日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

サイモン&ガーファンクル「So Long,Frank Lloyd Wright」(1970年)を巡る断章

2013年11月26日 | 音楽

 サイモン&ガーファンクルは、1960年代から1970年までのたった5枚のオリジナルアルバムと1枚の映画サウンドトラックアルバムだけで、青春へのオマージュ、賛歌を捧げる音楽シーンの象徴的存在となった。
 デュオとしてのラストアルバムである「明日に架ける橋 Bridge over troubled water」こそが、もっとも彼らの有名なかつ金字塔的アルバムだろう。収録された全11曲すべてがメロディー・ハーモニーの美しさとリズムの多彩さにおいて全く駄作がなく、ポールの綴る歌詞の世界を含めて何度聴いても新しい発見がある。この作品を発表した当時の二人の年齢(ともに20代後半)と葛藤を重ねた両者の関係性を知ると、まさに名作は人智の与り知らぬ様々な要素の奇跡の中にしか生まれないもの、という思いを新たにする。

 アルバムのタイトル曲「Bridge over troubled water 明日に架ける橋」は、友情に結ばれた静かな祈りのような序幕から、後半のストリングスを交えた盛り上がりがやや過剰なくらいのドラマチックな印象の名曲で、ガーファンクルの一世一代?の名唱だと思う。
 このアルバムの中でさほど有名ではないけれでも大好きな曲が三曲あって、そのなかの一つ、建築好きには外せない「So Long,Frank Lloyd Wrght」について記そうと思う。30年前の大学生当時、この曲を初めて聴いた際は、フランク・ロイド・ライトって誰?といった程度の関心だった。この一曲、アルバムの中ではともするとうっかり聴き流してしまいそうな地味な曲なのだけれども、なかなか味わい深くいぶし銀のような渋さで心に残る。

 S&Gの片割れ、アーティー・ガーファンクルはコロンビア大学で建築を専攻した学生だった。そのガーファンクルがアルバム制作にあたってポールに、ライトをモチーフとした曲を作ってい欲しいと要望したのがこの曲の誕生のきっかけだったという。作中のライトは当然、アーティー・ガーファンクルを暗示していて、なかなかうまく行かないアルバム作りのなかでポールが精いっぱいの抗議の意思を歌ったものらしい。
 全体がボサノバ調のメロディー&リズムで淡々とポールのアーティーに対するかつての親密な交流と一転してその後の行き違いと諦めの心境が綴られているかのようだ。当時アーティーは映画撮影優先のため、アルバム制作のスケジュールを後回しにしていたため、それがポールとの確執を生んでいたようだ。有名になるにつれて、必然的にどうしようもなく生まれてくるエゴのぶつかり合い、そのような緊張感のなかで、結果的に時代に残る名作が生まれたとは皮肉な話だ。
 
 この「So Long,Frank Lloyd Wright」を聴くたびに、二人の苦い思いを追体験したような感覚に陥る。そしてボサノバの曲調から、同じユダヤ系ニューヨーク育ちのアメリカ人歌手、ジャニス・イアンの代表曲「At Seventeen=17才の頃」を連想し、ポールと近い世代であるジャニス・イアン、二人の天才シンガーソングライターのシニカルでありながらも屈折した大人の感性に思いが至る。


飯田橋、法政大学から外濠通を市ヶ谷へ

2013年11月25日 | 日記
 先週17日の日曜日は勤務だったが、午後休みをとって都内へ。法政大学内で「三弦物語」を聴く。中国三弦・沖縄三線・三味線(長唄・義太夫・津軽)の異なる音色を一気に聴き比べてしまおうという企画公演。制作の古典空間小野木さんからご招待いただいた。久しぶりに降りた飯田橋駅前は再開発の最中で高層ビルが立ち上がり、以前の風景が思い出せないほどあたりが一変していた。
 会場は、数年前に新築された大学外濠校舎の六階にある“薩埵(さった)ホール”、変わった名称は、大学創生に貢献した人物の名前を記念して冠していて、ガラズ張りのロビーからは空中庭園越しに市ヶ谷方面から新宿高層ビル風景が遠望できる。3日に法政大学多摩後校舎での出来事を記したが、同じ大学でも全く環境が異なり別の大学のようで興味深い。ちなみにメディアによく登場する町田市在住の著名人田中優子さんは、両方の校舎学部の教授を兼任されていて、その所属がそのまま彼女の関心の幅広さを象徴しているようだ。
 演奏会のほうはすでに開演していて、沖縄三線の演奏途中で、その前の費堅蓉さんの三弦演奏は終わっていた、残念!あとのプログラムをたっぷり楽しませてもらって、舞台脇入口にいらした小野木さんにお礼を言って校舎をでる。

