日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

お彼岸入り

2014年09月22日 | 日記
 九月に入ってもう三週間、八月末の名古屋行から戻って気持ちのスローダウンのために、日帰りで道志みちを山中湖まで足を延ばして、知り合いの方の出演する音楽祭を聴きに出かけ(あいにく富士山は雲に隠れて望めなかった)、帰り道に山間の村営共同温泉に浸かりながらゆく夏を惜しみ、その後ヨコハマトリエンナーレ2014映像プログラム「華氏451」(1966年、監督:フランソワ・トリュフォー)を観に行ったり、日中韓芸術祭で山海塾(久しぶり!)とコンドルズ(初めて!)の舞台に接し、そうこうしているとここ二週間は仕事上の懸案が押し寄せてきて、気がつくとあれこれと慌ただしく瞬く間に過ぎてしまった。
 そう言っているうちに秋の気配は増してきて、20日は彼岸入り、この季節に合わせたかのように彼岸花、別名“曼珠沙華”が咲きだしている。いかにも仏教用語に関係ありそうな名称だけれど、サンスクリット語で「天に咲く赤い花」という意味なんだそう。もっとも横浜水道みち沿いなどでは、園芸種なのか白い彼岸花も見かける。それはそれでありがたい感じがするものだ。
 秋晴れの昨日、昼休みに保土ヶ谷旧東海道沿を歩いていると、いくつかある寺院ではお墓参りの花を手向ける家族連れ姿をよくみかけた。遅れてきたセミが夏を惜しむかのように鳴いて、明日は秋分の日、夜が少しずつ長くなっていく。
 
 
  川辺に咲く曼珠沙華。
  一本の茎から数個の花集まって雄しべと雌しべが花火のように開く。
  西方に大山・丹沢を臨む相模三川公園にて。

 久々の連休初日の今日は車中、竹内まりや「TRAD」を聴きながら海老名まで行き、午前10時の映画祭「旅情」(1955年、監督:デビッド・リーン、主演:キャサリン・ヘプバーン、原題はサマータイム)を見る。ベネティアが舞台で、38歳のキャリアウーマンが旅先でが出会った既婚男性との出会いと別れを描いた大人のラブロマンスだ。石造りの街中を走る水路とゴンドラ、サン・マルコ広場などがオールロケで登場して、ちょっとした観光気分に浸れる。欧米はまったく縁がないけれど、あの天才ミケランジェロやレオナルド・ダヴィンチを生んだ国の歴史様式の古い教会などの建築や様々な意匠・彫刻をこれでもかとばかり見せつけられると、最初はその広場の情景に圧倒されるけれど、やがて緑の少ない風景に正直少々疲れてくる。
 この映画、今と比較すると30代独身設定は40代くらいに相当する感じで、事実主演のキャサリン・ヘプバーンは47歳だった。見終わってみると男女の出会いと別れの描き方は“旅情”という語感から想像していた期待感ほどにはやや物足りなくさらりとしていて、邦題をつけた配給会社の方のセンスにやられた感じがする。とはいっても60年前の映像はたしかに落ち着きと余韻、気品を放っていて、ゆっくりと豊かな午前中を過ごすことができた。

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竹内まりやの語る「人生の贈りもの」

2014年09月13日 | 音楽
 9月に入ってすぐの朝日新聞夕刊の連載欄「人生の贈りもの」に五回連続で、竹内まりやのインタビュー記事が掲載された。10日に新アルバム「TRAD」発売と11月からの全国ツアーを控えたこれ以上はないくらいの絶好のタイミングで、スマイルカンパニー(所属事務所)スタッフの用意周到さを感じさせるけれど、そのことはさておいて、そのインタビュー記事内容は、これまで知らなかったひとりの人間としての側面、少し上の世代の人生の先達?としていろいろと興味深く思うところが多かった。

 竹内まりやは、1955年(昭和30)島根県出雲の生まれで、実家は古くからの旅館、父親は地元の名士らしい。連載二回目には、五歳のころ防音壁の部屋でピアノに向かう本人提供写真が掲載されていて、よくステレオの前で父母や兄姉の影響?もあり、早くから欧米ポップスを聴いて育ったと語っている。そこから伺えるのは、地方の裕福で円満な家庭育ちの様子だ。
 小学生四・五年のころTVコマーシャルで、ビートルズ「ア・ハード・デイズ・ナイト」の一節を耳にして、たちまちそのとりこになったそうだ。いささか早熟な感もあるけれど育ちの環境もあるのだろう、本人によるとその出会いはまさしく衝撃的で、その後の彼女の人生観・生き方を変革した、といっていいものだったようだ。この出会いの感受性、気負いのない素直さにちょっと驚かされる。そんな人生を変えるような出会いの衝撃って、自分の人生にはあったかしら?と同じ日本海側地方育ちとしては、実にうらやましい限りで、運命の定めのようなものすら感じてしまう。まあ、それぞれの人生、比較すること自体おかしいのはわかっているんだけれどね。

