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まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

いささか感傷的に 越後高田城下町

2022年07月01日 | 旅行

 信州から戻って約三週間後、こんどは越後高田へ実家の様子を確かめに帰省した。母はこちらの高齢者生活住宅へと移り住み、田舎の実家周辺は過疎化が進んでしまい、もはや住んでいる家族はいない。数年前からはまったくの空き家となってしまい、その管理に頭を悩ませていて、春から伸び切った家回りの草刈りを森林組合に依頼して、この度はその作業の立ち合いに帰ってきたというわけである。

 案の定というか、帰省前の当月14日に北陸東海地方の梅雨入りが発表されて、生憎のタイミングとなってしまった。それでも関越自動車道の湯沢インターを降りると夏の青空である。そのまま17号線をまっすぐ一走りして、ひと息つこうと石打の珈琲店「邪宗門」へ立ち寄る。ロードサイドに独特の書体で書かれた大きな看板が目印だ。

 白壁とレンガ造りのちいさな教会のような佇まいは、ヨーロッパの山岳地帯にでもありそうな雰囲気がする。三角屋根の頂点には凝った意匠の十字架が乗っかていて、その下の白壁にはカウベルを大きくしたような青銅色の鐘、その下には帯状の流し枠に「邪宗門」とある。店内入り口は、階段を四段上がった腰回りの高さの赤レンガとその上部分が漆喰で作られた小屋根付き門柱の木製外扉のさらに奥まったところ、年季の入った内扉の先になる。この凝ったつくりは、意匠よりも雪の季節を考えてのことだろう。



 気温が上がってきて少し雲の向こうに霞んではいるが、正面には八海山、駒ケ岳、中岳の越後三山が望めるし、建物の脇には田植えが済んだばかりの稲の若苗が揺れている。よく見ればオタマジャクシたちが浅い水面を泳ぎ回って、水中の泥を巻き上げたりしていた。すぐ横の国道を行きかう車は多くても、やはりここには、モンスーン地帯の懐かしい田園風景が広がっている。
 店内に入ってみると、古くて太い木材で組まれた柱と天井の梁が重厚でどっしりとしていて、木製のテーブルに椅子も調度も落ち着く。壁にはいくつものアンテーク時計が駆けられているが、すべて指し示す時間が異なっている。その中でどうやら動いているのは二台だけ、ここでは時間が重層的に流れていく。


  石打邪宗門。入り口階段脇に欅古木の幹。テッセンの蔓に花一輪

 魚沼丘陵を超えた十日町市街では、まだ真新しさのある越後妻有文化ホール「段十ろう」に立ち寄る。軒先が雁木通りのモチーフだ。そこから信濃川を渡り、頚城丘陵のいくつかのトンネルをひた走り、夕方になってようやく元小学校だった体験型宿泊施設、月影の郷近くの実家に到着した。

 翌日の早朝はあいにくの雨降りだったが、幸いにも草刈り作業が始まるころには、あがってくれた。家回りの草刈りは、ゆきぐに森林組合のふたりの作業員が昼過ぎまでかかって、きれいに仕上げてくれた。最後に刈った草をいくつかの山状に集めてようやくのこと、ほっとした。

 それから昼食を取ろうと高田市街まで小一時間ほどかけて出かける。途中の高田城三重櫓前通りを走っていると、なんとスターバックスコーヒーのドライブスルーができていたのにはびっくりした。大きなガラス張りの黒い平屋建て、広い駐車場つきで城址を望む絶好のロケーションである。ふるさとの町にも都会の標準的要素が浸食していることを感じた瞬間だった。


