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まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

中央線千駄ヶ谷駅、師走の新国立競技場

2019年12月30日 | 建築

 師走に入って半月過ぎの 15日、新宿駅西口で遠方からの友人と待ち合わせる。駅ビルデパート食堂街でピザを食べながらのコーヒーブレイクのあと、せっかくだから新国立競技場を観に行ってみようということになった。新宿からは中央線で二駅、千駄ヶ谷で下車すればいい。駅につくとホームに沿って新宿御苑の森が広がっている。

 階段をおりると、コンコースは来年のオリンピックを前にして改修工事の最中である。そして改札を出た正面向いにあった津田ホール(1988年に竣工)の姿は、わずか四半世紀あまりを経ただけですでに消えてしまっていた。ここの地下には、神戸発祥ユーハイムの喫茶店があって、前回千駄ヶ谷を訪れた二年前の夏に一度だけ利用した記憶がある。このときは旧競技場のほうは解体が終わって、地ならしからいよいよ基礎工事が始まったかな、という感じ。ということで、巨大な空き地がぽっかりと都心地に出現して、ちょっと気が抜けるというか、これからどうなるのだといった期待とも失望ともつかない思考停止モードから、クレーンが何本も立ち上がってきて一歩踏み出したときだった。JOC関係者はやきもきしていたのか、様々な利権がうごめき出し尽くしていたあとなのか、いろいろと妄想していてもそれはもう時代の気分にまかせるしかない。

 それにくらべるとずっと慎ましいとさえ思えてくる津田ホール跡地のほうは、津田塾大学の都心拠点新キャンパスになるらしく、こちらも建築工事中である。その津田ホールと同じ槇文彦総合計画事務所設計で、1990年に竣工した東京体育館も大規模修繕の最中で、巨大なカブトガニ甲羅のようなアルミ大屋根に足場建材が組まれ、ぐるりと囲まれていた。地理的にみるとこの体育館のあたりまでは渋谷区だが、外苑西通りからむこうの明治神宮外苑地区の大部分は新宿区域となっていて、出べそのように港区側に飛びだした三区の境際にあたることが興味深い。

 千駄ヶ谷駅前からはすぐに新国立競技場の姿が見えない。意外に思いながら歩を進めていくと、東京体育館をすぎた先、外苑陸橋の手前あたりでようやく目に入ってくる。メディアからうけるイメージとはすこし異なって、予想外につつましい印象だ。高さ47メートル、地上五階建て外周の四層の庇に放射状にぐるとりめぐらされた細い木材が真新しさを放っていて、全体はたしかに巨大なのに前からそこにあったとしてもさほど不思議ではないようなたたずまいなのだ。設計統括の隈研吾と大成建設チームによれば、「東京の特別な杜と競技場をどう調和」させるか(の要請)を一番大切にしたという、“杜のスタジアム”がコンセプト。

 この一週間後、「つつましき巨大な建築」(編集委員・大西若人)、「国立 過去と未来をつなぐ杜」(萩原千秋)という新聞記事の見出しがでていて、新しい競技場の初公開に関する報道が期せずして反語をつないでされていた。約六万の観客席を有する競技場なので、“巨大”であるのは当然だが、それが“つつましい”ということはいったいどういうことだろうか。それはこれまでの建設に至る、紆余曲折した一連の経緯による。しばしば“過去と未来をつなぐ杜”という大義名分が強調されるのも、関東大震災をへた1926年に全国からの寄付で生まれた明治神宮外苑を意識しているからだろう。

 競技場のすぐ隣、中央ドーム屋根から両翼を広げるようにたつ聖徳記念絵画館は、明治天皇葬場跡に建てられた当時のシンボル建築であり、その中に明治天皇功績を描いた日本画40枚、洋画40枚の絵画が納められていることは、意外に知られていないのではないだろうか。

