日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

F.L.ライトとジョアン・ジルベルト

2019年07月24日 | 音楽
 いにしえの都、奈良ですごしていた七月のはじめにも、世の中ではいろんなことが起きていた。

 その一、七日のユネスコ世界遺産委員会で、今年没後60年にあたるフランク.L.ライト(1869-1959)の建築群が世界文化遺産登録にきまった。廿十世紀の近代建築群としては、ル・コルュビジュにつづいて二人目で、落水荘やグッゲンハイム美術館など8件が対象とのこと。さらに将来的な構成追加候補として、ヨドコウ迎賓館(兵庫県芦屋市、旧山邑家住宅、1924年竣工)が挙げられている、とあった。
 芦屋の方は実際におとずれたことがないけれども、パンフレット写真で見る限り、三浦半島葉山町にある加地邸(1928年竣工)と同様の玄関アプローチ、リビング内部デザインになっている。海側に向って開かれた山の中腹という立地条件も同じで、前後して竣工に関わったライトの弟子遠藤新らにより実施設計された住宅は、東西に離れた四歳違いの双子のようである。西宮市の旧甲子園ホテルとともに、いつかぜひ訪れてみたいと思い続けている。
 
 もうひとつは、世界遺産ニュースと同日の8日付新聞に掲載されたリオデジャネイロからの訃報。ジョアン・ジルベルトが、現地時間六日に八十八歳で逝去、日本流で言えば米寿だった。数年前から体調を崩していたという。ライトが亡くなった1959年にこの人が歌ってLP収録、発売された曲「想いあふれて」がボサノヴァの誕生を告げたのは、もちろん偶然の一致にすぎないが、ライトの世界遺産登録に前後して、こんどはジョアンが亡くなってしまうなんて!

 七十歳をすぎてから!三度来日しているが、残念ながら生のステージには接していない。驚いたことに最後の来日後だったか、突然実子の幼い娘がいるという記事を目にした。お相手はアストラッド、ミュウシャにつづく再々婚者なのか、別の恋人なのか知らないが、そのリード文がなんとも秀逸で「イパネマに娘? ボサノバの巨匠・ジルベルト氏」。うーん、ジョアンは枯れてなんかいないぞ。
 たったいま、ジョアンの綴り「JOAO」(正確には“A”のうえに“~”が表記)には、“N”の表記がないことに!気がついた。

 初来日2003年9月12日の東京国際フォーラムライブCDが手元にあったので、スイス・レマン湖畔モントルーフェスティバルライブ盤(1985.7.18)とあわせて聴ききながら、ジョアンを追悼する。2003年のときは73歳にして奇跡の来日と言われ、いっそうそぎ落とされた能舞台のような味わいに、ふたつのライブに横たわる18年の時の流れを感じたが、ジョアンの本質はまったく変わっていないのに驚く。トーキョー初ライブは、カタコトの小さなつぶやき「コンバンワ」で始まる。ヨーロッパと日本の聴衆の反応のちがいが興味深い。
 訃報一週間後の追悼文では、宮沢和史がジョアンのことを「雨つぶを数え、ミツバチを追いかけるように歌う」と例えていたがまさしくそのとおりだろう。ジョアンが歌うのは、戻ってくることのない日々と言い知れぬ喪失感、せつなさ、懐かしい郷愁の世界、そのサンバのリズムを刻むギターと歌唱は色褪せることがなく。
 
 昨日朝、食事の後にF.L.ライトとジョアンのことを考えながら、聴いてみようと手にしたのは、サイモン&ガーファンクルのアルバム「明日に架ける橋 Brige over Troubled Water」(1970)からの一曲で、タイトルはもちろん「So Long、Frank Lloyd Wright」。ポール・サイモン作のボサノバ調のリズム、不思議なメロディー、ガーファンクルの歌声が軽やかでちょっと異色な隠れた名曲だろう。続く超有名曲「The Boxer」へのつながりが素晴らしくて、飽きることなく何度も繰り返し聴いてきた。
どうしてこのタイトルなのかというと、ガーファンクルがコロンビア大学の建築学科学生だったからなのだそうだ。彼がポールに望んで書いてもらった曲らしく、歌詞は建築家の巨匠になぞらえて、相棒への愛憎半ばの想いと皮肉交じりのウイット精神に富んでいる。

それで夢みたいだけれど、もしこの曲をジョアン・ジルベルトが唄うことがあったらどうなのだろう、と想像するとなんとも楽しい気分になってくるのだ。 ああ、天国のジョアンさん、よかったらギター片手にハミングを交えて、どうか歌ってみていただけませんか?