 高校時代のアメリカ・イリノイ州へ留学、パーティーでロバータ・フラックの「やさしく歌って」(以外!)を披露したと語っている。帰国後の慶應大学入学とそこでのバンド活動、やがてそれが1978年のアルバムデビューへとつながり、まさしくトントン拍子にサクセスストーリーを駆け上がっていく。どうも彼女には、自然と回りを味方に引き込んでしまう天性のオープンな人柄と才能があるようだ。
 順調すぎる中での突き当たった大きな壁は、芸能界における代理アイドル的役回りへの周囲の期待感だったそうで、あくまでも音楽に対する自然体の姿勢を望む本人には相容れない“違和感”だったようだ。そこは聡明な彼女、並みのアイドル化現象に陥ることなくしっかりとテレビをはじめとするメディアへの適切な距離感を学び取っている。その頃に現れたのが、現在の夫君であるところの山下達郎氏で、1982年4月の結婚(挙式は六本木の東京出雲大社)やいくつかのエピソードを交えてこの二人のおしどり音楽夫婦ぶりはすでに知られた通り。

 連載最終の5回目は、長女出産後の29歳のときに発表した「VARIETY」(1984年)からの先を省いて、最新作アルバム「TRAD」に飛躍する。まあ。活動再開後の活躍の様子はみなさんご存じのとおりです、ということなのかな。個人的には、ビートルズと出会う前のこどもの時代に触れた彼女の音楽体験の揺り籠ともいえる1950~60年代前半の欧米音楽を全曲カバーしたアルバム「ロングタイム・フェイバリッツ」(2003年)についても取り上げて、その中での大瀧詠一氏との唯一のデュエットとなってしまったF.シナトラ「恋のひとこと」のいきさつなど話してほいしかったのだけれど。このアルバムは、おそらく唯一の本人名義のプロデュースとなっていて、彼女のビートルズとの出会い以前の時代の音楽体験の原点が聴ける実にユニークなものでゆったりとした気分に浸れる(ただし、ジャケット写真が黒のスリムな上下姿でドラムセットにギターのバンドスタイルがややミスマッチ!)。

 「TRAD」に関しては取り上げた楽曲の窓口の広さが特徴となり、その中で7月に先行発売された「静かな伝説」(TV番組「ワンダフルライフ」のエンディング曲)の生まれたいきさつを語っていて、吉田拓郎のラジオ番組に出演したときがきっかけで、間奏のハーモニカは彼女自身が演奏している。拓郎といったら、かつてはシンシア=南沙織ファンで知られたこともあって、新たに知った意外な結びつきがおもしろかった。ちなみにシンシアとまりやお二人の音域はともにアルト域で歌い方や耳へのなじみ方もとて近いものがあると感じている。
 お二人の直接の結びつきはないようだが、今回アルバムの中には「YUOR EYES」という一曲、これは夫君達郎氏が1982年のアルバム「FOR YOU」で発表し、ジャズ歌手のナンシー・ウイルソンもカバーした英語歌詞の超有名曲なのだけれど、この作詞が昨年5月に亡くなってしまったアメリカのシンガーソングライター、アラン・オデイという人で、南沙織1975年のLP「シンシア・ストリート」内密かに!3曲を提供していた。当時としては画期的だったと密かに思っているこのアルバムのクレジットをいま改めて確かめたら、協力になんと小杉理宇造氏の名前があり、氏は達郎・まりあが所属するスマイルカンパニーの代表であるのだから、シンシア(南)-まりやのつながりもここにようやく見出せる!というわけ。 

 このアルバム制作は、前回の「DENIM」に引き続いて、達郎&まりやの共同プロデュース名義となっている。タイトルロゴは、5月15日の新聞広告一面に掲載されたときには、赤のタータンテェックでデザインされていたけれど、群青色の地に白抜き文字と変更されている。ジャケット表紙には、実家の旅館階段に腰かけたヘリンボーン仕立てのチョッキとズボン、ネクタイ姿のトラッドな装いの本人が映っている。曲そのものについてはまずは聴いてみるのが一番だし、あれこれ感想を記すにはもうすこし聴きこんでみてからではないとね。
 
 ブックレット最終ページにはいつものように、関係者や親族への感謝の辞が記されているんだけれど、スペシャルサンクスの最後には昨年他界してしまった長年にわたる音楽仲間、大瀧詠一、青山純(ドラマー)、アラン・オデイの三人の名前が特別に記されている。                 
(2014.9.7書出し、9.13初校・改定)


