みなりんの紀行文

写真とともに綴る、旅の思い出を中心としたエッセイ。
主に日本国内を旅して、自分なりに発見したことを書いています。

2009年長崎紀行記~パート1 軍艦島上陸篇

2009年05月17日 08時11分25秒 | 旅行記

「軍艦島(端島)上陸」

この日は快晴。上陸公開開始がされてまだまも239_3 ない。凪も穏やかだった。

端島は、テレビで全国放映されて全国に知れ渡った。
わたしはテレビ放映される前に、長崎を訪問する予定で調べていたが、ちょっと前まではその存在すら知らなかった。

にわか勉強を始める。
その驚くべき建築技術と炭坑地の実体を知る。

(大波止の港の風景)

6ヘクタールほどの小さな面積に、1ヘクタール当たり、800人から1300人という超高密度居住が実現し、日本最初の鉄筋コンクリート造の高層アパートが現存している。

(軍艦島へ向かうマルペルージャ号)             233

島へのアクセスは、長崎港大波止桟橋から高島を経由して1時間ほどの行程である。

(お詫び・・・明らかな間違いがあり、訂正しました)
軍艦島ー長崎県西彼杵郡高島町端島は、長崎港から約18キロの海上に浮かぶ、南北480メートル、東西160メートル、面積約6.3ヘクタールの実に小さい島であった。

船の中では寝ている人もいて、どれほど知識があるかよくわからない。
しかし、中にはここに昔住んでいたという方もいた。
わたしも行きは、ぼんやりと船内でくつろいでいた。

(三菱造船所の昔、戦艦「武蔵」が建造されていた234 ターミナルを撮影。グラバー亭からよく見えた)

(グラバーのご子息は、自宅から三菱造船所が見晴らされたため、スパイ容疑で軍部に眼をつけられ、監禁されてノイローゼになり、終戦とともに、不眠に悩まされて、とうとう自殺したという悲劇がある。)

年表で事実だけ書いてみよう。

1810年に露出炭が発見。
1870年(明治3年)天草の人が小山某開鉱に着手する。この時期に岩崎彌太郎が九十九商会を設立した。
1882年(明治15年)鍋島藩深堀領主鍋島孫次郎氏の所有となる。
1890年(明治23年)三菱社が端島炭坑を買収。
1891年(明治24年)蒸留水機を設置し、各戸に飲料水配給。製塩も行う。
1893年(明治26年)私立尋常小学校設立。       231

(船の中から島々が見えて、長崎らしいマリア様像と白亜の教会が見えた)

1907年(明治40年)高島、端島に海底電線ができる。
1916年(大正5年)日本最古のRCアパート(三十号棟)建設に着手する。
1918年(大正7年)RC9階建アパート(16~20号棟)建設。海底ケーブルにより端島坑内外の電力輸送を実施。
1921年(大正10年)端島が軍艦「土佐」に似ていることから、長崎日日新聞が「軍艦島」として一般に紹介する。

(船内から拝見した軍艦島)                     065
1937年(昭和12年)二十号棟の屋階に社立幼稚園開設。
1938年(昭和13年)電話通信開通。
1939年(昭和14年)朝鮮人労働者が炭坑夫として集団移住を開始。
1941年(昭和16年)年産41万1千100トンの最高出炭記録。

1946年(昭和21年)端島労働組合結成。炭鉱向け特別物資の配給決定。
1947年(昭和22年)公衆電話架設。
1948年(昭和23年)人工4千526人に急増。
1957年(昭和32年)海底水道完成。

(上陸のため船を岸につけたところ)              009

1958年(昭和33年)電気釜、冷蔵庫、テレビなど流行。
1963年(昭和38年)緑化運動のきざし。屋上、空地利用の花壇、温室等。
1964年(昭和39年)従業員約1千人から約5百人に減員。人工約4千9百人から約3千3百人に急減。
1963年(昭和44年)三菱高島炭鉱株式会社発足。
1974年(昭和49年)1月15日をもって閉山。4月20日離島完了。

日本資本主義を代表する大企業による、地縁的単一社会。しかも、第二次世界大戦終戦前には完全な管理社会であって、生産と生活が島で営まれていた。
昭和のノスタルジーを感じる方がいるだろうか。わたしには、この現代の東京を見慣れている眼には、けして古い遺跡を見るような眼では拝見できなかった。