 夕暮れの外濠公園をぶらぶらと歩く。普段郊外に住んでいてたまに都心にでると、市ヶ谷台地越しの都心の眺めはなかなかのものだ。春には外堀周辺の桜並木が見事だろう。郊外と都心の往復のなかに、現代の矛盾を含めた社会に生きざるを得ない人間のさまざまな姿が都会の風景とともに浮かび上がってくる。
 東京逓信病院脇の坂を九段方向にのぼっっていくと朝鮮総連のあるビル前に出るが、装甲車がとまり警備体制がものものしい。突き当りの塀の向こうは、伊東忠太設計の帝冠様式博物館、靖国神社遊就館だ。朝鮮総連隣の敷地は、都心には珍しい広大な更地で国有地の看板が立っていた。その路地をはいるとマンションやら個人宅もあって、ちょっとびっくりさせられる。かつてはともかく、再開発が進むなか生活色の乏しくなってしまったこの都心に残された古くからの路地に住む人たちは、大金持ちは別としていったいどのような暮らしを送っているのだろう?

 周辺をぐるりとめぐって飯田橋駅前にもどり牛込橋を神楽坂方向にくだってみる。外堀に面してボート乗り場の併設された「カナルカフェ」というレストランがあった。大正時代にルーツがさかのぼる古い施設のようで、都心の水辺の息抜きスポット。そこから見上げる坂の上のビルの灯りが水面に映って、夏などは都会からではの情緒があるだろうか。そのまま外濠通りを市ヶ谷駅まで歩いていく。
 途中の市ヶ谷台地側には、東京理科大学の高層校舎、英語辞書の研究社ビル、日仏学院、法政大学大学院校舎ビルなど。市ヶ谷田町の裏通りなどはひっそりとしていて、「萩の宮」などという風流な名前の古い旅館が残っているあたり、不思議な雰囲気でタイムスリップしたかのような錯覚にかられる。地図には浄瑠璃坂、長延寺坂、闇坂、逢坂、歌坂など江戸時代から続くと思われる地名が並ぶ。歴史と風土が名前に染みついているかのようで、伝統芸能を鑑賞した後の散策にはまったくもって相応しいに違いない。そういえばこのあたり、坂マニアのタモリもぶらついていて、以前NHK番組で外堀周辺をあるいていた映像を思い出す。たしか法政大学ボアソナードタワーから、外堀、皇居あたりを展望していたなあ。

 すっかり日が落ちて暗くんあった頃、ようやく市ヶ谷駅前までたどり着き、新宿まででて小田急に乗り換えて帰路へ、夢のような夕暮れ時、一時間あまりの都心歩きだった。車中、多摩川を渡り郊外へと移動することでわたしの日常フィールドに戻ろう。

いのち短し、恋せよ乙女~「生きる」 黒澤明(1952年)

2013年11月21日 | 日記
 東丹沢の七沢温泉のあとは、午後相模原に戻っての黒澤映画である。会場は、淵野辺のJAXSA研究所向かいの「東京国立近代美術館フイルムセンター相模原分館」講堂。相模原に国立近代美術館?と思われるでしょうが、ここは京橋にあるフイルムセンターの関連施設で、貴重な映画フィルムの保存施設(アーカイヴス)として、1986年に開設された世界有数の施設なんだそうだ(設計は芦原義信)。

 相模原市民でもこの施設の存在を知っている人は、そう多くないはずだ。国立の映画アーカイブ、積極的に公開を前提とした運営を迫られてこなったからで、わたしは前市長時代の市民モニターとして、所蔵する映画フイルムの活用を要望したことがある。せっかくのアーカイヴスも活用公開されなければ、宝の持ち腐れなのだが、なかなか貴重なフイルムの保存を盾にした組織の壁は厚かったようで、ここの上映施設を利用した名画上映の機会は実現しないままま、時が過ぎていった。

 そして、ようやく!積年の夢が「文化庁優秀映画鑑賞推進事業」といういささかお堅い名目で実現したわけである。はじめて分館の敷地内に入って、水平に横長の分館外観をじっくりと眺めることができた。建物正面に二本の御影石のモニュメントが平行して垂直に立っている。二本の石柱間隔は、ようやく大人一人が通り抜けられる間隔だ。作者名はわからない。中央の入り口の右側の部分が200席の講堂(試写室)で、25年以上たつのにまだ新しい感じで、リニューアルしてないとすればやはりもっと活用してしかるべき空間だろう。左側の二階建て部分は、事務室と研究スペースだろうか。
 上映まで時間があったので外に出て、左側建物の間の通路か裏手の収蔵庫スペースのある建物のほうに回ってみる。こちらの外壁は「2001年宇宙の旅」に登場するモノリスのような印象のシックな黒煉瓦壁で、横長の窓が中央に四か所あいているだけのいかにもアーカイブス、といった雰囲気の建物。前列の白色の講堂、事務研究棟とは平行に並んで配置され、間には芝生スペースが広がる。敷地外からは想像できなかったシャープな空間だ。