(2019.7.24 令和大暑の翌日に)

まほろばにて、七夕の日々

2019年07月22日 | 旅行
 奈良からもどってきて二週間、あれこれとあったのだけれど、その割になんとなく気持ちの納まりのつかないまま、余韻を持て余すようにして過ぎている。
 それは二十数年ぶりの奈良行きが待ち遠しくて、訪れてみたら過ごす時間のありがたさ、もったいなさに気持ちが静かにふるえていたらしいこと、記憶の彼方からフラッシュバックしてきたかのような既視感におそわれたこと、そしていいしれぬ五感の深まりにあるのだろうか。

 奈良に滞在中、夏の兆しを感じることがあった。到着の日の午後、奈良公園をぬけながら鷺池にある浮御堂のベンチに腰かけて眺めたおだやかな風景と風にふかれて咲き始めていた百日紅。二日目はよく晴れて、県庁横のバスターミナル屋上から三百六十度の視界に広がる奈良盆地の山々のみどりがまぶしくて鮮やかだった。その近く依水園の池には真っ白なハスがいくつも咲いていて、瓦のむくり屋根の寧楽美術館をみてまわったあとに、鰻とろろ御飯をいただいた茅葺屋根の家で、床の間にかかる巻物が吹き抜ける風に揺られてカタコトと壁をたたく。南大門を望む庭園にあるネムノ木は咲きだすまではあとすこし。気がつけば水面上をトンボが飛んでいた。
 宿のすぐそばの石仏像が幾面も埋め込まれた不思議な頭塔のたたずまい、夜の土塀の続く横町の薄明かり、夕暮れ天神社の頂からのならまちの眺め。昔ながらの商店街をさまよって汗ばんだところで、小さな民家カフェでひと休みして、宿にもどったあとのいくえにも深くてたおやかな夜の時間。
 深夜から明け方にかけてふった雨が、早朝にはあがって晴れてきて、馬酔木茂るささやきの道から迷い込んだ春日大社境内。大仏殿から参道をにけて鹿のたわむれる公園散策のあとに、高台の奈良ホテルでしずかに向き合ったアフタヌーンティーの時間、窓の外に鹿の姿がみえた。
 滞在最後の九日朝早くにひとり散歩した旧大乗院庭園では、大池水面が鏡のように静かで松の木と赤い欄干の太鼓橋と曇り空を反転して映し込んでいた。随分と前のこと、いまは夢の跡形無きこの地内のJR保養所に泊まって静かな朝を迎えたことがまぼろしみたいだ。
 
 

誰もいない旧大乗院東大池に映る、梅雨の明けきらないあおによしならのなつそら(2019.07.09)
 

 史跡頭塔(土塔)、奈良時代の僧玄昉の頭が埋められた墓?半分が復元されて、半分は露出のまま。
インドネシアジャワ島ボロブドール遺跡を連想する。瓦屋根の下には浮彫石仏、塔頂には五輪塔。

 いったん宿に戻って茶粥の朝食をいただき、帰り支度をすませて高畑町のしずかな住宅街を奈良市写真美術館まで歩く。新薬師寺はそのすぐ隣り合わせというか、美術館を含むあたり一帯がかつての新薬師寺境内だった。境内左手には会津八一の歌碑があり、国宝本堂に入ってのご本尊、十二神将とひさしぶりのご対面、こちらの宿坊に泊めて頂いたのは十一月の冷え込む時期で、はじめての五右衛門風呂で温まった。

 しめくくりは、ならまちを巡っての元興寺極楽坊、しぶいな。本堂正面には、極楽曼荼羅にちなんだかのようなハスの鉢の数々。境内に集められた石塔まわりの紫キキョウ、ハギの長い枝がのびてぐるり本堂を囲んで裏手に回ると日焼けしたオレンジ色天平瓦の大屋根がみえた。1994年、壮大な一大絵巻!として東大寺で開かれた世界遺産記念音楽祭「OANIYOSHI LIVE」のときに、ジョニ・ミッチェル、ボブ・ディラン、ライ・クーダー、喜納昌吉、レナード衛藤、ボン・ジョヴィを聴き、ここの門前旅館に泊まった早朝、境内を散歩してみあげた大屋根瓦だ。