(聳えた建つような廃墟のビル。高台にあるのが高級036 社員の寮。正面が学校の建物)

地下垂直1000メートル下の海面には坑道が網の目のようにつくられ、そこで厳しい自然環境のもと、人々が村社会のようにひしめき生きて来た。
職業的な階級差がはっきりとあり、高級社員と技術者、底辺は隣国の強制労働者始め、この島での慰安婦(娼婦)も居住し、住む場所も待遇も違っていた。
住民のための娯楽施設もあり、一見楽しそうな写真を見せられたものの、捕囚の島とも呼ばれていたように、戦前は徹底した管理社会であり、ミニチュアの近代日本の都会の姿が浮かび上がって来る。

マイナス面では、「水一滴が血の一滴」と言われたように厳しい生活環境であった。生活雑水は雨水が使用され、今の蛇口を捻れば水があるような社会ではない。更にプライバシーもあったものではない。職階層は厚く、その壁は大きい。

(風化しているとは言え、昔の名残が垣間見られ038 る。しかし、かなり崩れている)

プラス面では、戦後に労働組合もできて、住民による生活工夫がなされたことだろうか。また、ここは戦前でも最初は三分の一ほどの大きさの島であったが、居住者たちによって埋め立てを炭のくずを用いて六回なされて護岸堤防の拡張を繰り返し、住居環境を広げていったことだろう。これは今では考えられないことである。人間社会の工夫と創意を厳しい環境でもなし、必要な物質を格闘して得て暮らす人間の知恵を垣間見られるのは、たいへん救いがある。

わたしが驚いたことには、現場で上陸してわからなかったことだが、ここは全部がコンクリート造りや金物ではなかったということである。
海に囲まれていて、塩害には気を使い、サッシュ、手すりなどはほとんど木製であったということである。侵入した海水の排出に対する工夫のあとが、随所に見られた。

(島の中。見学場所は三カ所に大きく分かれて020 いて、公開はごく一部)

ただし、資本経済の様相の変容とともに生活は激変し、創造と破壊・風化が激しく、今は神話のようにぽつんと残っているのだが、足を踏み入れれば、住んでいた方々にしかわからない「住めば都」なのか、複雑な気持ちであろうし、ただの観光客が想像で勝手にあれこれ言えない場所でもあり、それをどう解釈して良いか、わたしの筆舌には尽くしがたい。

わたしは、現在東京にいるが、高度経済成長時代、大地がアスファルトに覆われ、巨大ビルが出現し、今は鉄筋コンクリートのビルの老朽化が進み、借り手もいなくなったビルをよく見かけるし、これだけの不況の時代に、バブルの時に建築した高層ビルがどうなっていくのか、この軍艦島を拝見して、どんな文明も繁栄とともに衰退があり、それがわたしの目の前に突きつけられたような気がして、東京の、そして都会群のビルの未来のような気がして来たが、果たしてどうなってゆくだろう。

軍艦島は時とともに、昔の雑誌で拝見したより025 も遙かに風化が進み、潮風に崩れてゆく運命にある。
ガイドのある方の、「残念ながら世界遺産にはなりえません。風化が進み、本来の姿のまま止めるのは無理があります。今のこの現状がさらに進んで風化してゆくのです」という言葉が耳に木霊するのだった。

あと、何年もすればもっと崩れてゆき、わたしたちの子孫に残して今の状態を見せることはもうできないだろう。

なぜ、もっと早く公開に踏み切れなかったのか、そこに行政の思惑があるのか、ちょっと理解しがたい現実があったが、非公開のままであったのは事実である。
貴重な体験となった。

晴れた空、島々が綺麗に浮かぶ四方の海。この島で、人々はどのような心境でこの海の向こうを眺めていたのだろうか。

わたしは教育に関心があり、学校の校舎の風景046 を納めた。病院も理髪店も娯楽施設も大事だが、ここでの教育内容にもほんとうは関心を寄せた。自分の国の歴史、自分の郷土をどう教えられていたのだろう。

