日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

Henry David Thoreau 「Walking 歩く」

2014年01月25日 | 文学思想

 新春にふさわしい、美しい本だ。そこに書かれた言葉も本としての装幀としつらえも。
 
 昨年から読み始めてから今年最初に読み終えたのは、ヘンリー・デヴィット・ソローの「歩く」(山口晃 編・訳、2013年ポプラ社発行)。装幀は緒方修一。冒頭、かすかにセピア色をおびたコンコード地方周辺とおぼしき二十世紀初頭の自然風景写真が印象的だ。
 
 H.D.ソロー(1817.7.12-1862.5.6)は、アメリカのマサチューセッツ州コンコード生まれの自然主義者で思想家、いまから152年前に44歳で亡くなっている。高校生の頃、雑誌月刊宝島の連載「森の生活」で知って以来、ずっと気になり続けていた存在。エコロジストの先駆者、奴隷制度に反対し続けたヒューマニストにして、なによりも個人の自由を尊重して思索し続けた人。
 ソローは、「歩くことは、聖なる地へ向かってのさすらい」と述べている。聖なる地へのさすらいとは「巡礼」の旅のこと。巡礼先の聖なる地では、黄金色の素晴らしい覚醒の光が、私たちの生命全体を照らし出してくれるという。


ソローの示す実存的なことば。

    私は今を生きています。過去は記憶し、未来は予期するだけです。生きることを愛しています。

    自分の内部に生活の根を下ろさなくてはならない。

    私が暮らすこの好奇心をそそる世界は、便利である以上に不思議なものである。有益である以上に美しいものである。

    今、この瞬間を見失わない人こそ、本当に幸せな人です。


 そういえば、村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」で、主人公は名古屋、フィンランドと自己回復のための旧友を尋ねる巡礼の旅を続けた末に、ありふれた日常の世界、東京新宿に帰ってくる。見慣れた新宿駅の9・10番線プラットフォーム、松本行きの列車の最後灯が遠ざかるのを見つめながら、恋人紗羅のことを想う。おそらくふたりの想いが重なる日常の先に、覚醒の光にみちた色彩の世界が広がっているのだろう。「いま、ここ」を生き切ることの大切さに気がつく。


春の予感

2014年01月24日 | 日記
 まほろ近郊では朝夕の冷え込みは依然として厳しいもの、日中駅までの横浜水道みちを歩いていると、道沿いの草花に「春の予感」を感じる今日この頃。梅も咲き始めているけれど、この時期に芳香を漂わせている花々たち。


 
   道端に咲く、和スイセンの可憐な姿。
イノセント無垢な汚れなき清楚な印象で気品ある香りがするが、なんと有毒成分があるのだそう!
   ブラザース・フォアの歌った「七つの水仙」を思い出す、1964年の曲。
この水仙は西洋種か。曲のほうはもちろんリアルタイムでは知らない。


  
   同じく、水道道沿いの民家脇に咲くロウバイ。空のブルーと花のイエローの対比が鮮やか。
   蝋梅とはよく書いたもので、良い香りを漂わせ長く咲きつ続ける。この辺ではここでしか見かけない。 
後方は昨年末まで寒空に実をつけていた柿の木の枝。  

冬晴れの清川村から宮ケ瀬湖、丹沢大山を走り抜ける

2014年01月21日 | 日記
 一昨日の19日早朝、相模川沿いにある海老名運動公園へ向かう。海老名市駅伝競走大会に娘の在学する高校チームが出場するので、父母会で炊き出しをすることになり、手伝いの家人を送る。途中で真っ白に冠雪した雄大な富士の姿に歓声をあげた。公園のすぐ横は相模川、その間にできたばかりの圏央道高架が横切っていて、以前はここから大山丹沢越に富士山が望めたはずだ。
 集合場所には、20名ほどのお母様たちが集まっている。空気は冷たいが快晴、絶好の“駅伝日和”、相模川の堤沿いも走るなかなかのコース。高速道路をくぐって相模川原へでてみると対岸の厚木側のソニー工場やビルのむこうに丹沢の山並みが、富士山が迫ってくる素晴らしい風景。川面には冬鳥の姿。その堤沿いをランナーが駆けぬけていく。なんともいえないいま、ここならではの情景を胸に刻もう。
 日当たりにいてもそれなりに冷え込みは厳しい。天気はいいし、やはり七沢温泉に行ってみよう!そう、思うとクルマを走らせた。