 さて、黒澤映画である。「生きる」(1952年、東宝)、14時半上映開始。主演は志村喬、小田切みき。終盤に市役所課長役の志村が公園のブランコに揺られながらひとりつぶやくように歌う「ゴンドラの唄」が印象的。「いのち短し、恋せよ乙女」とはその一節で、吉井勇作詞、中山晋平作曲の大正時代の唄。主人公の渡辺が、余命いくばくもないと知った時に自分の生き方を変えてくれたかつての部下、若い女事務員に捧げた思いなのだろうか? ちょっとものがしくもつつましく身の程に生きた市井の庶民の姿がいとおしくなる。ともすると甘くセンチメンタルな感情に流れがちな題材なのに、黒澤は周辺の組織人間の生き方に対し、皮肉というか冷めた目を利かせている。

 上映が終わって外に出るともう、17時近く冬の夕暮れ。冷えないうちに家に帰ろうっと。

七沢温泉 元湯玉川館

2013年11月18日 | 日記
 16日週末、午前中に県立有馬高校まで家人を送る。海老名駅の脇を通り抜けると稲の刈取りが終わった田園地帯が続き、右手方向丹沢の山並みの先に、冠雪した富士山がくっきりと顔を覗かせていた。ここ相模線沿線周辺ならではのニッポンの美しい景観だ。


 その足で相模川をあゆみ橋で渡り、246号を越えて七沢方面へ向かう。この時期になると紅葉と温泉を楽しみにでかけるのは、丹沢のふもとの鄙びた温泉宿の日帰り入浴。
 少し道に迷ったが、玉川沿いを山間に30分ほど走ると、七沢温泉入り口の少し先に人気のラーメン屋があって、お昼近かったのでここに立ち寄ることにする。「ZUNDO-BAR」という名の七沢の先の県道沿いに突然、といった感じであらわれる元温泉旅館を改造した真っ黒なシックな建物が、口コミで若い人たちが車でわざわざ押し寄せるお店。週末のせいか、11時の開店前だというのにみるみる行列ができていく。
 店内も黒基調、二階の床を抜いて吹き抜けにした空間。高めのテーブルがなんとステンレス製、でてきた“端麗”醤油ラーメン煮卵付800円もステンレス丼に入っている。澄んだスープに細麺、炭火焼のチャーシューがこだわりのようだ。山間に不釣り合いなカフェバーの雰囲気で西洋風ラーメンをおしゃれに味わう?ミスマッチ感が、わざわざ車でかけつける人の自尊心をくすぐるようだ。

 そこから少し戻って、七沢温泉の最奥にひっそりと山間に抱かれるように佇む、元湯玉川館へ。ちょうど玄関にのれんがおりたばかりのようだ。いつきても清清しく迎えてくれる雰囲気だ。さっそく玄関から受付を通って奥の浴室へ向かう。引き戸を開けて檜板張りの脱衣場に入ると誰もいない。浴場に入り檜うるし塗りの湯船をひとりで浸かる、この贅沢!山間の木立からガラズ窓を通して注ぐ朝の陽光が水面に揺れてやさしい。もみじが色づくのには少し先のようだけれど、湯あみを堪能した。


 

ICU, I Saw YOU long time ago!

2013年11月16日 | 日記

 12日午後、車で町田街道から薬師池公園方面へ鎌倉街道を走り、そのまま多摩永山を抜けて関戸橋で多摩川を渡って、府中市内に入る。圏央道を除いて車で多摩川を渡るのは初めてだ。その先、甲州街道との交差点を右折して大国魂神社参道を過ぎ、味の素スタジアム脇を通りぬけ、調布IC手前で左折して、通称天文台通を北上すると国立天文台、富士重工業の先、国際基督教大学正門に着く。見事な桜並木が続き、約500㍍ほどいくとようやくバスロータリーがあり、小田急バスが乗り入れていた。その手前の駐車場に愛車のグリーン色マーチを止めた。
 30年振りくらいかな。武蔵野の広大な森の中に点在する静寂なキャンパスの雰囲気は当時とあまり変わっていない。ここのなかに入ると、ほかの大学ではないような「特別な高貴ともいえる精神と雰囲気を感じる。ロータリーの正面にはICU教会、大学の点在する建物も緑の木々に埋もれるかのようで全容は知れない。

