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まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

この世の果てまで~THE END OF THE WORLD

2016年12月31日 | 文学思想
 2003年にリリースされた竹内まりあ「ロングタイム フェイバリッツ」は、彼女が生まれ故郷出雲でのなつかしい日々を振り返ったときに蘇ってくる思い出の1960年代ポップスをカバーした異色CDである。彼女の音楽バックボーンを知ることのできる幅広い選曲で構成されたデスクの最後は、「この世の果てまで~THE END OF THE WORLD」(1963年)で締めくくられる。いっぽう、新潟高田を故郷とする少年はこの曲を、上京して1980年代の大学生の頃に、カーペンターズのカバーではじめて知った。
 そして、村上春樹が36歳の時に発表した長編小説「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」(1985年6月)の目次の先のタイトル頁裏側に、この「この世の果てまで~THE END OF THE WORLD」の歌詞の一節が引かれているところから、四十章にわたる「世界の終わり」とードボイルド・ワンダーランド」のふたつの物語の旋律が螺旋構造のように交互に展開しながら始まる。

 この小説本を発表時手にしてから、じつに31年ぶりにようやく読み通すことができた。思わせぶりのタイトルから、作者の脳内細胞と呼応してこの曲が何らかのインスピレーションを与えたに違いないとしたいところだが、本章のなかには直接的にモチーフとして「この世のはて」の歌詞は登場はしない。その代わりに通奏低音の深い響きをあたえているかのような印象だ。

 その歌詞は、以下のように綴られている。

 なぜ、太陽は輝き続けるの?
 なぜ、波は浜辺に打ち寄せるの?

 なぜ、鳥たちはさえずり続けるの?
 なぜ、空の星は輝き続けるの?

 彼らは知らないのだろうか
 世界がもう終わってしまったことを

 朝、目が覚めると、不思議に思える
 なぜ、何もかもが同じなのか
 わからない、私にはわからない
 なぜ、毎日の暮らしが続いているのか?

あなたがさよならを告げた日に、世界は終わってしまったのに


 なにも変わらない日々の中、この世の終わりはある日突然やってくる、という失恋、存在世界が喪失してしまう歌なのだ。

 小説の中「ハードボイルド・ワンダーランド」篇の主人公の私は「やれやれ」が口グセのすでに安定した家庭生活は失われてしまっている、35歳の離婚経験者である。図書館のリファレンス係の女の子と青山のアパートで関係を結ぶかとおもうと、レンタカー受付嬢にも気を寄せ、17才のピンクスーツの娘とは優柔不断な会話を繰り返す。単行本の装幀がピンク色なのは、この太った少女のスーツと下着の色から来ている? ハードボイルド編には、さらりとであるが、主人公の性欲望にまつわるメタファーがしばしば登場する。 

 ラストで、日比谷公園から車で銀座通りを港方面に向かうというから、晴海か夢の島あたりか。そこで三人の女の子のことを思い浮かべながら、カーステレオカセットテープでボブ・ディランの古いロック・ミュージックを聴き続ける。「風に吹かれて」から「激しい雨」のメロディーが唄われる。世界の終わりに、ディランの歌はどのように響くのだろうか? この引用に呼応したかのように、2016年ノーベル文学賞には、ボブ・ディランが選ばれた。
 私の深層心理とも思える「世界の終わり」篇に出てくるのは、僕とその影の関係の物語である。両手で空気を吹き込んで鳴らす手風琴とふりしきる雪、冬の情景がしばしば登場する、壁に囲まれた閉じられた世界の物語。一角を持つ羊とその頭蓋骨は、ユング的夢の世界の象徴だろうか。最後に僕は彼女とこの壁に囲まれた世界に残ることを決心して、相棒の影とは決別をすることになるのだが、それは新たな何を意味しているのだろうか? 
 
 私たちの生きる世界は、自然から離れて複雑さを増す一方で、効率性と引き換えに息苦しさは増すばかりだ。もしかして、僕は「意味喪失の困難な時代」を生きていこうと決意しているのだろう。ラストに書かれた以下の記述は、雪国に育った者には、ことさら冬のものさびしい情景がありありと脳裏に浮かぶ。その次にやって来るであろう、希望の春がやってくることを待ち焦がれながら。

 「降りしきる雪の中を一羽の白い鳥が南に向けて飛んでいくのが見えた。鳥は壁を越え、雪に包まれた南の空に飲み込まれていった。」 (40 世界の終わり ―鳥― )
 