 
    相模川畔から、大山を望む。左手の東名高速高架、道路標識に右手矢印方向「名古屋」とあった。
      写真ではわかりにくいが、注視すると厚木の高層ビルのすく左側に真白き富士山が映っている。

 
 相模川を渡り、厚木市街中心を迂回して毛利台を越え、新玉川沿いに県道を北上し、七沢を過ぎて清川村に入る。別所ふれあいセンターで入浴休憩。温泉ではないけれど山筋の自然水を沸かした広々とした浴場、杉木立から午前の朝日の光の筋が水面に差し込んで清々しい感じ。流れる空気がゆるく、ホッとする。
 ここでの昼食後、ふたたび車で一路北西方面へ走る。両側に山がせまってきたかと思うとやがて視界が少しずつ広がり、宮ケ瀬湖が見えてくる。やまびこ大橋を渡り、すぐに左折して県道70号線に入ると、ひたすら山道を走る続ける。途中から一車線ほどの幅になってすれ違いが困難な状態となり、日陰には今朝のなごり雪、少々不安になってくるが慎重に進むことにする。

 一時間弱ほど走ってようやく、という感じで札掛地区に到着。ここには民営国民宿舎丹沢ホームがある。原広司設計で1996年に建て替えられたものだが、その前の建物に大学入学直後のオリエンテーションか、生協合宿かなにかで訪れた記憶がかすかに残っている、33年ぶりの再訪だ。現在のものは、木造三階建てでアルミ張りの外観、大きく取った窓、ホワイエと両側に広がる階段が開放的な空間。原広司は、翌1997年竣工のJR京都駅も設計しているがふと、ここの1階食堂兼用ホワイエから二階へつながる大階段で構成される空間が、その京都駅に類似している。丹沢山中の山小屋と古都の近代的駅舎との類似性に気が付いて、我ながらちょっと驚く。ここでもう少しゆっくりとしたかったが、先を急ぐことにした。

 大山の裏側にあたる沢筋をひたすら走ると、ヤビツ峠の標識、この名前はバス停の終点として記憶に刻まれているのだけれども、こんなさりげない場所の感じだったかしら?ここから先は秦野方面に向かってひたすら下りとなっていく。
 しばらくすると大きく左にカーブする手前の展望箇所があって、そこの駐車場には何台かの車が止まっている。前方には、曽我丘陵の先に裾野まで真っ白な富士山!ここは「菜の花台園地」と呼ばれているところで、先っぽには富士山全容とご対面できる木造の展望台があり、登ってみると三百六十度開けた視界が息をのむくらい“素晴らしすぎる”!!秦野市街から相模湾の先に伊豆大島、左手には江の島はほんとかわいい姿で望める。小田原の先には、文字通り鶴の首のように突き出した真鶴岬があって、さらには伊豆半島が続く。その先は海がそのあまま紺碧の空とつながって拡がっている、この冬晴れ!

