一生

人生観と死生観

追い詰められる人

2009-10-19 12:39:57 | 哲学
10月19日 晴れ
 穏やかに晴れた日。天の恵みかと感謝をもつのも老いの流れに身をまかすものの幸せのひとつ。
 さて社会はめまぐるしく変化する。変化されなければならない要素も沢山日本にはある。社会が動くには人が動かなければならない。どのように人は動くのであろうか。考えてみよう。
 朝日新聞に回想された戦争記事を見ると、多くは80台の人たちだが、上からの命令で強制された。従わないとピンタ、罰としての重労働その他。軍隊では天皇絶対、上官絶対、上官の命令は天皇の命令と心得よと来る。つまり神聖な権威によって権力を行使するというわけだ。今どき天皇の命令は通用しないが、これに類似した強制は方々で起こっている。君が代日の丸の強制は教職員の上にのしかかる。法律を作るときはそれほどきついことを言っていなかった政府だが、施行されてみるとやはり末端で強制となった。強制しなければ自由に従う積りのある人もいやいやながら起立し、もごもご口を動かす。それを監督する人たちは訳も分からず上に報告して処罰が下る。お祝いというからこそ国家国旗がある。お祝いに不参加だからとて罰がくるのか。国民としてはもっとしっかりした国家像を持つならお祝いしたいが、変てこな国家像を押し付けて、形式的にイエスかノーかと追い詰めてくるのはいただけない。自民党政府の国家像が今反省されなければならない時になっているのだ。
 上のものは教職員にとって重大なことだが、一般論としてを追い詰める方法はどんなものがあるか。(1)神聖なもの、宗教的権威、(2)理想主義あるいはこれに類する思い込み的疑似理想主義、(3)暴力的装置ー警察力、軍事力、(3*)法律による規制(4)政治力、(5)マスコミ的宣伝力、(6)環境、人がやるからおれもやる的右習い主義もそのうち。
 力はいろいろある。ハードなものは避けたいが、どうしても使わないといけないときがあるだろう。そんなときに時間のある限り説得につとめるが、最後の最後に法にのっとるというのは上に立つものの責任になる。しかし法の精神が間違っているときは速やかに原点に還らなければならない。