 ここの地は、村上春樹「羊をめぐる冒険」(1982年)の冒頭、第1章1970/11/25(三島由紀夫自決の日) に次のように記述される。
「その年の秋から翌年の春にかけて、週に一度、火曜日の夜に彼女は三鷹のはずれにある僕のアパートを訪れるようになった。彼女は僕の作る簡単な夕食を食べ、灰皿をいっぱいにし、FENのロック番組を大音量で聴きながらセックスをした。水曜日の朝に目覚めると雑木林を散歩しながらICUのキャンパスまで歩き、食堂によって昼食を食べた。そして午後にはラウンジで薄いコーヒーを飲み、天気が良ければキャンパスの芝生に寝転んで空を見上げた。」「水曜日のピクニック、と彼女は呼んだ。」 

 なにやら、例によっていわくのありそうなイントロダクションの印象的な舞台が、ここICUであったわけだ。実際に村上春樹がこのキャンパスを訪れていたことは間違いないだろうな。あらためて久しぶりに訪れてみて、小説の導入部分に主人公が女の子と散歩する舞台としてここを選んだ(あるいは舞台として思い浮かんだ)村上春樹のノーブルなセンスを感じる。1970年当時のICUは知名度もいまほどではなく、知る人ぞ知るややミステリアス感さえ漂う、多国籍の学生が集まるひっそりとしながらもインターナショナルな雰囲気の大学であったに違いない。
  
 
 さて、今回は学内にある湯浅八郎記念館「建物に見るICUの歴史」と題された展示を見に訪れたのだった。その記念館は大学博物館の位置づけで、外壁赤レンガ二階建てでこじんまりとしていた(1982年竣工、前川國男建築設計事務所)。キャンパスの中でレンガ外壁はここだけのやや異色の雰囲気。名前に冠される湯浅八郎は、京都生まれの昆虫学者、大戦前後二度にわたる同志社総長やICU初代学長や理事長を務めた人物で、その一方柳宗悦、浜田庄司らが創始した民芸運動に早くから関心があって「民芸とは何か(民芸同私論、1978年」)という小文を遺している。そのため、ここの収蔵品および常設展示は民芸の品々、陶芸や織物、着物、家具などが柱のひとつとなっていた。ICUのイメージからすると意外な感じがするが、それはこの名前を冠した湯浅博士の収集指向によるものだったことで納得。


 今回の献学60周年記念展示について。ICUは1953年に開学しているから、今年が還暦の60周年、敷地は戦前の中島飛行機研究所敷地を購入したものだ。現大学本館はその研究所を1952年に改装して使用しているもので、なんと!W.M、ヴォ―リーズ建築事務所によるものであったことが今回の展示で初めて知ったこと、これにはびっくりした。ということは関西学院や神戸女学院と同じである。おそらくICU創立関係者がキリスト者であることが関係しているのだろう。ICUの建築にレーモンド建築設計事務所が関与していたということは知っていたのだが、それは1960年以降のことで、当初のキャンパス全体計画は晩年期のヴォ―リーズに依頼されていてその青焼きも展示されていた(現行とは大幅に配置が異なっている。図面には、W.M.ヴォーリーズ、滋賀県近江八幡の表記)。現在残っている建物でヴォ―リーズ事務所の原型が残っているものは、モダニズム外観の本館(1952)、第二男子・女子梁(1956)、シーベリー礼拝堂などである。ロータリー正面の礼拝堂は、すぐにレーモンド事務所により外観、内装とも改装されていた。おそらくヴォーリーズとレーモンドのコラボ建築はここだけではないのだろうか?

 夕暮れの中、もうひとつのお目当ての建物を見に行く。北門から出てしばらく歩くと、東京神学大学とルーテル学院大学というふたつのこじんまりとしたキャンパスが隣接している。もとはICUの敷地であったという。そのうちの、ルーテル学院大学は村野藤吾設計による1969年竣工の建物で関東における大学の建物は、早稲田大学戸山校舎のほかはここだけなので、ぜひこの機会に見てみたいと思っていた。その建物は通りに面してすぐに目に入ってきた。二階建基調の建物で外壁がアクリル樹脂混入モルタルスタッコ仕上げと呼ぶのだそう。全体の連続した壁面の雰囲気は、最晩年の作で新潟糸魚川市にある谷村美術館の印象と重なる。個々の壁面窓の表情がおもしろく、こちらは日比谷日本生命ビルの雰囲気の中世宗教施設版か。いすれにしても確かに村野風ではある。

 この武蔵野の地にキリスト者としてのヴォーリーズ、レーモンド、村野藤吾と期せずして東西の著名建築家の作品が並ぶ奇跡!くわえて前川國男建築事務所と初めてその名を意識した稲富昭建築設計事務所(理学館、体育館、教育研究棟など)と、この地の大学キャンパスは建物マニアには隠れた名所である。そのうちにまたゆっくりとICU教会でのオルガン演奏会の機会に訪れてみたい気がして、後髪をひかれる思いで夕暮れの武蔵野を帰路に着く。正面にくっきりと三日月が冷えた夜空に浮かんでいた。