 ここから、秦野市街に降りるにはは30分くらい、途中、蓑毛集落で奈良時代創建といわれる古刹「大日堂」に立ち寄ってり、しばし佇む。さらに下って国道246号に合流したら左折。パット・メセニー・グループのECMレーベルベスト盤を聴きながら走れば、再び相模川を渡り、本日のドライブを終えることになるだろう。

 夕食前にはすこし早いので、ロードサイドのファミリーレストラン「ガスト」によってコーヒーブレイク、三浦しをん「光」を読み終える、非条理な運命におかれた人間の存在に魂の救済はあるのかを問う、異色作だ。

生誕100年 植田正治のつくりかた/東京ステーションギャラリー

2014年01月15日 | 美術
 銀座通りから、高速道路高架をくぐりぬけて京橋通りに入る。途中通り過ぎた明治屋は、建物改修中で保存されて活用されるらしい。八重洲通にぶつかかったところで、左折して東京駅方面にむかう。お昼時、空腹を覚えたので、駅手前で中華料理屋をみつけて昼食をとることにした。ビル街の合間のサラリーマンに愛されているであろう食事処、おいしくてコストパフォーマンス抜群、家人と二人してビールをいただく。
 正面は新調なった東京駅、八重洲側からは初めての対面だ。駅ビルの大丸デパートは、以前より右手の高層ビル、グラントウキョウノースタワーに移って新装オープンしていた。北口通路から丸の内へとに抜ける。1914年開業当時に復元されて、いよいよ今年12月に竣工百年を迎える東京駅舎内の北大ドーム下に入る。明治・大正期の建築家の泰斗、辰野金吾の設計の赤レンガ建築、クリーム色のドーム天井を見あげて、鷲のレリーフや八つの干支の彫刻を眺めていると、見知らぬ女性が近づいてきて声をかけられる。

 「東京駅は初めてですか? (いいえ。)では、何をご覧になっているんですか?」
 「天井の干支の彫刻を探していて・・・」
 「今年の干支はなんでしょう」
 「ええと、午(うま)、ですが・・・」
 「そうです。ところで午は見つかりましたが?」
 「いえ、八角形なので全部で八つしかいないので、いったい残りの四つはどうなっているのかと・・・」

 といった感じで、テレビインタヴュー取材を受けることになってしまい、いったんドームの外に出ると、TBS「朝ズバッ!」取材クルーが待機していてカメラとマイクを向けられることになってしまった!まあ、これも経験かと思うと緊張も解けて答えたつもりが、あとで翌日の放送を見た方によると見事にカットされていたらしい。まあ、答えのセンテンスが長くてそのものズバリのテレビ向けの素材としては不向きと判断されたみたいで、ちょっと楽しみにしていたのに残念!

 それはともかく、今回の目的はここ東京ステーションギャラリーで開催中の写真展「生誕100年 植田正治のつくりかた」をみること、5日が最終日で滑り込みで間に合った。北ドーム脇に入り口がある。ギャラリースペースは駅舎のドーム脇の北端部分が充てられていったん三階に上がってから順に下におりてみる構成となっていた。
 エレベーターで三階に上がる内部の壁面は赤レンガがむき出しの独特な空間だ。はたして作品はどんな感じでこの個性の強い空間と拮抗しているのか、興味の焦点はそこにあったんだ。
 じつは、「植田正治」1913-2000)という写真家は、新聞の文化欄やMAMAKOからの情報で初めて知った。昨年末、わざわざ名古屋からMAMAKOも見にきているはず、そう思うと気持ちが改まったよ。鳥取出身で山陰地方を生涯の拠点としたとあり、砂丘での作品など地方風景を背景に随分とモダンでシュールともいえる印象の作品が並ぶ。構図や人物配置の仕方も独特でいま見てもじつに新鮮で、寺山修司の映像を思わせる。寺山も写真を撮っているが、二人の作品を並べてみてみたいと思った。植田の実験精神とチャレンジを怒れずに新しいスタイルを追求していく姿は、中央とは離れた適度な距離がなせるものだったのかもしれない。

 植田の著作「山陰の風土に生きて」のことばに「山陰の風土に生きて抒情を求め続ける」とある。当時モダンな表現だった写真を山陰という風土を意識しながら取り続けたところに、自称“生涯アマチュア精神”を発揮した写真家植田正治の魅力がある。彼の遺した家族写真も故郷の風景写真も原点は、そのまなざしに貫かれているのだろう。
 


