日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

青い影 水の影 月の影

2015年11月28日 | 音楽
 関越道を六日町ICでおりて、夕暮れの田舎道253号線を西に向かってひた走る。途中のトンネルをいくつか抜けると、雨が止んで下り峠の先、黒々とした雲の切れ目から日没後の暗闇に至る直前の輝きが見えていた。その情景を眺めながら、頭の中では自然とあるメロディーが巡りだす。
 冒頭のハモンドオルガンによる教会カンタータ風メロディーが印象的な「青い影」は、イギリスのロックバンド、プロコルハルムの1967年デビュー曲である。原題は“A whiter shade of pale”で、直訳すると“境界の蒼白な色合い”ということになろうか。夕暮れ時なのか、または夜明け前の白々した時間帯の地平なのか、いずれかを連想させるようなタイトルがこの曲調にふさわしい。バンド名はラテン語で“遥かむこうの彼方に”とでもいったような意味らしく、このデビュー曲タイトル名とも共鳴して、なにやら暗示的ですらある。
 
 

 先週末11月20日、関越道経由で新潟へ帰省していて、日曜夕方に戻ってきたばかり。ずうと車中流していたのは、松任谷由美のデビュー40周年記念ベスト盤三枚組(2012.11.20発売)、帰省した日と偶然一緒!だった。そのラストを飾るメモリアル曲がプロコルハルムをフューチャーした「青い影」。アルバムリーフレットに目を通してみると、この一曲だけは、わざわざイギリス本国のアビーロードスタジオにプロコルハルムを招いてのレコーディングとの記載があって、ユーミン自身の長年のこだわりがようやく成就したことをうかがわせる。ご本人がインタビューで語るところによると、いまに至る音楽の原点にあたる曲であって、ひときわ想い入れの深い曲であるようだ。その一端は、曲目構成にも現れていて、「青い影」直前におかれた曲はご本人のデビュー曲「ひこうき雲」(1973.11.20リリース)であり、ベストアルバム発売をこのデビュー曲の発売日と同じにしたのは、時系列の連鎖を意識したものだろう!
 この曲は白血病と思われる不治の病で若くして昇天していったひとを追悼する曲であり、オルガンのイントロが印象的だ。おそらく「青い影」から影響をうけて、その曲に敬意をもって捧げているに違いないと想像する。デビュー曲なのに、いやだからこそ現在に至るユーミンの資質がすでに現われていて、詞に描かれた世界、メロディーともに記念碑的な曲。

 この三枚組アルバムの中で、もうひとつ心に残っている曲がある。それは1980年のアルバム「時のないホテル」のラストに収録されていた「水の影」。人生や恋の別離を綴ったミステリアスな歌詞とマイナーな曲調、とりわけ間奏のヴァイオリン独奏が印象的で、初めて聴いたときから惹かれ、それはいまも変わらない魅力を放つ。その歌詞の第一節は次のようにはじまる。作詞はもちろんユーミン。

 たとえ異国の白い街でも 風がのどかなとなり町でも 
 私はたぶん同じ旅人 遠いイマージュ水面におとす
 時は川 きのうは岸辺 人はみなゴンドラに乗り 
 いつか離れて 思い出に手をふるの

どことなく、現世から彼岸に向かっていくような、かすかに死の予感を漂わせた不思議な感覚に陥り、光とともに揺らいでいる水の影は、いったい何を映したものなのだろうか、といつも思う。


 最後は“月の影”。

 故郷の実家の庭先からすこし下がった先に旧小学校のグランドが広がっている。夜の就寝前、二階のべランドからは周囲のしんとした杉の木立のシルエットが望めて、その先に続けて寂々とした冬空が広がり、南天上の雲の切れ目に上弦の月が浮かんでいた。時おり忘れたくらいの感覚で家の前の道を車のヘッドライトが通り過ぎていき、少し耳を澄ませると川の水音が聴こえてくるくらいの侘しい山間に沈んだ里。
 取り立ててなんのとりえもないようなこの過疎の山肌の集落が、かつては“月影”と呼ばれている地区と知ったら、おおよその他人は拍子抜けがしてしまうことだろう。ここにある二十一世紀のはじまりに閉校してしまった旧小学校舎の校歌作詞者は、糸魚川出身の良寛研究家で詩人・書家の相馬御風。旧校地にはその歌詞が刻まれた記念碑がたつ。わが母校、なのである。その校歌は古風な七五調で、次の通りにはじまる。