東京で言えば、高島平団地に似たような風景で、しかもそれが昭和ではなく、明治・大正に建造されたというのは、やはり驚異である。

敗戦直後、日本中が飢餓で悶えていた時、ここでの配給額は当時5円。米も酒も振る舞われた。恵まれた環境であったと言えよう。

しかし、高波が押し寄せて来ると、反対岸まで飛沫が飛び、嵐のような中で、人々はじっと何を胸に耐えたことだろう。

石炭から石油にエネルギー資源がとって変わり、ここはもう今や必要とされなくなってしまったが、日本の近代産業の根幹になった場所で、そのために費やされた人々は、日本の発展のためにほんとうにたいへんなご苦労をなさったのだろう。

観光客がはしゃく場所ではなく、しっかりとその033 意義を胸に刻み込んでおきたい。

白い灯台が見えるが、これはここが無人島になっってから設置されたもので、暗くて危ないので、これは新しいものである。

060

やがて、船に戻り、島々を間近に拝見して撮影したが、見学した場所がごく一部であったことはよく理解しえた。

祠が見える。ここに信仰の場所もあったことがわかる。やはり海難など災害を恐れて、自然への畏怖の念は抱いていたことだろう。    113

それにしても、ここにこれだけの要塞のような炭坑地がこうして営まれていたとは、わたしたちは社会の華やかな表舞台しか知らないでいいものではないことを認識させられた。

わたしは思う。つねに社会は煌びやかな一面の蔭にこうした地道な裏方のような方々の活躍があり成り立っている。

自分がどちらの役割を果たす人間か大人になって思い知るが、それもこれもなくてはならないのである。社会の頂点に立つ人間は、綺麗な清潔な部分だけではなく、底辺や裏方へ思いが及ばなくてはならない。

多くの大衆という名で埋もれてゆく無名の方々へ077 の感謝は忘れてはならないだろう。彼等がたとえ物質的にはそう貧窮していなかったとは伝えられても、住んでみなくてはその環境の閉塞感は拭えない。

家族的で良かったと言う一面もあるだろうが、そうばかり言えない悲しいことも伝承されないだけであったであろう。

しかし、世界の建築学上、これは希有である。そういう面も合わせ持つ。都会のビルを見慣れた人間には驚きは薄いが、これが時代的な古さを思うと、驚異である。

多角的に冷静に、この軍艦島を拝見したいと思った。

遠ざかる船、シャッターをしきりに切る方々。みなさん、実は自分より詳しい方々かも知れない。                        

日本旗がひらめく時、ずーっと軍艦島が視界から076 遠ざかってゆく。その光景はなんとも言えない気分であった。

離島する際に、住民の方々は、せつないようななんともいいがたい気分を味わったのだろうか。

そんなこんなで、紺碧の海を眺めていると、あっという間に時間が過ぎて、大波止に近づいてしまった。

島々が見えて、今は炭鉱からリゾート地へ変身した温泉保養地も見えて来たし、町並みがひしめきあう。

今は大きな橋を建築中で、開通されれば、また便利に人と物が行き来、することだろう。

「さようなら、軍艦島」

デッキに立っていた人もしばらく静かに腰を下ろしていた203 が、三菱造船所を目の前にまた立ち上がる。

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三菱のあの△マークが眼につく。綺麗に撮影できたから、掲載する。ここは明らかに現代。昭和38年の世界のような軍艦島の雰囲気から、いっきに平成21年に戻る。

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のどかな港風景と思いきや、漁船のほかに、物騒な船(イージス鑑)が修理に出されていた。

アメリカの傘下のもとにある日本。守ってもらっているのか、そういう名目で居座れていられるのかよく判断しがたい。亜細亜の防波堤として日本は位置づけられている。

自衛権は持つべきだと思う。しかし、軍備増強に向けて過剰な武装配備を国民の多くは望まないだろう。                           240

「戦わなくていい」自衛隊。それがあるべき姿である。イージス艦にも実は内心礼を言わねばならない苦しい日本の現状などは、北朝鮮ミサイル問題などで致し方ない。

しかし、だからと言って、日本が戦闘を開始するようであっても困るのである。わたしは軍事評論家でも政治家でもない。しかし、ぎりぎりの外交努力は重ねていかなければならないだろう。これ以上のコメントはもうやめよう。

子どもに尋ねられたらこう述べよう。

「青い海の向こうには何があるの?」

「敵ではなく、平和への連携を望む世界各地の人との温かい絆がある」

子どもの手を握りしめて、こう返答できるようでありたい。

続く