 境内の奈良時代礎石と紫キキョウ、ハギの茜紫はあとすこし。


半夏生

2019年07月02日 | 日記
 きょうは半夏生、夏至から数えて十一日目にあたるとされるが、令和元年はちょうど十日目になる。田舎では、田植えを済ませた農家がひと息つく頃で、梅雨がまだ明けきらないこの日に降る雨を半夏雨(はんげあめ)と呼ぶと知った。むかしはこの雨で豊作を占ったそうだが、ことしは曇り空、さてどのような夏の時候になっていくことだろう。
 田植えといえば、通勤途中の電車が国道246号を跨いで横浜方面へ向かうときに、車窓から都心方面へと目をやると、恩田川沿いに田園風景が残っていてほっとする。そしてそこにひろがる水田に規則正しく植えつけられた稲の伸びきらない苗が、風にそよいでいるのを見ることができる。
 もう花ショウブやアジサイ、タチアオイの盛りは終わってしまって、夏の兆しはあちこちに感じられ、気がつけばノゼンカズラのオラッパ型オレンジ色の花がツル先いっぱいに咲きだしている。こうなるとキョウチクトウの鮮やかな色が見れるのももうすぐだし、池の土中からすくうと伸びた蓮のツボミも開花のときを待つ。その膨らみはうすっらピンク色をおびて、はちきれんばかりだろう。

 今週末、名古屋で私鉄へ乗り換えて、鈴鹿・津経由で橿原経由で奈良へと入る予定だ。おそらく旅のころには、梅雨はあけてくれるのではないだろうかと楽観しているが、さてどうだろうか。小暑にあたる七夕から、市内高畑町の天平石仏十三体が残る土塔跡そばですごし、翌々日上弦の月夜に帰ってくるという旅。この土塔、僧玄昉の頭を埋めて、その鎮魂のために築かれたという俗説もあり、なにやらいわくありげで謎めいている。もしかしたら夜半すぎにその古墳のどこからもなく、ちいさな鈴の音が聴こえてくるような気がする。

 以前におとずれたときは一面の原っぱだった平城京条理跡に、平成に入って再建された大極殿と朱雀門がある。そのあたりのたたずまいを眺めることは初めてなので、いまからちょっと天平奈良時代を空想して高揚している。
 ほかに見たい近現代建物は、吉田五十八の設計した大和文華館と奈良市写真美術館(黒川紀章)、能舞台のある国際春日野フォーラムの三つ。大和文華館は、正面からのアプローチと背後のあやめ池側に面したたたずまいと対照が際立って鮮やかということで、前から実物を見てみたかった。

 奈良の庭園は、東大寺横にある依水園がいい。東大寺と若草山が借景の池泉回遊式庭園からの眺めに、ああ、奈良を訪れているんだという気分がいやがおうにも高まってくる。園内にある古代中国の青銅器や陶器類をあつめた美術館は落ち着いてみて回れるし、食事どころ三琇も、麦めしに鰻ととろろの取り合わせがはじめてで、じつに美味しかった記憶がある。
 それから、奈良ホテルに隣接した旧大乗院庭園。ここにはかつて木造風情のJR保養所があって、三十年近く前に泊まったときは、朝に目覚めたら庭先に奈良公園からの鹿たちがやってきていて、びっくりした。いまはきれいに整備されて、ホテル付属庭園のようになっているらしい。保養所の縁側越しに、池と朽ちかけた通行禁止の赤い太鼓橋がかかっているのが見えたのを思い出す。

 初日の夜はしずかに部屋ですごし、二日目になったら、早朝奈良公園あたりの散歩からはじめて、お昼は庭園と古墳めぐりで過ごし、中川政七商店本店ギャラリー遊をのぞき、夕暮れには、元興寺極楽坊の旧なら町あたりを酔い覚ましにそぞろ歩く。かるく夜風に当たって目がさめたなら、すこし早目に高畑町まで戻るとしようか。
 
 まほろの都の夜はしずかに呼吸し、迷宮のように奥深く、慈悲深いだろうから。



 雨の日の森を変転させてたたずむステンレス球体“my sky hole 88-4”(芹ヶ谷公園)。
 この彫刻の作者井上武吉(1930-1997)は、奈良県宇陀郡室生村の出身。