附記:『ささやかな幸せ』について
    無料ブログページには、冒頭文のあとに必ずPR欄が自動的につく。
    「TRAD」発売の10日、何気なくこのブログを開いてみたら、
    その日はなんと「TRAO」発売中の告知だった!
    そんな広告なら歓迎、うれしくなった。しばらくして別の広告に変わってしまったが、
    本日13日にも再び見かけたけど、これからもまたあるといいなあ。


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明治村、旧帝国ホテルとの対面

2014年09月09日 | 建築
長年の想いを果たすべく、とうとうというか、ついにというか、愛知県犬山市にある明治村を訪れることがかなって、先の八月二十七日お昼前、旧帝国ホテル(新館中央玄関部分)と初めて対面してきました。

 その時、この建物の印象として率直に感じたのは年代を重ねたこともあるけれど、じつに爬虫類のような彫の深い表情をしていて、東京豊島区南池袋にある自由学園明日館と規模や建築素材は異なれど、そのおおまかな外観と配置レイアウトはよく似ている、ということ。当り前といえばその通りで、両者ともフランク・ロイド・ライト設計により、旧帝国ホテル新館は1923年(大正12年関東大震災の年!)竣工、明日館のほうは1921年の竣工と年代も近く、ともに弟子の日本人建築家、遠藤新が献身的にかかわっていた。明治村の開園は1965年3月だから、旧帝国ホテルは1967年取り壊し後の余生?というには現役時代以上に長い40数年の年月をこの地で静かに送っていることになる。村内バス運転手さんによると、宇治平等院を模した造りとの解説があったけれど明日館はともかく、こちらのほうはおそらくライト自身にはそのような意図はなくて、日本人から見た印象が通説となった気がする。

 夏の暑い日差しが残る明治村の奥まった場所に移築された旧帝国ホテルの正面に立つと、建物本体と同じくスクラッチタイルの壁面と大谷石に縁どられた四角い人工池があって、その後方が正面玄関となっている。明日館の場合は、この池が芝生広場に置き換わったと考えれば同じだ。もともとのホテル建物全体は、人工池を含んだ正面玄関部分をコの字型で取り囲む両翼のように300室ほどの客室棟が伸びていたようだ。
 池を回り込んで、正面玄関から低い庇をくぐりぬけてホールにでると、ぱあぁと視界が広がり高い吹き抜け天上となる劇的な空間。さらにその奥には、大食堂が続いていたらしい。ホールの二階には回廊がめぐらされ、柱まわりには大谷石のゴシック風の彫刻が取りつき、正面玄関の真上部分の二階部分は現在喫茶ルームとなっていて、そこからテラス越に人工池を隔てて遠方の緑の風景が眺められるようになっている。明治村の中のじつは大正時代の空間にたたずんでいることが幸せな気分にさせてくれる。ひとりじゃないのに、いま目の前に向きあっているのに、想う期間が長すぎたのか、出会ってみるとなんだか呆気ない気もして、戸惑いともどかしさが混じったような不思議な気持ち。

 目線の見下ろした先の人工池にはモネの油絵のように睡蓮が浮かんで清楚な花を咲かせているはずだったが、残念ながらその姿はなくて、だた水面が夏の陽光を反射してきらめいているだけだった。もう少し言葉にしてみたいのに、言葉にならない・・・。


 さよなら、F.L.ライトさん
 信じられません、あなたの歌がこんなに早く消えちゃうなんて
 まだメロディもろくに覚えていないのに
 こんなに早く こんなに早く

  “フランク・ロイド・ライトに捧げる歌“より/サイモン&ガーファンクル


補足:最近出たばかりのイラストレーター安西水丸さんの遺作「地球の細道」(2014.8.25発行 A.D.A.エディター)に、旧帝国ホテルがイラスト付きで思い出が書かれているのを読んだ。スノードームの話題からNYグッゲンハイム美術館ミュージアムショップ、そしてライトへと飛躍するのが面白い。ライトが来日しての宇都宮、大谷石との出会いのこともあって、へえと思わせる。

 