補足1:翌日の6日八時過ぎに、そのTBS番組「朝スバッ!」を見ていたら、辰野金吾が東京駅ドームに残した干支彫刻ついて孫娘の辰野智子(建築家)や 首都大学の東秀紀教授がインタヴューを受けていたが、何故干支を掲げたかそして12のうちの8つを選んだ理由は謎のようだ。さらに続きの映像があって、これが興味深いことに!、同時期に辰野が手掛けた佐賀の武雄温泉楼門の天井四隅に残りの干支の動物が描かれているのだ。その干支は、東西南北方向に“卯、酉、午、子”の四つ。これが、東京駅に残されなかった干支の種類。辰野金吾は佐賀唐津出身だから、東西南北にあたる干支は郷土に置いておきたかったという心情からなのかもしれない。いずれにしても真意はナゾ、ということにしておくといろいろと想像が広がって楽しい。


東京駅北ドームを見上げる。
八角形のドームの下に空中回廊あり、ギャラリー出口とつながっていて上からコンコースをぐるりと見下ろすことができる。そして回廊の窓の上の三つ又の中心に水色の円形アイコンが見えるのが問題の干支像で合計で八つある。

  
天井ドームを見つめていて、八角形の枠に縁どられたクリーム色の天井がある図像と類似であることに気が付いた。
それが、以下の「方位吉凶早見盤」である。東西南北の方向に干支の“卯、酉、午、子”が記されているのが読み取れる。
         
  

補足2:今回から思うところあって、ブログタイトルを「日々礼賛日々是好日」と改題。
    日々で始まる二つの熟語を繋いでみるとおもしろい漢字のならびになるので、これでいこうと思う。

銀座セゾン劇場、堤清二 うたかたの夢

2014年01月15日 | 日記

 三愛ドリームセンターのコーヒーショップを出てから、京橋方面に向かう途中の首都高速高架手前で、ル・テアトル銀座、旧「銀座セゾン劇場」前で思わず立ち止まる。客席800ほどの劇場と映画館「テアトル西友」、中規模ながら高級指向路線で売った「ホテル西洋銀座」の複合建築は、1987年竣工の菊竹清訓と久米設計によるもの。その前身はテアトル銀座というシネラマ方式の映画館だった。学生時代に閉館特別ラスト上映「2001年宇宙の旅」をここのレイトショーで友人たちと一緒に見て、その弧を描いた大画面に投影された宇宙空間シーンにひどく感激し、朝方の銀座通りを歩いた思い出がある。
 旧銀座セゾン劇場は、かつてセゾングループの片隅に所属していた当時、紆余曲折の末に鳴り物入りで開場した劇場であり、こけら落としは大御所ピーター・ブルック「カルメンの悲劇」だった。新装の劇場は、大理石内装のやたらまぶしいホワイエと場内紫色の内装が印象に残っているが、肝心の舞台の印象は格調高く素晴らしかったはずなのに、ほとんど記憶にないのはどうしてだろう?決して退屈したわけではなく、舞台に敷き詰められた土の上で、パントマイムの牛と闘牛士役の優雅な身のこなし姿だけがかすかに思い出せる。
 銀座通りに面して間口はせまく、首都高速沿いに細長く白亜の建物が伸びる。劇場入口には二本の列柱がたち、向かって左側がチケットボックスだった。正面扉を入って右手に劇場ロビーへのエレベーターがあったはずだが、ガラス戸は塞がれて中は望めない。映画館もホテルも建物のすべてが時流のなかで営業を停止してしまって、静かに佇んでいる。廃墟とよぶにはあまりにも整然とした汚れなき姿が不思議な感慨を呼ぶ。今すぐに再開してもおかしくないような“デ・ジャヴ”既視感にとらわれてしばし佇む。