大磯へ、県道63号線線を南下する

2016年12月29日 | 音楽
 大磯と相模原の間にどんなつながりがあるのだろう。その両者のイメージにはまるで結びつく要素などなさそうに思えていたのだけれど、地図を眺めていてひとつある符丁のようなものに気がついた。それは県道63号線、通称相模原大磯線と呼ばれる地方道路の存在である。
 県道63号線を相相模湾に面した大磯町国府本郷まで南下していくと、終点の国道1号線にぶつかるあたりには、ちょうど大磯プリンスホテルが立地している。そのすこし北には「月京(がっきょう)」という不思議な響きの地名も残っていて、古代に相模国府がおかれていた地域であると推定されている地域でもあり、どのような歴史的意味が込められているのだろうと不思議に思っていた。
 
 この県道63号線は、大磯から北に向かうとすぐに東海道新幹線高架をくぐり、平塚から伊勢原市内で小田急線、東名高速道路と交わり、厚木から愛川と抜けたあと、高田橋で相模川を渡る。そこからは相模原市田名となり、橋本の少し北手前で国道16号線にぶつかる、ざっと三十キロメートルあまりのルートになろうか。相模川より西側よりを南下して、相模湾にいたるこのつながりをどのようなキーワードで捉えることができるのか、これまで全く思いつかなかった地名が「湘南」である。それにしても、海に面した大磯はともかく内陸の相模原が湘南で括れるのかと思っていたら、明治時代中期の旧津久井郡にその名もずばり「湘南村」が存在していたのだった。1906年(明治39)創立「湘南小学校」がいまも相模川右岸の山間の道沿いに忽然という感じであるのは、その様な歴史があるからだ。なにしろ、この小学校ときたら旧湘南中学、いまの湘南高校より15年も古いというから、ちょっとした驚きである。

 「湘南」のもともとの語源ルーツは、中国内陸の湖南省の洞庭湖に注ぐ河川、湘江周辺の景勝地を指している。禅宗とゆかりが深い地域で、日本でも水墨画的光景で知られる桂林あたりが代表的な名勝になる。とすれば、山中湖を洞庭湖、相模川を湘江に見立てれば、山梨から相模原あたりの渓谷沿いの地域こそ、日本の元祖「湘南」と呼ぶこともあながち見当外れではないだろうという気がしてきた。中国名所と似たような国内地形を本家に見立てることは、日本が大陸文化を取り入れる場合によく行われてきたことであるから。
 いま、湘南といったら相模湾に面した茅ヶ崎・藤沢あたりから逗子・葉山にかけての海岸地域のイメージが強いけれども、なんのことはない、もともとは内陸の渓谷沿いの景勝地を指していたわけで、相模川上流地域の旧津久井郡内の二村が、明治22年の合併の際に湘南村と名づけたことについては、それなりの妥当性?もしくは当時の村長に先見性があったと軍配をあげたくなる。当時の知識人、とくに自由民権運動を先導した人にとっては、「湘南」の二文字には中国文化、漢詩や室町時代に渡来して広まった禅の世界への憧れが反映しているからこそ、輝いてみえていたのだろう。

 いまの大磯はどうだろう。東海道線の相模湾に面した小さな駅舎だが、降り立つとどことなく落ち着いた品格を感じさせるのは、元祖湘南の地の高級別荘地としての歴史的ブランド力なのだろう。手前、平塚の花水川あたりから、前方にこんもりとしたお椀の伏せたような高麗山を望むと、そのふもとには旧東海道の松並木が残っていて、宿場町だったころの雰囲気が感じられる古き街道だ。高麗や唐ケ原といった地名にも中国大陸や朝鮮半島との交流の歴史を遺していて、どことなくミステリアスな気分になる。
 国道一号線を進んで大磯駅前、大磯港を過ぎたあたりの両側は、明治維新以降の殊勲者たちの別荘が立林していた時代の面影を残す風格ある地域が広がる。豪商の邸宅跡なら、駅前すぐの聖ステパノ学園・沢田喜美記念館となっている三菱財閥岩崎家と、県立城山公園となっている三旧井家邸宅など。
 くわえて、西行ゆかりの地でもあり俳諧道場として名高い鴫立庵や、意外にもといった感じの旧島崎藤村旧宅やその墓がある地福寺の存在がある。また、同志社学祖新島襄は旅の途中、旅館百足屋において47歳でなくなっており、ここ大磯の国道脇が終焉の地なのである。
 随分と前のことになるけれど、ここを散歩していると偶然、劇作家で評論家の故福田恒存旧宅のその標札を見かけた。そしてなんといっても、大磯はあの村上春樹の住まいがあることでそのステータスを高めるだろう。かつて村上は鵠沼に住んでいたというから、よっぽど湘南海岸あたりの別荘地がお好きなのか、あるいは出身地兵庫の芦屋あたりの風景に近いものがあるからなのだろうか。