行きに聴いた音楽アルバム:ビートルズ「HELP!」「Sgt.Peppers LHCB」
※「Sgt.・・・・」は、村上春樹が「羊をめぐる冒険」の後の描き下ろし「ノルウェイの森」を書いていた当時、ずうと聞き流していたとあとがきに本人が記している。

帰りに聴いた音楽アルバム:パット・メセニー「WHATS IT ALL ABOUT」、ポール・サイモン「SONGWRITER」Disc1 
※「サウンド・オブ・サイレンス」、メセニーのギターソロとポール2011年ライブの聴き比べ


初冬のハイビスカス

2013年11月15日 | 日記
 あとひと月もすればクリスマスの季節、我が家ではベランダで育てているハイビスカスが赤い花を咲かせている。夏の時期に咲いて楽しませてくれた後、もうこれで今季はおしまいかなと思っていたら、10月上旬の異常?気象現象で30度を超える暑さが続いたせいで、再び幾つかの花芽がついてくれたのには、少々びっくりした。
 ここ数日は冷え込みが厳しい中、愛しく健気な感じがしてなんとか無事に咲いてくれるように室内に取り込んでいる。

 

 花が咲いてからベランダへ戻したら、その冷気のせいか通常一日でしぼんでしまうのが二日目になっても咲き続けている。
 

 まだ、いくつか花蕾は残っているので、大事に育てていけば咲き続けてそうだ。ポインセチアの代わりになりそう。それにしてもこんなことって初めて!
 

まほろ駅前にて、 ハルキムラカミ短編小説「ドライブ・マイ・カー」

2013年11月10日 | 日記

 休日の9日午前、町田市民フォーラムでの田崎真也氏の講演を聴きに行く。演題は「世界的ソムリエが語る 五感で食を楽しむ秘訣」、これが単なるワインのうんちくじゃなくて「味覚、嗅覚とコトバ」にかかわるなかなか根源的なお話なのだった。先週3日の三浦しをんトークショーの内容とも関連するところがあると思いあたる。なかなか興味深くいろいろと考えさせられることがあったのだけれど、それはまた別の機会にゆっくりとまとめることにして、今晩はそのあとの出来事について書きたいんだ。

 講演会がお昼すぎに終わり、急いで1階の本屋さんにいき、発売されたばかりの総合雑誌「文芸春秋12月号」を手にして、村上春樹の新作短編小説のページを括る。「ドライブ・マイ・カー」、ビートルズのアルバム「ラバー・ソウル」の最初の曲と同タイトルの86枚の作品、副題にやや小さい文字で「女のいない男たちへ」とある。村上春樹と「月刊文芸春秋」のイメージがどうも結びつかないのだが、考えてみれば著者も64歳、団塊の世代だ。まあ、ともかく挿絵入りのタイトルクレジットされた330頁から読み進めることにする。

 主人公「家福(かふく)」は、50歳過ぎの中堅俳優で恵比寿に住んでいて、数年前に同業のつまり女優の妻を亡くしたばかりだ。その家福が愛車のイエローサーブ900を修理から受け取るところから物語が始まる。当面の間、運転代行が必要になり修理屋から「渡利みさき」という若い女を紹介される。みさきは24歳、北海道中頓別町生まれ、北区赤羽のアパートに住み、身長165CMの無口な性格、面接には男物のジャケットに黒のスニーカーを来て現れた。女性ドライバーはどうかと危惧していた家福だが、実際に有栖川公園周辺を運転させてみると見事なギアシフト切り替えとハンドルさばきに感心し、雇うことに決める。
 このあたり、やたらと実在の地名が人物に関連した属性として書き込まれているのがおもしろい。たとえば、北海道中頓別町といったら道北宗谷支庁のオホーツク海に面した海岸から20KMほど山間の町で、まず普通の人は訪れない土地だろう。何故、村上春樹がその地の設定を選んだのか不思議な気がする。ただ思い浮かぶのは「羊をめぐる冒険」の中で、主人公が探し求める★マーク付きの羊が飼われていた牧場のある十二滝町に近いといえば近いが、さらにその北上にある。
 それと今回の短編にでてくる二人の女性うち、主人公家福の妻はやはり!美人だが、ムラカミ小説の定石らしく若くして子宮がんで死んでしまっている。もうひとりのいわくありげなドライバー、みさきは“いわゆる”美人の範疇ではないのが意外な感じだがそこは、やはり魅力的な存在で気をひく。なかなか若いのに浮ついた素ぶりの全くない振る舞いで、終盤になって家福の心中に微妙な変化を与える。