 永久にさやけき月影のその名において幾千歳
   
(2015.11.26 書初め 11.28校了、12.3改定、画像追加)

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33年ぶり再見「風の歌を聴け」と神戸の都市風景

2015年11月14日 | 文学思想
 川崎市民ミュージアムに出かけるのは本当に久しぶりだ。市民ミュージアムのある等々力緑地内の野球場なら、二年前に娘の高校野球部の夏大会予選の応援で出かけたことがあって、それ以来になる。

 先週の土曜日、国道246号線をビートルズ「パスト・マスターズ」を聴きながら都心に向かって約一時間ほど走る。JR南武線を越えて多摩川を渡る手前で右折して、川堤に沿った市道に入ると対岸には二子玉川の遊園地跡にできた高層ビルやマンション群が望めた。そこには10月に移ってきたばかりの楽天本社ビルもある。そのビルの上層階はエクセル東急ホテルで、ハワイから一時帰国していた友人が泊まっていたので、会いに行ってきたのはひと月半前のことだ。このあたりの近年の変貌はまことに著しい。ビル群の少し先には、府中から続く国分寺崖線の緑地帯が細長く伸びている。曇り空のもと、神奈川県側から対岸の東京世田谷郊外風景の眺めはなかなか素晴らしく、車中の気持ちを開放的にさせてくれる。
 第三京浜をくぐり、しばらくすると等々力緑地、目的の川崎市民ミュージアムには午前十時すぎに到着。全体が黒っぽい巨大な甲虫のような印象の博物館と美術館を合わせた建物、なにしろ延べ床面積は2万平方メートル近くある。1988年の開館で設計は菊竹清訓、時代からしてバブリーな色合いが濃厚で、その分いまとなっては巨体すぎる大雑把なプロポーションに、予算が厳しいのか外観を含めたメンテナンスの遅れが目についてしまう。オープン当初は、写真や映像、ポスターなど複製芸術やデザイン分野にも焦点をあてたユニークな公立ミュージアムとして話題を呼んだだろうに、立地の厳しさもあり、いまとなってはそのやや寂れ具合がなんとも残念な気がする。

 今回の目的は、ATG映画「風の歌を聴け」を見ることにあった。村上春樹のデビュー作が発表されたのが1979年で、そのあとすぐの1981年に当時の新進監督大森一樹、主演小林薫、真行寺君枝で映画化され、翌82年1月5日に観ているメモが残っている。おそらく、有楽町の今は無き日本劇場地下の日劇文化において観ているのだろう、33年ぶり!
 改めて見直してみると、冒頭の主人公の小林薫が高速バス乗り場で神戸行のドリーム号の乗車券を購入しようとするシーンから始まって、驚くほど細部までよく覚えているのが不思議だった。テーマ曲のビーチボーイズ「カリフォルニア・ガールズ」は、最初のタイトルロールとエンディングの2回にわたって流れていた。主人公の恋人役の室井滋はこれが映画デビュー作、もうひとりの双子姉妹の恋人役の真行寺君枝は、これを見て好きになったのだった。鼻にかかった甘えた声と長い髪、謎めいた吸い込まれるような瞳、たしかこの当時、洋酒のコマーシャルにも出ていて、たちまち田舎の少年の純真な心を捉えてしまって、長くそのポスターを部屋に貼りだし、眺めてはため息をついていたような、今から思うと赤面ものの青春時代の一コマ。

 この映画をみたあと、いてもたってもいられず、舞台となった神戸の街に憧れて新幹線に乗り、ポートタワーサイドのホテルに泊まって、三宮に元町や北野坂異人街を歩き回ったものだ。坂田明がマスター役のジェイズバーや真行寺君枝店員役のレコード店や北野のアパート、フランス語を習っていた六甲教会、芦屋など、ロケ地を探し尋ねて歩き回った思い出が蘇る。友人の鼠役、ヒカシュー巻上公一も実に若々しくてびっくり。まだ、ポートアイランドはできていなかったはずだ。
 映画の終盤、僕(小林)と小指のない女(真行寺)が並んでのベットシーン、二人が上半身を起こして会話するのだが、セリフ音声がわざと消され、文字スーパーで交互に会話を交わす場面がある。そこに千野秀一の音楽がかぶさって、最高にカッコよくて恍惚としたものだ。いつか、自分もこんなふうに情愛を交わしてみたいとすっかりその気にさせられたが、現実は全くそのような機会が都合よく訪れることはなかった。スクリーン上に記憶通りの映像が目の前に出てきたときは、当時の感情がありありと憶いだされ、半分苦笑してしまった。
 帰ってから、久しぶりに原作本をひっぱりだしてみたが、映画の相当部分は原作に忠実であるようだ。でもやはり味わいは微妙に異なり、例えば原作P177に始まる二人のベッドシーン、書かれた表現は幾分ウェットで感傷的であるような印象がする。この原作は、著者が千駄ヶ谷でジャズ喫茶のオーナーだった時に書かれたという。村上春樹は京都で生まれ、神戸で育っている。また、映画には架空の作家デレク・ハートフィールドの記述はない。