 西武流通グループが、生活総合産業を標榜して「西武セゾングループ」と称したのが1985年のこと。翌々年のこの劇場のオープンの際に、西武がとれて“セゾングループ”となり、同時にアルファベット表記が「SAISON」(仏語で四季の意味)から「SEZON」へと変わったのを覚えている。前者表記だと「サイソン」としばしば誤読されることがままあり、日本ローマ字表記にあわせ後者に変えたらしいのだが、いかにもとってつけた変更であり、違和感をもった記憶がある。グループ総力をあげた施設に、劇場「セゾン」、ホテル「西洋」(これは、グループデベロッパー会社の西洋環境開発からきているのだろう)、映画館「西友」と宣伝要素の強い名称をつけこともしっくりこない。はっきりいって、それまでの消費時代の先端を走ってきた企業らしくない貧乏くささがしていた。まあ、最終的にはトップ堤清二氏の意向が働いたと想像するが、ここのあたりの判断のおかしさから、このグループが経営破たんに向かっていく兆候が読み取れるのではないだろうか。

 ともあれ、こんなタイミングでかつての遺跡に再会するなんて!つわものどもが夢のあと、時の移ろいの儚さ、非情さを思い知られずにはいられない。当初は何度か舞台を見たけれど、いつの間にか興味は薄れ、自然とそこから離れてから久しいままに、ついに劇場としての生命は終わってしまった。


追記:今朝の朝日新聞に、俳優の高橋昌也氏の逝去が載っていた。
 セゾン劇場開場の年1987年から99年まで芸術総監督の呼称で、黒柳徹子主演のコメディ演出にあたったそうだが、その舞台に接することとはないままだった。文学座、劇団雲、演劇集団円と移る中で脇役俳優として活躍とあるが、芸術監督に就いたのは、堤オーナーと三歳違いの同世代で知友でもあったつながりからなのだろう。劇場の方向性の定まらなさとともにいまひとつ話題性と印象が薄かった気がする。昨年11月の堤清二の逝去に続いて、やはりひと時代が回ってしまった感が深い。(2014.01.23 記)


銀座四丁目交差点、和光本館、三愛ドリームセンターへ 

2014年01月10日 | 日記
 5日の休日は晴れ渡り、中央林間から田園都市線で表参道乗り換え、銀座に出る。家人につきあって和光本館「現代の書新春展」会場へ。新春にふさわしく「書」芸術で鑑賞をスタートするのもいいかなと誘いに乗ったんだけれど、本音は久しぶりに和光本館をじっくりと眺めること。その建物空間を体験してみたくて、1995年にここWAKOで購入した腕時計“SEIKO LUCENT”を取りだし、昨年末に新調したツイードのジャケットを着おろしに装ってワクワクして訪れたのだった。

 数年前のリニューアルによりピカピカの外観と店内、ここの姿を見ると銀座を訪れたという豊かな気分にさせてもらうのは、やっぱりそれだけの歴史があるから。なんと戦前1932年(昭和7)渡辺仁設計の建物で、屋上に四面の時計楼を乗せたネオ・バロック様式、外観は四丁目交差点にむけて優美なカーブを描く花崗岩でできている。この花崗岩、柔らかな印象で今回よく見ると薄桜色の要素が混じっている、いわゆる赤御影石であると分かった。外壁一階と二階および二階と三階の間にあたる壁面には帯状の文様がつらなり幾つかのアイコンが彫られていて、じっくり見ていくとその中にはアルファベット「H」(創業者服部氏のイニシャル)と砂時計をモチーフとしたものが目に入る。正面のショウ―ウインドは、今年の干支白馬像がディスプレイされている。背景には紅の帯模様が舞い、その対比が鮮やかなのは、日の丸の清々しさを連想させるからだろう。
 6階ホール(ギャラリーと呼ばないことに気が付いた)へ上がる。31人の毎日書道会の重鎮の書き下ろし作品が並ぶ。書は小中学生以来でしばらく興味がなかったけれど年齢を重ねると、その良さが半紙ににじむ墨のようにじわじわと広がりだしてきた。西洋人にはミステリアスかつファンタスティックな世界だろうな。この日本の商業地の中心で書に対面する贅沢さ!ついでながら、今回のトピックスは,屋上時計塔直下の7Fスペース。ここは初めて気づいたことなのだが非公開スペースとなっていて、レセプション会場か特別貴賓室なのか、庶民には預かり知らぬ空間だ。