 さて、読み進めるうち主人公の家福は、亡くなった妻の情事を心に秘めていることが明らかになる。妻は結婚後の存命中、四人の男と性的関係を持っていたことがあり、最後の男高槻は家福と同業の俳優だった。家福がその男と都内のバーで何度かあって話を重ねるうちに、不倫の関係とはいえ高槻は真面目に妻のことを愛していたことを知る。最後に二人が会うのは、南青山の根津美術館裏のバーで、この地名も最新作「色彩を持たない多崎つくる・・・」で、主人公が恋人紗羅を表参道で見かけるシーン設定を思い出させ、ムラカミワールドのよくある範疇港区内だと納得させられる。なんだかリッチなんだよなあ。
 家福は、亡き妻が男に抱かれる姿を想像して、嫉妬以上の復讐に近い感情を抱くと同時に、「彼女はなぜあの男と関係しなくてはならなかったのか」と妻の喪失感を埋め合わせるものが自分には何か決定的に欠如してたのでないかと思いつめ、その想いから抜け出ることができずに悩み続けるのだが、あるとき車中のみさきにその悩みを打ち明けてしまう。はたして、みさきはどのように答えたのか?
 それはやはり読んでのお楽しみ!なのだが、そこで家福とみさきとの今後の変化が暗示されて物語は終わる。これまでの村上春樹の描く世界が初めて50代を主人公にした物語として提示されたことが興味深い。まあ、でもどうしてムラカミ小説では登場人物はつぎつぎと性的関係を重ねるか、亡くなっていくのだろう?まるで喪失感を埋め合わせるように、出会った男女はいとも簡単にセックスをする。

 本屋さんをでたあとは、通りをぶらぶら駅方面へ向かうと「まほろ駅前多田便利軒」のロケされた古いビルの横を通る。ここが便利軒事務所か、なつかしいな。その先にはまったくの偶然だが、松田龍平が演じたまほろの主人公と同名のラーメン屋「ぎょうてん屋」がありまする。せっかくだらここで昼食をとることに。
 そして最後は、地元の老舗本屋久美堂へ。店頭にて山積みの「まほろ駅前」シリーズ三部作完結編が発売中。おおー、なんと著者直筆のポップ書きを見つけ、恐縮しながらめったにないシーンをパチリと失礼させていただき名古屋の友人Mへメールで送ると、すかさず「ホホー、さすがご当地!」と返信あり。友人M「私も読もっと」、はい同感です。今日はいろいろと忙しかったなあ。ちょっと満腹、購入は次回にします。


「まほろ駅前は大騒ぎ、にぎわってます!」「カリスマ書店員ならぬ作家じきじきのポップ書き」








三浦しをんトークショー 「言葉の海を渡って」

2013年11月09日 | 日記
 3日法政大学多摩キャンパスでの続き。藤沢周氏をホスト役にしての三浦しをんトークショーのお二人の会話の続きを記す。

 「風が強く吹いている」(箱根駅伝を目指す大学生たちが主人公の青春小説)の取材対象のひとつが、実は法政大学チームだったそうで、その経緯がおもしろい。執筆前の構想として毎年優勝争いやシード校に絡むほど強くなく、大所帯チームでもなく、監督にカリスマ性が強過ぎず、管理的運営が徹底されていないようなチームを関東大学陸連事務局から推薦してもらったところ法政ではどうですかとなったそうで、これには会場からもニガ笑いが。そのほかにもいろいろとインタビューを重ねてわかったのは、一流あるいは一流になる可能性をもつ選手は、身体能力の高さと同時に、自己の目指す姿をイメージしてそれを“言語化する能力”が高いことなんだとか。言い換えれば、自己の目指す姿を明確にイメージできるのは、言語能力の高さによって可能となることといえるのではないだろうか。それゆえに言葉って大事だし、おもしろいし、人間にとってなくてはならないもの、ということにつながる。

 また、小説を書くこと、あるいは言葉による表現行為について。
 「生きている中で、自分の脳の中にあるイメージの内圧がある日、ことばとして生まれ出さずにはいられないときを待つ、すなわち書かずにはいられない瞬間をすかさず捉える、そして書き続けることによって(無意識から意識下に)ことばが引き出されていくようになっていく、他人への回路が開かれていく状態へ」(三浦)
 「快不快はほかの動物にもあるが人間のみが持つさまざまな感情は、じつは“ことば”なくしては生まれないもの」「コミュニケーションの手段としてのコトバと実存意識をあらわすものとしてのコトバ」(藤沢)。

