日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

建築トークイン上越2013

2013年09月30日 | 日記
 

 28、29日の秋晴れというには少々暑かった両日、今回で5回目の開催となる「建築トークイン上越2013」に参加してきた。場所は新潟県上越市。ここの市域は東京23区の約1.5倍の面積、人口が約20万人の旧高田藩時代に都市中心部の骨格が形成されたこの地方の中核都市だ。2005年に周辺の14市町村が平成の大合併でいまの市域に広がる。ここの地に首都圏を中心に新潟・長野を含む14大学からの学生男女約50名ほどと9名の大学教員&建築家の中に、両日ただひとり(初日のディスカッションンに飛び入りで参加の長野市内建築事務所あり)まじっての体験だった。
 建築トークイン上越とはなにか?新潟県上越地域を舞台に「地方都市や地域文化・暮らしのありかた」を建築家や研究者を迎えて、大学生(と地域住民)が議論する場を試行錯誤しながら共有していくこと。

 この集まりについては、どこだったからは忘れたが前々回くらいから情報を得ていた。最初は、建築を専攻する複数の大学教授と学生たちがどうしてこんな地方都市のしかも辺鄙な山間部でトークイン?と奇妙な感じがした。地域活性化や村おこしにしても舞台のひとつとなっている“うらがわら”(旧浦川原村)は過疎高齢化の進む人口3000人足らずのとりたてて特色のないと思われる山村地域である。もしかしたら、地元行政が主導した地域活性化事業の一環か、隣接した十日町地区で展開されている「妻有アートトリエンナーレ 大地の芸術祭」に関連したものかと想像したがそうでもない。そのうちに東京在住の知識人・文化人のあつまり「岩室の会」が企画して始まったものらしいということがぼんやりとわかってきた。

 参加した学生たちの宿泊地である“月影の里”は旧月影小学校(2001年3月に閉校)をリノベーションして体験型宿泊交流施設としてうまれ変わったもの。そのリノベーションにかかわられたのが建築家で岩室の会代表の高橋靗一氏。高橋氏の知己の4大学-法政・早稲田・日本女子・横浜国立大のかかわりで2005年4月に現施設が新スタートしたものだという。ここがトークインの会場のひとつであるのもそこにつながっている。おそらく高橋氏にこの再生活用の相談がいったのも、それに先行して始まっていた岩室の会の活動と地元自治体関係者の縁なのであろう。月影地区の住人にとっては、最初は(そしておそらくいまも)???といった感じであったに違いない。
 参加する学生にとっては上越市中心街はともかく、2005年1月に合併して上越市域となった旧浦川原村地区での「建築トークイン」の必然性は正直ピンとこないだろうし、最初は田舎体験的なところから試行錯誤を重ねてきたようだ。それでも若さの柔軟さと時間的な自由度の強みもあり、これまで代替わりしながらも徐々に形ができてきたことは素晴らしいと思う。
 
 今回の講演者は地元上越市出身の三浦展氏であった。この人選がいままでとすこし違った観点から上越という地方都市で「何故建築トークイン」という疑問に、新しい視点を与える契機となったように思う。あるいは、上越で建築トークインをどのように展開していけるのかといった方向性を見出すヒントになりそうな予感がした。
 その分、トークインが始まるルーツの地である“うらがわら”要素の比重は少なくなってしまうかもしれない。でも、宿泊地である過疎の地“月影の里”のことは忘れないでほしいし、もっとその歴史や地域のことも知ってほしいなと願わずにはいられない。たとえば、月影小学校歌の作詞はなんと相馬御風(糸魚川出身)で、早稲田大学「都の西北」作者であることを知ればすこしは興味をもってくれるのではないだろうか?また、地方都市の中心街の空洞化=郊外化と周辺山間部の過疎化の問題は、コインの表裏でありいまの社会の課題としてするどくつながっているものと思う。
 この点、そしてトークインの内容についてくわしくは稿を改めたい。
 

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原美術館「坂田栄一郎 ― 江ノ島」

2013年09月24日 | 日記
 20日、都内北品川の通称御殿山とよばれる高級住宅地の一角にある美術館に行ってきた。標題の写真展を見にいくため、そして20世紀初頭ヨーロッパ様式を取り入れたという、戦前の1938年に竣工した全体がバームクーヘン型にゆるく弧を描いた建物のたたずまいも魅力のひとつだ。設計は渡辺仁、銀座和光ビルや横浜ホテルニューグランド本館も手掛けている。
 
