3月22日(金)
またしても大切な友人を失う。何ということ、今年に
なって3人目。一人は長野県に帰郷したが、あとの2人は
突然亡くなってしまった。3人とも民主的な世の中を願っ
て活動していた。
特に3人目のSさんとは、子どもの学童保育を通じての
40年来の友人だったからショックが大きい。
彼女の死亡診断書は間質性肺炎。「矢代亜紀さんと同
じ病名で、専門の医師も2例目の経験だった」と後から娘
さんに聞いて知った。矢代さんは膠原病で、間質性肺炎
だったらしい。
3月2日の夜「食欲がない」とSさんからか細い声で電
話があった。「かかりつけ医に栄養缶を処方してもらっ
ているが、栄養缶を食堂まで運ぶ元気もない」との事だ
ったので、かけつけた。
確かに栄養缶のダンボールは玄関先に放置されていた
が、自ら運転して病院に行き、普通に会話していたので、
そんなに悪いとは思えなかった。でも、かかりつけ医だ
けでなく、他の医者にも診てもらったらとアドバイスだ
けして、翌日の日曜日は他に用があって訪問しなかった。
彼女は一人暮らしなので、月曜日に甥御さんに連れて
いってもらい他院を受診。受診直後、医師は間質性肺炎
で、松阪市民病院で専門の先生に診てもらう必要がある
と判断し、救急車で松阪市民病院に入院したとの事。
この事を知ったのは、年金者組合の友人のKさんから。
甥御さんが仕事があるので、Sさんからの電話でkさんが
付き添って救急車で運ばれたとの事だった。
その時の病名は間質性肺炎。でも私は、いずれ自宅で
酸素吸入は必要にはなるが、命までなしになるなんて思
わないし、どこの病院でも、いま面会禁止だからと敢え
て連絡しなかった。
でも、病状は既に深刻だったようだ。病院が彼女の一
人娘に帰国するように指示。アメリカから帰国した16日
の夜、母親と面会。しかし彼女は直後昏睡に。20日に亡
くなってしまった。
私はその後一度も会話しないまま。何とも悔しい思い。
彼女は20日の夕方、自宅に戻り。ご近所の方など親し
い方とお別れ、21日の午後入棺後葬儀場へ。午後6時から
通夜。そして本日22日に告別式となる。
結局、Sさんの娘さんは、アメリカの家族も呼びよせる
事もできないまま、喪主に。しかし、sさんの甥御さんの
支援で、しっかりと役目を務めておられた。
私も落ち込んではいられない。