 さらに途中、三浦しをんさんがおもしろいことを言っていた。言葉による物語化は大事で必要だけれども、その一方でコトバ化される前の無意識化=カオスの世界にあった状態での混沌としたものが、物語化することにより切り捨てられて単純化されてしまう恐れがあるのだ、と。

 それで、いま記憶の中から浮かび出た歌の一節がある。「言葉にならない言葉」(作詞:山上路夫)。

  あなたと二人こうしていると
  言葉をなくす私
  心の中にあふれるほどに
  思いは満ちてくるのに

  私はなにも言えないままに   
  あなたを見つめるだけ

  お願いだから分かって欲しい
  私の胸の想い
  汀に浮かぶ貝殻みたい
  なんにも言えぬ私

  あなたはだけど分かって欲しい
  私の胸の愛を
  あなたはだけど分かって欲しい
  言葉にならない愛を

 
 40年以上前に関西の大学から出たグループ、赤い鳥が歌ったオリジナルもいいが、それ以上に中村善郎のアルバム「いつか君に」(1998年、フランスロワール制作、ピエール・バルーも参加している)の中の日本語トラックがとてもいい。言葉にならない言葉についてのセンチメンタルな感情、情景がここには通俗的ながら、いや通俗的だからこそよく現れているのではないだろうか。

 まあ現実の中で、言葉にならないのはいつも愛、とは限らないけれどもね。



法政大学多摩キャンパス地域交流DAYSへ

2013年11月03日 | 日記
 町田市のはずれ、というか八王子との境に近い相原の地に法政大学多摩キャンパスが開設されて30年になるという。当時は大学が学生数の増加に対応した敷地の拡張が難しい都心の立地を飛び出して、郊外の広大なキャンパスに移転するのが相次いだ時期だ。当初は市ヶ谷飯田橋から全面移転する構想だったらしいが学部ごとの思惑もあったようで、現在は経済学部、社会学部と移転後に新設された現代福祉学部とスポーツ健康学部と大学院、研究所から構成された組織となっている。いまとなっては、みかけ上の一体性や効率性よりも都心と郊外両方にキャンパスを構えたこの複眼方式が、法政大学全体の多様性や活力という面ではよかったのではないかと想像する。
 その多摩キャンパスに地域社会との交流と連携を目指してこの春に開設されたのが「多摩地域交流センター」で、その記念に開催されたトークショーとシンポジウムがなかなか興味深い顔ぶれだったので、紅葉が始まりかけていた丘陵のキャンパスを久しぶりに訪れてみた。

 町田街道を高尾方面に進み、JR相原駅を過ぎて車で約15分、桜並木とケヤキ並木を進むとキャンパスにつく。警備窓口で駐車券を受け取り、道なりに経済学部校舎前まで進み車を止める。山間を繋ぐ形で車道橋と歩道橋が並行してキャンパスを繋いでいる。そこから眺める城山、津久井方面の景色はなかなか雄大でちょっと感動もの。
 今回のシンポジウムは7号館と呼ばれる大教室が会場である。開始まで時間があったので、生協売店でおにぎりを買って外で食べながら広大なキャンパス風景を楽しむ。まるで多摩丘陵の緑に浮かぶかのような感じで、同じ大学でも都心キャンパスとは全く異なる環境であり、学生たちにとっては、まったく異なる大学生活を送ることになる。

 午後一時半、トークショーの始まり、三浦しをんと藤沢周の作家同士お二人の対談、なんと藤沢氏は大学教授なのでした。「言葉の海を渡って」のタイトルどおり、ベストセラー「船を編む」をおもなネタにテンポよく話は進む。地元を意識してか、「まほろ駅前多田便利軒」にでてくる喫茶店「アポロン」のモデルとなった実在の店「喫茶プリンス」の話から始まり、古書店「高原書店」でのアルバイトの話、小説創作の過程での取材方法など興味深い話題満載だった。しをんさんによると取材のし過ぎは、かえって想像性を限定させてしまい、自由な創作につながらない、という話はなかなかおもしろかった。藤沢氏によると、三島由紀夫や現代だと村上龍なんかは、ルポルタージュかと思えるほど克明に取材するそうで、お二人とも外見のイメージからするとちょっと意外な気がした。見かけ以上に繊細であるがゆえに、その補償行為として意識的に強面イメージであろうとするのかもしれない。

 休憩となってお二人が退席する際、私の座っているすぐ横の階段通路を退席するご両人が通られたのだが、なんと藤沢周氏が声をかけてきてくださったのでびっくり。なんでも早く到着してうろうろしていた姿が怪しげで目に留まったらしい。じつは藤沢氏とは同じ新潟県の出身である(実は1959年の同年生れ)。思い切って名刺を交換させていただいて、自分の勤務先が横浜市内で三浦しをんさんが来年一月、横浜能楽堂で伝統芸能についての対談に出られることを話すと、「それでは、三浦さんにお伝えしておきます」と言って下さったので随分丁寧な方だなと思っていたら、本当に話されたようで、シンポジウム開始前にわざわざまた声をかけて下さったのには、再びびっくりして恐縮した。
 うーん、今度著作を読ませていただきます。
 