 20年ぶりくらいの訪問だろうか?品川駅を下車して、目の前が第一京浜道の品川プリンスホテル前を通り過ぎ、やがて御殿山ヒルズがみえて、三菱開東閣の正面口の反対側に原美術館方向を示した表示がある。そこを入るとすぐにユーゴスラビア大使館。美術館はそのさらに先の左側が入り口。隣の敷地には「原」の表札がかかっている。いまでも美術館に転用された邸宅の建築主、原六郎のご子孫が居住しているのだろう。

 原美術館の敷地は、元実業家の邸宅らしく前庭から広々している。玄関前にスダジイの大木があり、その先が入り口だ。受付では、“それらしい”雰囲気のある女性二人が受付に立っている。左手がミュージアムショップ、ここのロッカーに荷物を預けて、さっそく展示室へ。なんのキャプションもなく、江ノ島片瀬海岸でとられた砂浜の風景(おもに若者が砂上に残した衣類に持ち物、食べかすなどの痕跡)が切り取られて並ぶ。いわゆる静物写真=スティルライフだ。隣の展示室にいたるゆるく弧を描いた中庭カフェに面した壁には、ひたすら群青色の海面の揺れを連続して映した同サイズのパネルが等間隔で並ぶ。「江ノ島」と題されていなければ、その水面がどこでとられたか特定することはできない。次の展示室以降に並んだ、原色の色彩の静物写真=スティルライフも同様。何点かの若者ポートレートが混じる。みな、強烈な色彩を放っている。
 ここ御殿山の戦前の実業家邸宅を転用した空間での“江ノ島”若者風俗を16年にわたって追いかけた写真展、というシュチュエーション自体がドラマだ。館内には「江の島」の地理的説明などはいっさいなく“片瀬海岸”が写真の舞台であり、「江の島」は人々を無意識に引き寄せる磁場のような存在だろう。江ノ島はここではテーマでありながら、不在の存在という逆説。

 一階奥の出窓の小部屋からは裏庭が覗けて、そこに杉本博司の竹箒を組み合わせた垣根(これも作品か)をご本人の解説とともにみることができる。二階奥には奈良良智の“ドローイングルーム”と題した小部屋そのものが作品となった空間がある。正面の小窓からは木々の緑がそよいでいるのが望める。窓際の両袖に引き出しのあるシンプルな机にはスタンドがない。書きちらしたかのような作品、三角の天井と小さな天窓、壁の落書きにカセットテープ、未開封の小包など。一階にもどって、カフェの横から中庭へ。いくつかの現代美術作品、イサム・ノグチのアルミ?製のメキシコに自生するかのようなサボテンをかたどったオブジェ。振り返るとバームクーヘン型の緩く弧を描いたタイル張りの奇妙な存在感でせまる70年以上の年輪を重ねる本館。芝生の上に点在する白いテーブルとイス。周りの風格ある大木の緑。

 そこに今回の展示会のタイトル“江ノ島”を重ねてみる。やはり、本物の“江の島”(住所表記は「ノ」ではなく「の」)に行ってみなくては。それが原色の真夏をすぎた、たとえ初秋の季節であったとしても!


 

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江の島へ、お彼岸のサンセット

2013年09月21日 | 日記
 江の島って不思議なところだ。30年以上前の大学生時代から通い続けている。その後も結婚して娘が生まれてしばらくしてからだったと思う、同じマンションに住む方から、正月初詣に誘われた。それ以来10年以上、家族同士で毎年、正月に通い続けている。冬の時期は空気がすんで、富士山が美しく望める。初めて冠雪の雄姿に対面した時は、こんないきれいに見えるんだってとても感動した。まさに“絵になる島”そのものだと。

 さて、秋晴れの今日はお彼岸、横浜での講演会の帰りに、大船周りで久しぶりにモノレールに乗って終点の湘南江の島駅でおりて、洲鼻通りをまっすぐ弁天橋をわたり、島内コッキング園内の江の島灯台から夕日を見に出かけた。まずは、参道の青銅製鳥居をすすむ老夫婦の後ろ姿を失礼してパチリ。いい感じでしょ。



 江戸時代からこのにぎやかな参道に大幅な変更はないということだ。いまも昔も行きかう人、ひと、ヒトで肩も触れ合わんばかり。やがて赤い大鳥居前の高麗犬、これも江戸時代、越後国新発田出身の長堀検校の名が彫られているのに気が付く、同郷の人だ。どんな人なのか想像が広がる。うしろの赤い社殿風の建物は昭和34年開業のエスカー、島にあるエレベーターとしては日本初でおそらくいまも唯一の存在かも。バリアフリーの先駆け、発想したひとに拍手。
竜宮城のような建物は、端心門とよばれていてたしか学生時代はまだなかった気がするから、平成にはいってからのものか。ずううと前からあったみたいな風格ですっかり江の島になじんじゃっている。



さらに進むと急な石段横に張り付くように民家が立つ。ここでは宅配のお兄さんも走る、走る!


