭和51年(1976年)復元されました。
わたしが驚いたのは、内外クラブの中にあった名刺入れの木製の家具でした。今も昔の人の名前が残されていて、ここは華やかな社交場だったのだろうと視察されました。
長崎は国際的な都市であったことをよく理解するには、南山手や東山手へも行き感じましたが、ここでもやはり学ぶことが多々ありました。
最後に、この日は稲佐山の夜景をご覧頂きましょう。非常に設備が完備されていて、眺望はよく、ロープウェイに上って行くと爽快な感じがします。
登り下りは、稲佐山神社のところを通って行きます。日本の山々は必ず、日本の神社が至る所にあるので、やはりここは異国情緒が漂っても日本なのだと確認しました。続く