国立西洋美術館のル・コルビュジエ

2013年11月02日 | 日記
 上野公園の国立西洋美術館で「ル・コルビュジエと20世紀美術館」と題された展覧会にいってきた(10月29日)。この展覧会の要諦はもちろん、コルビュジエ(1887-1965)の設計した建築空間の中で、彼の彫刻・絵画と彼の審美眼にかなった同時代の美術作品を体験できることにある。この機会に何としても見に行かなくてはと思っていた。
 国立西洋美術館本館は、そのコルビュジエが基本設計にあたり、今から54年前の1959年に竣工した建物だ。よく日本における“唯一”のコルビュジエ建築と称賛?されるけれど、スイス人でヨーロッパを中心に大陸で活躍した現代建築の巨匠からしてみれば、アジア大陸の東にある島国は少なくとも設計当初はさほど重要とは思えず、幾人かの日本人建築家の弟子によってつながる意識の端にある程度の存在ではなかったのだろうか?

 あらためて眺めると、東京文化会館と対峙する位置に立つ二階建ての本館は、20世紀モダニズム建築のお手本のようなたたずまいである。入り口のピロティ、横長の窓、内部に入ると円柱で支えられた空間にスロープがあり、天井のトップライトからは自然光が差し込む。二階の展示回廊を巡ると途中のバルコニーから一階が見下ろせ、今は立ち入りができなくなっているが屋上庭園もあるそうだ。もっとも目につきやすいファーサード(正面)はモダニズムらしく端正なたたずまいだが、どこか日本的な要素を感じるのは、正面壁パネル状に全体に敷き詰められたうす青い小石のためだろう。この石、四国産だそうで仕上げに当時の無名の職人たちの丁寧な仕事ぶりが光っている。実はここがこの建築の最大の見どころだと思っている。

 正面右側には、外側から二階につながる階段と横長の窓がありアクセントとなっているが、ここもいまは立ち入りできなくなっていて残念だ。管理上の都合だろうが、当初コルビュジエが構想して作られ、いまは使用されていないところがいくつかあるのに気づく。そこのところをどう考えるのか、この記念碑的建築を考えるうえで重要なのではないだろうか。たとえば、正面の外階段を今回の展示構成の最後に持ってきて、中の空間と作品を巡ったあとのハイライトとして、出口として使ってみたらどうかと思う。二階の室内からでていったん屋外バルコニーに立ち、その高さの位置から、向かいの東京文化会館を眺める光景を想像するとワクワクする。あきらかに東京文化会館を設計した前川国男は、師であるコルビュジエをリスペクトしているのが理解されるだろう。コンクリート製の反った庇、舞台上を覆う外壁に大理石の砂利を埋め込んで、美術館の正面外壁と対比させていることなど。東京文化会館は、前川が師コルビュジエにささげたオマージュである、と言ってしまおう。そして、当初コルビュジエが美術館や劇場、野外音楽堂を含む総合文化施設をプランニングしていたスケッチ図が浮かび上がってくるに違いない。これ、ぜひ実現を美術館側に提案してみたい。

 さて、コルビュジエの彫刻と絵画について。意外なことに今回の彼の彫刻展示作品はほぼ木製であって、そこに原色に近い色彩がつけられている。素材を生かすという発想ではなく、自然を克服することに意義を見出すのが地中海精神らしいのかもしれない気がした。絵画のほうは、線の描写や造形力はさすがだと思ったが、全体の印象はやっぱり彼の資質が生きているのは建築ではないかということ。
 
 以前、渋谷東急文化会館が閉館する前に、館内にある映画館のパンテオンに初めて入って特別上映された「ニュー・シネマ・パラダイス」を見て映像と同時にモリコーネ音楽の情感あふれる美しい旋律に感動したが、そのときの銀幕前の緞帳デザインがなんとコルビュジエの原画をもとにしたタピストリー(織物)だったのにはびっくりした。国立西洋美術館のほかに、国内に建築に付属したコルビュジエの作品があったなんて!この会館を設計した坂倉準三が師匠のコルビュジエに頼んだものらしいと知り、納得。
 今回の展示にその原画か現物がないかと探したのだが見つからなかった。建物が壊されたあと、あの緞帳はいったいどうなってしまったのだろうか、処分されてしまったか気になる。東急本社に行方を聞いてみたいのだけれどもどうでしょうか。