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豊田市美術館を慈しむ

2014年09月02日 | 建築
 八月の終わりに、名古屋郊外の豊田市美術館を初めて訪れた。

 地下鉄鶴舞線赤池駅を下車したところで、その日の案内役のMが先に待っていてくれて、車でR153を現地へとむかう。美術館一帯へつながっていく道路の両側には、おそらく1995年の美術館開館と同時に植栽されて大きく箒状に枝を拡げた欅並木の緑陰がゆるやかな曲線を描いて続く。美術館を含む展望の良い公園敷地一帯は、江戸時代中期に築城された「七州城」跡地ということで、駐車場から見上げた高台先には隅櫓が復元されていた。この隅櫓、真新しい白壁の印象もあり、美術館整備と同時かごく最近の復元かと思っていたら、よくよく調べてみると移築された書院「又日亭」とともに美術館建設に先立って1977年に整備されたものという。ということは美術館を含む全体のランドスケープ計画は、先行するこれらの建物との調和を意識しながら行われたことになる。

 その隅櫓を左手に見ながら、美術館の両側が常緑の植栽に切り取られたアプローチへと勾配を進んでいく。ここからはまだ、美術館の姿は望むことができなくて、さらに登り切った期待感の先に見上げていくと左手コンクリート壁に階段があり、上ると建物二階レベルにつながっているようだ(レストランへ直行できる)。正面視線の向こうに突然、という感じで淡い緑色のスレート(石板)と乳白色の擦りガラスで覆われた美術館が端正な姿を現してくる。谷口吉生が50代の時に設計した建築との初の対面。
 一階入口前の広場には、円形の池があってその右手にコンクリート製の列柱からなる立方体(これもアート作品)が置かれていた。正面入口を入るとすぐ左手に受付があって、にこやかに案内女性が迎えてくれる。三階までの吹き抜けの天上から釣り下がった四角い柱状のメディアアート作品が絶え間なくメッセージを点滅させている。壁一面には黒地に白抜きの文字列が、手回しストリートオルガンの譜面板のようだ。さきに外側から見えた乳白色の擦りガラスを通して室内に差し込んでくる陽光がやわらかな効果を生み出していて心地よい。
 平面図を参照すると長矩形の美術館の中に、広さと高さの異なった独立した11のホワイトキューブ状の展示室がおさまっている。訪れたときには「ジャン・フォートリエ展」(まったくの初見)が1、2階のスペースを使って開かれていた。戦前初期の具象から大戦をはさんでの抽象画への変遷が展示室が変わるごとに効果的に構成されていた。二階フロアには、パティオを隔てた別棟の漆工芸作家「高橋節郎館」がある。本展を見終えたところでパティオに臨むミュージアムレストランで昼食。最も奥まった席からは、全面ガラスを通して東方向に豊田市街の中心部が望める。カブトカニのような巨大なスタジアムは、名古屋出身の黒川紀章設計なんだそう。

 食事を終えてテラスに歩み出てると、眼前の正面西方向に連続して並ぶ10個の連続した薄緑の石板の長矩形(パーゴラ)越しに浅い水深の人工池(一階入口前の円形池と相似形)が拡がり、その中央には低く噴水が円形に吹き上げられていて、水面が風に揺られて絶えず水紋様を淡くたてているのが見える。天空の青を水面に映して周りには緑の木々のざわめき、周辺環境と一体化した造形の美しさに息を吞む。この情景は、夕刻になって美術館内部の照明が外壁の擦りガラスを通してまるで行燈のように浮かび上がり、人工池の水面の反射して照りかえった時に、さらに美しさを増すのだろうと思われる。モダンでありながら上品な和風の雰囲気を漂わせ。建築を含むランドスケープの織りなす優れた環境ということはこういうことなのかと感じ入る。

 Mに促がされて人工池のうねった曲線にそって歩き、美術館を人工池越しに眺めながら、童子苑と命名された庭園に向かう。木造数寄屋造りの二つの茶室(あとで確認したらこれも谷口吉生設計とのこと。このひとの和風建築は珍しく、本人によると“写し”の手法とのこと)。庭先の水琴窟の音色を聴き、露地の飛び石を腰掛待合まで進んでみてしばし佇むうちに自然と安らぎを感じた。「市中の山居」とはこの感覚なのだろうか。そこからモミジの植栽越しに見える「一歩亭」の秋風景を想像して、その時期にここまた訪れることができたらいいなあと思う。
 ふたりで立礼席のお茶をいただき、庭園をでるとふたたび人工池越しの美術館の姿が望める。日日是好日、気持ちが肯定的になって五感が研ぎ澄まされて遠くへ飛んでいけそうな気がした。ここで、Mはいつも何を想っているんだろう?この日は帰りの高速バスの時間までもう時間が残されていなくて、後ろ髪をひかれる思いでその場を後にすることにして、豊田インターまで車を走らせてもらう。
 いつか必ずまた機会を作って、ここをふたたび訪れようと思う。今度は、夕暮れまで美術館の内部の灯りが水面に映って浮かび上がっていく情景をゆっくりと慈しんで眺めていたい。

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