 途中、江の島ハーバーから鎌倉逗子方面がひらけて望める。ここは、1964年の東京オリンピックのヨット会場になったところ。そして1979年8月に二日間、ビーチボーイズが初来日公演“ジャパン・ジャム 79 at 江の島”を行っているのだ。あのビーチボーイズがヨットハーバーで!しかも当時を体験した人によると前座がサザンオールスターズだった!?というから信じられない気がする。共演者は当時売出し中のアン&ナンシー姉妹によるツインボーカルがセクシーなバンドの“Heart ハート”。いやあ、江の島でビーチボーイズやハートを聴いてみたらどんな感じがするだろう。
 画像の左側につきだしてみえるのは、小動岬。


 ようやく、島の中央にあるコッキング園内燈台、通称江の島シーキャンドルへ。360度開けた水平線の眺望が素晴らしい。二階のデッキが風が抜けていく夕暮れ時の特等席だ。湘南の夕暮れ!


 それでは、丹沢方面のさらに西方向に傾く夕日をどうぞ。

 コッキング園の散策。ここは明治時代のイギリス人貿易商人の別荘庭園跡。当時の赤レンガ温室の遺構が残り、当初植えられた植物も生きながらえている。そのひとつかもしれない、リュウゼツラン=龍舌蘭。葉の形からそう命名され、10数年に一度咲くといわれている花柱が夕暮れの空にそびえている。やがて根元に子株を「残し、親株とも枯れ果てるのだそうだ。この次にみられるときはいつ?


 帰り道、高台からみた参道からのびる弁天橋方面への眺望。江の島の古来の空間構成がよくわかるシーンで感動もの。


 ふりかえって、灯りのまたたく“えのしま ゆめのしま”の姿。江戸のむかしも、昭和から平成に移り変わったいまも人々を吸い寄せつ続ける不思議な聖地。小田急の駅舎は龍宮城を模したもの。その非日常的な姿が江の島にはふさわしい。弁天橋からはうっすらと富士のシルエットが浮かんで見えていた。


 




コメント (1)
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リニア中央新幹線で町田・相模原・名古屋が結ばれる

2013年09月21日 | 日記
 今週、東京品川と名古屋を結ぶJR東海「リニア中央新幹線」ルートが明らかにされた。開業は、東京五輪(2020年)のあとの2027年の予定、全286キロのうち全区間の86%が地下になるというのだから、ほとんど地上から見えない“地下鉄新超特急”。なんだか、ますます“旅情”という言葉が似合わない交通主手段で、はたして“夢の新幹線”といえるのだろうかと思ってしまう。しかもこの新幹線には、もはや“鉄道”が存在していないのであり、空中浮遊のなんとも身体感覚の希薄なシステムのような気がして電磁波の影響は?なんて夢のない心配事が先行してしまうのは、あまのじゃくというものだろうか。

 このルートには、始発後の最初の駅が「神奈川県駅」と記されていて、地元相模原市橋本の県立相原高校敷地に地下駅としてできるのだそう。そして相原高校は、廃止された「職業能力開発総合大学校相模原キャンパス」に移転するとのこと。あの広大な敷地がどうなるのかと思っていたけれど、まあ類似の利用であり、おそらく建物の一部も改修して高校校舎に転用されるのだろう。雇用促進事業団関連の施設、中野サンプラザや小田原スパウザもすでに所有者が地元自治体に変わって、運営形態も様変わりしている。時代の流れがこんなところにも現れている。

 すでにJR横浜線、相模線、京王相模原線とのターミナルとなっている橋本駅だけれども、さらにリニア駅が加わって林立するマンション群にくわえて、今後の開発がさらに急速に進むのだろう。また、今回初めてわかったのは、リニア車両基地が相模原市鳥屋地区にできるということ。あの辺鄙な山間に!いや辺鄙なところだからこそ、その敷地が確保できるのだろう。橋本地区よりもこちらのほうの変貌、とくに自然地理上の環境変化が著しくなるだろうな。