 
 さて、お昼には少し早いので休憩にすることにして、向かいの円筒型の三愛ドリームセンター内のドトールコーヒーへ。以前、青山・原宿逍遥の際にも書いたが、ここの一、二階にコーヒーショップができたのは10年近く前だと思うけれど本当にびっくりした。さすがに通常通りの価格ではないがそれでもブレンド一杯380円、カップは特別製の上等なものだった。二階の交差点から三越松屋方向や東銀座築地方面がが見渡せる位置にすわって、広いガラス張りからのニッポンの平和な正月風景、人の流れを眺める。ここからの都市空間はひとつの日本の表徴であるに違いない。映画のあとなどぼんやりと風景を眺めに来たらおもしろいだろうなと想像する。ロラン・バルトが見たらどう批評するだろうか。
 このドリームセンターは、和光本館の歴史様式とは対照的なモダン建築(1962年、日建設計/林昌二)の円筒形ガラス張りの斬新なデザインで構造体は円筒の中心軸にあり、そこに階段やら水回りなどのバックヤードが収めてある。東京オリンピック前の時代、さぞかし斬新な驚きを与えたに違いなく、せまい角敷地の制約を逆手に取った近未来的設計指向のビルで、名前からして“ドリーム”である。この円筒の系譜は竹橋にある毎日新聞本社(パレスサイドビル)にもつながっていくのだろう。蛇足だけれど、日建設計/林昌二は中野サンプラザ、五反田ポーラ本社ビル(全体の構造系譜は同じで相似形ビルといえるが、やはり後者が洗練されている)の設計者でもある。

 正午になって、銀座通りでは歩行者天国が開始されようとしていた。私たちもここを出て、山野楽器、木村屋、ミキモト、教文館と老舗に欧米の有名ブティックが立ち並ぶ大通りを、次の目的地東京ステーションギャラリーに向かって、まずは京橋方面に向かって歩いていくこととしよう。

ありがとう、大瀧詠一さん、そしてサヨナラ!

2014年01月06日 | 音楽
 大瀧詠一さんが昨年末30日午後に亡くなられたのを知ったのは、大みそか31日のお昼の出勤前、パソコンで知り合いの方に近況伺いメールを送った際に偶然覗いたヤフーニュースだった。どうして、こんな年の瀬にと一瞬我が目を疑ったが、ネット上では次々とその突然の訃報が広がっているようだ。なんでも30日夕方5時過ぎに都内瑞穂町の自宅で突然倒れ、搬送された青梅市内の病院で亡くなったらしい。友人がメールで「リンゴを喉につまらせた~?」と教えてくれたが、大瀧さんらしい?冗談のような気がしてその時は何のことやらわからなかった。
 とにかく、邦人アーティストによるトリビュートアルバム2002年「ナイアガラで恋をして」と1989年リマスターの「B-EACH TIME L-ONG」をひっぱりだしてきて聴くことに。30日の夕方といえば、自宅で和室の障子張り替えを終えてひと息ついたころで、偶然にもアップル!レーベルのアーリービートルズソングを聴いてくつろいでいたころ、その時にこんな信じられない悲しい出来事が起きていたなんて!