 ここにもし、旧三井邸敷地内に存在した国宝茶室如庵が犬山市に移築されずに邸宅とあわせてそのまま残り、伊藤博文旧邸宅滄浪閣が旧吉田茂邸とともに保存公開され、湘南ゆかりの禅の臨済宗名刹があって、さらにF.L.ライトか遠藤新設計の別荘などが建っていたら、一層のこと建築巡礼の聖地として名をあげていたのにと夢想する。たとえば、芦屋の旧山邑邸ヨドコウ迎賓館(大磯羽白山のふもと高田公園あたりの地形とよく似ている)、西宮の旧甲子園ホテルのように。

 山側に上って小一時間、湘南平からの相模湾の広がりは、まさしくいまの澄み切った冬の空気のなか絶景、西方に真白き富士山の威容が、末広がりの裾野までまぶしく輝やかせて、神々しいくらいだろう。
 来春、プリンスホテルに温泉施設が新装開業する工事が進んでいる。その時期、村上春樹の新作小説が発表されたら持参し、ライトグリーンのデミオに乗って行ってみよう。行きのルートは県道63号線を南下して、帰りは海岸沿い国道一号線を東へ向かって。

(2016.12.23書出し、12.29初校)

目白逍遥、明日館ふたたび

2016年12月10日 | 建築
 師走に入ってすぐの日曜日の午前十時過ぎ、快晴でひんやりとした初冬の外気。新宿から山手線に乗り換えて目白駅改札をでると、そのすぐ先の市街地図前から始まる出逢いの旅。
 
 目白周辺は、いつきてもゆったりとした空気の流れる落ち着いた町だ。駅広場の先には池袋の高層ビル街がすぐ目の前にのぞめるし、振り返れば新宿へと続く無数の人々の営みがうごめく街並みが広がる。JR山手線沿いの小径を池袋方向に向って10分ほど歩くと、もう自由学園明日館に到着してしまう。澄んだ空気の中に両手を拡げて中庭を抱くようにたたずむ木造二階建て。通りに沿って植えられた大きな枝ぶりのソメイヨシノはすっかり落葉して、一本だけある大島桜のほうはまだ黄色の葉を遺していた。ヒイラギの白い小さな花の香り、日本水仙が咲き始めていて、クリスマスローズももうすぐ、うつむきかげんの花を咲かせるだろう。

 向かって右側の受付で見学券を購入して、低く下がった天上入口から館内へとすすむ。床には大谷石が敷き詰められている。中央講堂に入るといきなりの解放感をもって、幾何学模様の窓枠を通して中庭と外の風景が飛び込んでくる。反対側には、室内の中心である大谷石造りの暖炉。
 中央棟はスキップフロア形式とでもいうのだろうか、三層構造で中二階が食堂空間、三層階がさきの講堂を見下ろす格好ででこの建物の共同設計者、F.L.ライトと遠藤新の関わりを示すミニギャラリーとなっている。明日館は、1921年(大正十年)にその一部が竣工し、その後ようやく1927年に現在の姿となったことを知る。ここには、日本におけるライトの建築上の業績がすべて記されていて、明治村に移築保存された帝国ホテル正面玄関部分、芦屋の旧山邑家住宅のパネル写真を見ていると、師弟関係にあったふたりの親密な会話が聞こえてくるような気がしていた。
 
 中央講堂(かつての礼拝堂らしい)に戻って、喫茶スペースでひと休み。そうしたら友人がここで桑田佳祐の新曲スチール写真が撮影されたんだよ、って教えてくれた。その取り合わせの意外さをおもしろく感じ、明日館の懐の広さを讃えたい。ここは週末には結婚式会場としても利用されているし、重要文化財の空間でのセレモニーも印象深いものに違いないねって、ふたりして年頃の娘のことを想像してみたり。
 午後からは、食堂スペースで近くの音大生によるソプラノとギターの組合わせによる音楽会を聴く。この親密な空間にフレッシュな演奏はふさわしいだろう。最後のヘンデル、武満徹「小さな空」がよかった。

 このあとの逍遥は、目白庭園、遠藤新最後の建築設計となった旧近衛町の目白ケ丘教会から、夕暮れが深まった紅葉のおとめ山公園と続いていく。


 午後の音楽会を聴いた旧食堂の空間。天井照明のデザインは建築途中にライトが設計変更したもの。
 当初のベランダ部分は、のちの生徒数増にともない、遠藤により変更されて両翼の室内空間が広がった。
 並べられた椅子のデザインはどちらのものだろう。


 中央講堂の窓からの外の風景、ここで一服する贅沢さ。
 ふと、サイモン&ガーファンクル「F.L.ライトに捧げる歌」の旋律がハミングで聴こえてくるような、そんな空気が。


 小雨振る中をもういちど、ビルの夜景を背後にして浮かびあがる明日館を見に行った。
 冬の夜は深く、そして長い。