 この映画と同じ1981年は、松任谷由美のアルバム「昨晩お会いしましょう」が発売された年でもある。その冒頭を飾る一曲が「タワー・サイド・メモリー」で、歌詞中において「KOBE GIRL」のフレーズが印象的に繰り返され、神戸港が舞台となっている曲だ。大学生時代に同級生の女の子から、失恋をしたときに、この歌を聴いてひとりで神戸タワーに上って慰めたという話を聞かされ、鎌倉育ちのさっぱりとした素敵な子だっただけに、この曲への印象がいっそう深まった。と同時に舞台となった神戸へのあこがれは殆ど妄想に近く掻き立てられ、忘れられない町となった。
 1995年の震災あとしばらくして、無性に神戸に行ってみたくなった。新神戸駅で新幹線を降りて、元町をぬけ、倒れて撤去された湾岸高速がない見通しのよい通りの風景に驚き、その先に再び無事で営業を再開していたタワーサイドホテルを見つけて泊まれた時には、旧友に会えたような気がしてうれしかったものだ。

 自分の中での神戸という都市の風景は、この様な要素の中でかたち造られたのだということをあらためて思い起こした体験だった。1995年以来、神戸を訪れる機会を持っていない。懐かしい神戸、この先にふたたび縁はあるのだろうか?

(2015/11/13 書初め、11/14 初校)


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広大な自然の中で私を永遠に眠らせて

2015年11月04日 | 日記
 また、ずいぶんと大仰な標題にして何を!と思われるかもしれない。わざわざ“広大な”という形容がついた「自然」に、これまた“永遠”という時間軸を限定しない流れの「眠り」を重ねあわせているのだから。この一文は何かというと、この季節の味覚パーシモンの花言葉なんだそうで、いったい西洋人は何をして中国原産の地味な柿の花に、このような深遠すぎるとも思われる意味を付与したのだろうか。それとも日本人のよく知る柿の花の形容とは異なるところからきているものだろうか?
 柿の花は初夏のころ、うっかりすると気がつかないくらいわりと地味に咲くものだし、この花言葉はなんだか、柿の効用にちなんだ西洋神話の世界のような気もして、どうもよくわからない。

 日本では、柿はその熟れた果実の鮮やかな色合いが寒々とした初冬の空に映えて、この季節ならではの深い情感を沸き起こさせる。とくに白地に青と文字通りの柿色の染付の有田焼陶磁器の美しさといったらほかに例えようがないものだ。わたしが好きなのは、その厚みと艶のある葉に発酵させた魚の切り身などを包んだ柿の葉寿司。それを織部の器に盛って頂いたりすることがあれば大満足してしまう。今回は葉つきの柿の実を枝ごと器においてみた。地の薄黄土色と釉薬の深緑色に、柿の実の取り合わせがぴったり。

  
  織部の器は、ちかくの古道具屋で目にした愛用の骨董品。
 

 秋の味覚に関連したことでもうひとつの話題は、最近生協を通してシイタケの栽培キットというのを購入して育てている。木くずを固めた円筒形の床にシイタケ菌が植えつけてあり、すでに全体に白い菌が行く渡っている。その全体をビニール袋で覆い、毎日霧吹きをかけてあげて、夜間は外の冷気にあて、日中は室内に入れて少し暖かい環境のなかでおいておく。一週間もすると、円筒形の菌床全体にゾクゾクとそれはまあ、ひしめき合うように大量のシイタケが生えてきた。その様子があまりに生命力に満ちていて立派だったので、収穫した後に竹籠にあふれんばかりに盛ってみた。この後、夕食のほうとう鍋に田舎から送られてきたカボチャと一緒に入れて食べ、残りは翌日の朝食のバター焼きでおいしくいただき、一両日シイタケの食べまくりで胃袋はご満悦。

 

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