 元旦の新聞には、その解離性動脈瘤による急死を知らせる記事が載り、3日の朝日新聞夕刊には、早くも内田樹氏の追悼記事が掲載される。それによると「(大瀧さんは)ふつうの人は気づかないものごとの関係を見出す力において卓越した方でした。」とあり、「はっぴえんど」時代の代表曲「春よ来い」(もちろん、相馬御風作詞の童謡やユーミン作とは違う)は、「地方から都会に出てきた青年の孤独と望郷の念をうたう、春日八郎や三橋美智也にも通じる楽曲でした」と述べている。じつは大瀧さん、岩手県の生まれで「日本語ロック先駆者」「実験的なサウンド」という常套句よりも、よほど本質を突いたものと共感する。創造とはまさしく「誰も気が付かなかったものごとの新しい関係性を見出すこと、そしてそこに新たな意味を付与すること」にあると私自身信じているから。

 いま、改めてLPジャケットを眺めながらナイアガラサウンドを振り返ってみる。

「A LONG V-A-C-A-T-I-O-N」(現題はすべてアルファベット表記)は、永井“ペンギン”博画伯!による南方の海辺を思わせる無人のプールサイドの鮮やかで透明感あふれるイラストレーションが、実に印象的なジャケットで1981年のリリース、ちょうどなつかしい大学時代と重なる。そして卒業した84年には、輸入盤仕立ての新譜「EACH TIME」が発売され、すぐさま購入して聴き続けた。井上鑑のストリングスアレンジの素晴らしさと相まって、このアルバムの白眉はなんといっても「ペパーミント・ブルー」だろう。二作品とも作詞松本隆とのコンビ作。85年の小林旭「熱き心に」の歌いだし「故郷の~」後に続くストリングスの調べにぐっと心が揺さぶられた。ツボにはまったオブリガートとはこのようなものだというお手本のようなアレンジははたして大瀧さんのものか?また、シリア・ポールの「夢であえたら」を初めて聴いたときはそのキュートな魅力に参ったが、いまから思うと大瀧さんのコニー・フランシスを思わせる楽曲の魅力が大きかった。そして89年「B-EACH TIME L-ONG」は、なんと前二作の代表曲をフルオーケストラサウンドのイントロでボーカルとともに聴かせたナイアガラサウンドの集大成のようなアルバムで季節を問わずに愛聴した。個人的には、この三作をもってナイアガラサウンドは頂点に達したものと思っている。

 そもそも、大瀧さんの名前が初めて刻印されたのは、70年代中高校生のころの若き秋吉久美子の水着姿がまぶしかった「三ツ矢サイダー」CMサウンドの作者としてだった。なんてシャレたコーラスとメロディーなんだと、洋楽の豊饒な世界を知らない片田舎の少年の心をとらえたものだ。それ以来、上京してから少しずつLPを買い求めていって、コミックバンド風な洒落や冗談にも並々ならぬ才気を感じずにはいられなかった。いまにして思えば「ナイアガラ音頭」なんて、大瀧さんの薀蓄と余裕であったに違いない。福生と相模原と横浜横須賀が国道16号線で結ばれていることをただただうれしく思ったものだ。大瀧さんが小津安二郎ファンで、映画ロケ地めぐりが趣味というのも親近感を覚える。
 

 永遠の「ロング・バケーション」に旅立たれた大瀧さん、リンゴを食べている最中に倒れられるなんて本気であなたらしいのかもしれませんね。大瀧さん、生まれて65年の音楽人生は、望んだとおり「はっぴいえんど」=「幸せな結末」でしたか? 
 生のステージに接することは叶いませんでしたが、同時代にあなたの音楽を聴くことができて本当に幸せです、ありがとう!ございました。

 
  2013.12.31町田東急ツインズイースト 新星堂店頭にて、出勤途中に。


 
   
  2014.1.6 町田モディ タワーレコードにて。「大瀧詠一ファースト」「ナイアガラ トライアングルVOL.1」を購入。前者には「三ツ矢サイダーCM」につながる楽曲も聴かれ、後者には若き日の山下達郎、大貫妙子、吉田美奈子の声が。
 