 さて、時事的話題休閑。
 近い将来、新しくリニアで結ばれるのは町田・相模原と中京名古屋である。名古屋と縁が近くなるのはうれしい。途中四つの駅をすべて止まると約一時間ほどになるという。その時代、わたしは現役リタイア組となっているなあ、という感慨。
 名古屋というと意外にも!町田にはすでに本屋と雑貨店をあわせたビックリ箱のような「ヴィレッジ・ヴァンガート」(名古屋創業)店舗が2店、くわえて同店系列のハンバーガー店もあり恩恵にあずかっている。あとは、近くの国道16号線をはじめとして「コメダ珈琲店」がいくつか出店して繁盛している。これでリニアができたら次はいよいよ質屋「コメ兵」かな(新宿にはすでにあり)。個人的には本格的な「ひつまぶし」のお店もぜひできてほしい。
 ああ、この秋は名古屋に行きたい、だだし高速バスか東海道新幹線で! 犬山の木曽川日本ライン下りと明治村、南山大学(A.レーモンド)、愛知県立芸術大学(吉村順三+奥村昭雄)、豊田市美術館(谷口吉生)など見て回りたいところはたくさんある。なつかしの大須の演芸場はどうなっているだろうか?

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村上春樹「色彩をもたない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読む

2013年09月11日 | 日記
 村上春樹の最新作「色彩をもたない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読んだ。彼の作品を読むのは久しぶり。これには伏線があって、直前の7日に「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」(岩波書店、1996年発行)を読み返したばかりで、この内容が「色彩をもたない」・・・・」とつながる部分があるような直観がしたから。河合隼雄は数年前になくなっているが、ユング派の臨床心理学者で京都大学で教えていた。この対談集はそんなわけで村上が京都を訪問する形でおこなわれたとある。

 さて今回の著作は、今年4月に発売されて瞬く間に100万部以上が発行されたと4月18日付の新聞記事になっていたくらいの社会現象?らしい。まあ、そんなことは作品の本質と関係ないじゃないか、という向きもあるだろうが同時代に生きている人間にとって、その現象も意識したうえで、あるいは影響力のなかでの読書体験になるはずだ。
 
 作品中で象徴的なこと。「つくる」の本名は“作”であって、これは本文中1回しかでてこない。またタイトルの「・・・彼の巡礼の年」の“巡礼”という言葉は、リストの音楽タイトルとしてあがるのみで、本文中の直接の出来事や思考の過程では一回も出てこない(と、思う。違っていたらごめんなさい)。これは実に興味深いことではないだろうか。“巡礼”という言葉は、私にとっては、お伊勢参り・四国巡礼などの行為を連想させる。
 作品に即して述べると、東京自由が丘に住む主人公が高校時代の親しい仲間間に起こったある出来事の真実を解明すべく、現在の恋人“木元紗羅”のすすめで名古屋とフィンランド・ヘルシンキやハメーンリンナ(作曲家シベリウスの生地)に住むかつての同級生を巡る話である。“巡礼”とはこの行為を暗示しているし、その間の彼の魂の彷徨を意味しているのかもしれない。東京は恵比寿、銀座、表参道、新宿駅などが固有名詞として登場する。東京以外には、新潟三条(主人公の元恋人の出身地)、浜松(仲間の女性が殺害された地)、松本など。
 物語の基調に流れる音楽として、リストのさほどメジャーな作品ではない「巡礼の年」がいわくありげ?に繰り返し取り上げられるが、残念ながらまったくもってそのメロディーは聴いたことがない。以前の村上作品にはポップスやジャズがよくでてきていたが、クラシック曲が登場するのはこの作品が初めてなのだろうか? 

 この物語の背景には、一昨年2011年東日本大震災や2001年のアメリカ貿易センタービルへの航空機追突テロ事件の(無意識の)影響があるのではないだろうか?まったくの偶然だが今日がその日、12年前の衝撃的な出来事と重なるメモリアルデー。
 “巡礼”とついになる言葉として“祈り=INORI”を連想する。物語の終章は、主人公つくるが紗羅と結びつきを深め、小さな救済=再生をえられるのかどうか、未定終止形で不安げに終わるのだが・・・。“希望”につながる次回作は、はたしてあるのだろうか?


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