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まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

水無月も去り行く時季の紫陽花かな

2021年06月30日 | 日記

 六月晦日の今朝、一年の半分が過ぎていくことになる。それなのに相変わらず新型コロナウイルス感染症の状況は収まらない。
 ため息とあきらめの中で、来月開催されるであろう東京オリンピック2020に向けて、聖火リレーの工程は予定通り行われ、準備は“粛々”と進んでいるようだ。都内千駄ヶ谷の新国立競技場周辺では、交通規制が敷かれて夜間照明灯が煌々と輝き、開会式のリハーサルが繰り返されているという。

 去り行く六月を振り返ってみる。
 まずは映画について。新百合ヶ丘の川崎市アートセンター、5日「アンモナイトの目覚め」(2020年、イギリス)、一週間後の12日には「椿の庭」(2020年、日本)。
 前者は監督・脚本フランシス・リー、長編二作目ということだが秀作に違いない。19世紀のイギリス南西部、鄙びた海辺の町を舞台にした二人の女性どうしの秘めた物語、聖と生と性について。タイトルが意味深だけれど、期待を裏切らなかった。はたして何にどのように目覚めたのかは、映像に向き合ってみて知ることになる。
 上田義彦監督の「椿の庭」は先月末に観たものの、もう一度。相模湾を望む葉山の高台にある日本家屋が舞台で、夫を亡くしたばかりの主人公絹子、亡くなった長女の遺した一粒種の孫、その名も“渚”、次女陶子の三人によって織りなされる物語、四季折々の情景が美しい。要所にブラザース・フォアの歌う「トライ・トウ―・リメンバー」が三度流れて、失いゆくものの記憶に残る懐かしさがあふれてくる。

 8日は、母が訪問看護の際に新型コロナウイルスのワクチン接種を受けた。どんなものかと立ち会ってみたが、行為としては普通とかわらぬもので、当たり前すぎてこちらがやや拍子抜けしたくらいだった。とくに後遺症も起きなくてほっとした。二回目は来月早々に予定されている。

 13日、誘われて芹が谷公園内にある町田国際版画美術館講堂にて、新しく計画されている「(仮称)国際工芸美術館」を巡る市民団体主催のシンポジウムに参加する。
 公園全体の再整備に伴う計画案の課題、問題点についての意見交換、実行委員会の関係者として、版画美術館設計者の大宇根弘司氏がいらしていた。当時の美術館設計にあたっての意図、工夫についての説明が興味深かったが、新しい計画案が現美術館との調和を乱し、その立地とならんで、新しい導線計画にも大きな問題を孕んでいるとの説明だった。この計画案は、当初案が議会内で高額な建設費を理由に否決された後に修正案としてすすめられたものだが、残念ながら改善には遠く、その後出てきた様々な付帯する要請を受けて、“改悪”の袋小路に陥ってしまっているように思えた。そこで連想したのは、今回のオリンピック会場となった新国立競技場コンペのザハド案をめぐる大騒動だ。

 15日夕方仕事帰り、新治市民の森に隣接した小学校脇を流れる川のちかくへ、蛍狩りに足を延ばす。幼いころ、身近に触れ合えた自然発生するホタルを見にいくのは、娘が幼稚園に通っていた当時に出かけて以来だと思う。
 夏至近くになって日が長くなり、夜八時近くになって遊水地そばの森のせせらぎあたりに、舞い上がる数十匹のホタルあかりを目にする。空中に手を伸ばし両掌の中に入れて、その黄みどりがかったはかない点滅をそっと確かめながら、しばし慈しんでまた夜空に解き放つ。

 18日晴れて、久しぶりの鶴ケ岡八幡宮境内、鎌倉文華館鶴ケ岡ミュージアム企画展「ひらかれたミュージアム 坂倉準三の原点」へ足を運ぶ。旧県立近代美術館だった建物の魅力そのものを見せようという意図で、設計者坂倉の初期資料、戦前のパリ万博日本館図面、パネル写真などが並ぶ。
 お昼近く、一階テラス天井への池の水面のゆらぎ、閉じかけたスイレンの白い花、中庭から階段を上がって二階へ、かつて喫茶コーナーだったベランダからの池周囲の杜の眺め、中庭からの夏に向かう青い空の広がり。

 帰りは、広々まっすぐに海に向かって伸びる若宮大路を下って、鎌倉歴史文化交流館まで足を延ばす。かつての個人邸宅を鎌倉市が買い取って展示施設としたもので、設計がイギリスの建築家ノーマン・フォスターだ。代表作のひとつが香港上海銀行本店(1986)、その派手な外観の高層ビルにある種の暴力性を感じさせられた記憶がある。似たような外観をもって神田川沿いにそびえているのが、旧センチュリータワー(1991年、現順天堂大学院校舎)であり、これも強烈な印象を残す。その本郷二丁目の敷地は、かつてのW.M、ヴォーリズ事務所設計の文化アパートメント(1925年竣工)、戦後はアメリカ軍に接収されて将校クラスの宿舎になり、その後に日本学生会館(オーナーは旺文社、アルバイト面接で通った記憶あり)として昭和の終わり近くまで残っていた。
 さて、奥まった谷戸の敷地に、並行する三層の壁を延ばして仕切られた交流館の内部空間は、やはりバブル後期の雰囲気がする。調べると前の持ち主は、旺文社二代目オーナーの関係する財団である。さらにその前の所有者は三菱財閥オーナーだっだというから、その変遷に興味が湧くのはいたし方なし、か。背後の谷戸には横穴がいくつか穿っていて、そこはかとなく中世の残り香がする。

 21日新潟上越へ帰省。空き家となっている実家まわりの草刈り作業の立ち合いへ一泊二日のトンボ帰り。作業は翌日午前中で無事に終わり、昼前に出発して地元の曹洞宗の名刹顕聖寺に立ち寄って、日韓合邦運動に関わったアジア主義者の禅僧、三十一世住職武田範之碑に対面。それから松之山松代の山間をぬけて、六日町インターから関越道で帰路に着く。ようやく懸案を済ませて、すこしほっとした。

 24日、曇り空で時折雨粒がぱらつく天気の中、母を連れ出して近くの麻溝公園へアジサイ見物。平日の人影は少なく、まだ十分に愉しめそうだ。木立に囲まれたテーブルで一休みした際の母の注文はアイスクリームだったが生憎おいてなかった。代わりにクリームソーダを頼んで持ち帰ると、おそらく生まれて初めて食べたであろうクリームソーダを不思議そうな顔をして味わっていた。
 続く週末は、勤務先で主催する親子家族向け音楽会があった。出演は金管五重奏のズーラシアンブラスと仲間たち、午前午後の二回公演、久しぶりにロビーとホール客席内に歓声が響き渡る。

 月晦日は、ビートルズ初来日武道館ライブ(1966年6月)から55周年の夏越日、まもなく本格的な夏到来である。自家製紫蘇ジュースを飲んで乗り切ろう。


今夏、初めてつくったシソジュースは横浜市内長津田産の紫蘇。