 

伊勢原おおやま菜漬と太田道灌

2014年01月03日 | 日記
 年末年始は仕事上のローテーションで、プライベートな年始年末というのは12月30日と明けて1月2日のことになる。

 師走の30日は冬の快晴の日だったので、前々から大山のふもと伊勢原市子易へ買い出しに出かけようと思っていて、車にしようか電車にしようか当日まで迷っていた。それで朝9時過ぎに地元農協支所に問い合わせたとことろ、お目あての品は駅売店周辺ではたぶん売り切れで、子易の物産所は午前中までの営業と伺う。それではとすぐに車で出かけることに決めて10時に出発、行幸道路をビートルズ「PAST MASTERS」を聴きながら座間、厚木と進み、246号経由で大山道を上って現地に到着したのは11時くらいだった。お目当ての品「おおやま菜漬」は、このあたりの山麓で江戸時代から「子易菜」と呼ばれて栽培されてきた地野菜のひとつだそうで、寒冷時期に収穫されたものを塩のみで漬けたシンプルな味わい、ピリッとした辛みが食欲をそそる。いわゆる“地産地消”のこの時期になると食べたくなるもののひとつ。
 JA大山支所の物産所はこのあたりの食品と日用品売り場を兼ねていて、なつかしい田舎の雰囲気を遺している。まわりは両側に大山の山並みがせまり、レジのおばちゃんも地元の人らしい素朴さ。店内で首尾よく予約取り置きしてくれた「おおやま菜漬」を七袋と正月用の地元清酒、よもぎ餅も買い求めてひとまずはあっさりと目的を達することができた。

 真冬とはいえ、快晴で時間はまだあるし、このまま帰るのがもったない気がして帰路に前から気になっていた戦国時代の武将太田道灌の墓がある「洞昌院」によってみることにした。子易の物産所からは車で10分ほど、大山道が東名高速道に交差する手前の上粕屋といういまは住宅と畑が混在する地に、その遺跡は木立に囲まれてあった。
 太田道灌といったら歴史の教科書で江戸城を築城した人物として教えられたが、こんなところで讒言により最期を遂げていたなんで知らなかった。都内目白あたり山吹の里の逸話もあって、てっきり家康かなんかの家来で江戸の人だと思い込んでいたのだった。いまから五百年ちかくまえの人物の墓標の前でしばし、佇む。この年末に来てすこし、戦国時代のひとりの武将の生き様が身近に感じられるようになったかな。
 お寺(曹洞宗)の境内にはりっばな枝垂れ桜やロウバイなどが植えられていて、その花の季節にはまた訪れてみたいと思った。やはり、机上の知識だけでなく現地探訪は大事だなあ、と。
 さて、その帰り道、来た道を戻り小田急相模原で昼食と散髪、さらに途中で洗車と障子紙を購入、家に戻って前日に家人に命じられていた正月支度の和室障子張り作業をひとりで粛々?とやり終えたら、もう夕方5時だ。ひととおり担当分?の新年準備は、まあできたことになるかな。

 こんなふうにして2013年の年末は暮れていくのだが、翌31日になってまさにこの時間に起きていたある“出来事”を知ることになってびっくりするのだった。

2014年 初春江の島富士

2014年01月01日 | 日記
 新しい年の元旦、穏やかな晴天青空が拡がる。家族でお神酒とおせちをいただく。今日が早くも仕事始めの初席、明日がお休みで恒例の江の島詣出。
一足早くその情景を掲げて、今年の和みと粋(いき)であらんことを祈る。


 江の島 稚児が淵から相模湾越しに望む大山丹沢の山並みと冠雪富士 (2012.2.18 撮影)


 同じく江の島コッキング苑内の灯台“シーキャンドル”展望台からの霊峰富士、不二山とも記す(2009.1.2 撮影)