  城址公園の先の青田川ほとりのタイ風料理店、その名も「Cafe かわのほとり」へ到着。こじんまりといい佇まいだ。出されたランチセットは、エスニック風味を田舎向けにアレンジしていてやさしい味わいだ。
 すこし周辺を歩いてみる。この総構堀にあたる青田川周辺までが、かつての侍屋敷であったところなのだろうが、いまは静かな住宅地が並び、川沿いはソメイヨシノ並木の遊歩道となっている。
 いまの高田駅がある旧信越本線、いまの妙高はねうまラインに並行して大町通(北国街道)、本町通、仲町通りと三つの主要街道が南北にぬけ、鉄道のむこうは浄土真宗本山のひとつである浄興寺や東本願寺別院など六十を超える寺社が並ぶ独特の雰囲気のある表寺町、裏寺町通だ。
 旧信越線を渡って浄興寺山門どおりの入り口に佇んでいるのが、落ち着いた黒塀に囲まれた格子のある建物が割烹旅館長養館で惹かれる。奥まった建物とよく手入れされたお庭が広がっていて、ここにはいつかゆっくりと泊まってみたいと思っている。そのちかくの天ぷら五郎で夕食の天丼をいただく。

 高田の城下町は、南北の主要道と東西にぬける道が碁盤の目状に町割りされて全体ができている。その城下町のはじまりは1614年、徳川家康の六男松平忠輝の代から輝かしく始まる、はずだった。
 ところが大阪冬・夏の陣をはさんで、天下普請で築上された高田城の開城後わずか二年の1616年七月、改易流罪されてしまう。忠輝は伊勢、高山と流転を続け、最終的には諏訪高島藩に幽閉の身となって、当時としては驚異的な長寿の92歳で現地に没している。晩年は比較的自由な身となり、達観して諏訪湖での釣りや趣味三昧の日々であったという。
 そもそもの始まりでケチが付き躓いてしまった高田藩の命運は、四代松平光長の時代にようやく繁栄を迎えたものの、その後もお家騒動による懲罰や雪と地震による飢饉災害などが相次ぎ、北陸街道や北前船寄港地に近い要という地勢的有利さを活かしきれないままに、不運としかいいようのない悲哀を帯びた変遷をたどってしまう。
 1685年に小田原から稲葉正通氏が入封してからは、小藩ながらやや持ち直し、松尾芭蕉が「おくの細道」の途中で立ち寄っている。財政的に厳しかった戸田氏、桑名から入封の松平氏の時代、最後は姫路から榊原氏が移って政治的には安定したものの、頻発する災害に苦しめられながら忍耐の130年間で、最後は反新政府軍側として敗戦側となり、同じく降伏側会津藩士を預かって激動の明治維新を迎えた。幕末には、十返舎一九が来高していて一文を残し、そのゆかりの飴やがいまでも存続している。
 と、ここまでくるとまったく踏んだり蹴ったり、貧乏くじを引いてばかりのように見えるだろう。おそらくその命運のなかで高田藩士と城下庶民の身に染みたのは、表立っての主張を控えて本意は腹の奥底にしまい込んで、なかば諦めも混じった“忍耐の精神”ではなかったか。地に足をつける、といったら格好はよいが、まあ仕方がないし、なるようにしかならない、といった心情はなんとも歯がゆい気もするが、さまざまな出来事に拘束される中で選ばざるを得なかった“叡智”なのかもしれない、と納得しよう。

 敗者の論理が身に染みている分、城下町の街並みと人情は慎ましやかであり、口調もどこかおだやかで優しい。城址も伊達政宗などによる天下普請とはいえ、天守閣も石垣もなくわずか本丸に土塁を残すのみである。それでも本丸三重櫓を望める内堀にかかる太鼓橋の名称は“極楽橋“という。春になるとソメイヨシノが濠の夜景に浮かんで見事らしい。ふるさとなのに、サクラの夜景はじっくりと見たことがないのだ。

 そしてこの初夏に時期に外堀には、もともとは維新後の困窮対策として窮余の策で植えられたという蓮根が泥中から地上天国に茎をのばす。そうして緑の皿のようにおおきな円形の葉の連なりと、もうすぐうす紅白色のハスの花々が辺り一面に埋め尽くされて、それはそれは見事だ。
 どちらも哀愁の城下町には、この時期だけひときわ華やかでもあり清々してふさわしい情景と思える。その花々の情景に、城下町が抱えてきた様々な出来事への鎮魂の意味も含めて。
(2022.6.29 書き始め、7.1 初稿了)