 新競技場の建設にあたっては、国際建築コンペでひろくそのデザインが公募された。そうして2012年11月最終審査の結果、いったんはインド系英国女性建築家ザハ・ハディドの設計案がコンペ当選と発表されたものの、その斬新というよりも軟体動物のようなうねる巨大なデザインは、周囲の歴史的および景観的観点から賛否両論の的となり、最終的に基本設計見積もりにおける巨額な建築費問題が決定打となって、白紙撤回されてしまった。この迷走ぶりは、ハディド設計そのものよりも国際建築デザインコンペ要項の前提である基本構想そのものに不明瞭さがあったことと、最終審査を行った選考委員会のガバナンス機能不全と見識不足にあったと言えそうだが、すでにその記憶は来年のオリンピックを控えて、はるか過去に押しやられてしまっているようだ。このごたごたの後、ザハ・ハディド自身は心労が蓄積したのかはわからないが、新しい建築案を知ることなく、この世を去ってしまう。

 そのザハ・ハディドの設計した建築物を12月初旬、初めて目にすることができた。二度目のソウル行き、市内の東出門にあるトンデモンデザインプラザの近未来的な宇宙船のようなただずまい。映画「ブレードランナー」に描かれたようなネオンサイン輝く高層ビルにかこまれる現代都市のど真中にあらわれた、全身を金属パネルに覆われた巨大なコンクリートオブジェ。もし、この延長のような建築物が、年度末TOKYO空間に出現していたとしたらどうだったろう。高層ビルのたちならぶ新宿西口か歌舞伎町の歓楽街あたりにはふさわしいかもしれないが、やはり外苑周辺の歴史的文脈と緑の多い環境には相いれないものだろうと思う。

  ソウル東大門周辺夜の光景。右側に見えているのがデザインプラザ、通称DDP(2019.12.2撮影)

 16日付の朝日新聞に、ヘリ上空からの神宮外苑をふくむ周囲の象徴的な写真が掲載されていた。画像下方には、灯りのともったぼんぼりのような新国立競技場を見下ろし、ひとまわりも二回りも小さな東京体育館の丸屋根とそこからのびる周囲の街並み、そしてすこし隔てて明治神宮の黒々した杜、そこにはりつくように五十五年前の前回東京オリンピック水泳会場となった国立代々木競技場のつり大屋根が、さらにそのむこうに街並みの先夕焼けに輝く西方には、霊峰と形容するにふさわしい富士山のシルエットがすべてを見通したかのように浮かび上がる。明治・大正・昭和・平成そして令和の時間軸が東京の空間を俯瞰して、富士山へとむかっていた。

 競技場のまわりをほぼ半周して、新国立競技場をひとことで言うなら、これはやっぱり、いろいろあった経緯と建築条件を「巨大なゼロ」思考して“リセット(調停)”した結果であると思った。この光景が出現するまでいろいろとあったが、ひとまずオリンピック開幕を前にして「メイン舞台は整った」し、ようやく「ここから始まる」という意味においても、はたしてこの地の特別な歴史を背景にして将来へと引き継ぐ都市遺産(メガロポリスレガシー)となりうるのか、2020年夏にむけて神宮の杜に巨大なゼロ形状が浮かび上がる姿はとても暗示的だ。 

70年代から旧競技場をみつめてきた老舗ラーメン店。半世紀ちかく時は流れても、二階カウンター席が間近に新競技場を眺められる特等席。その近くには河出書房新社ビル、ビクター青山スタジオがある。


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ほんやら洞と村上春樹の国分寺

2019年12月25日 | 文学思想

 令和の年最初のクリスマス、といういい方も日本ならではという感じがするが、冷え込みながらもよく晴れた一日だった。もうじき夕暮れ、大みそかまであとわずか、明日はさらに冷えそうだ。

 そしていま、山下達郎「シーズンズ・グリーテングス」(1993.11.18リリース)を聴きながらパソコンに向かっている。フルオーケストラによる定番クリスマスソングを中心に鼻から脳天に抜けるような40歳の達郎ボイスがたっぷり聞けるアルバムた。ドウーワップものに加えて、オリジナル発売から10年たった時点での「クリスマス・イブ」英語バージョンも入っていて、この時期に愛聴するにはふさわしいというわけ。イエロー地に金箔文字がプリントされたジャケット表紙を巡ると、よく眺めればなんとサンタ姿のご本人が移っているのはご愛敬以上のものがあって貴重なショット。

 さて、村上春樹をめぐって久方ぶりで訪れることのできた国分寺について記そうとしているのだった。熱心な村上ファンならピンとくるように、この地名につながるキーワードは、“ピーター・キャット”。若き日の作家となる前からの村上春樹が陽子夫人とともに経営していたジャズ喫茶の名称である。  

 WEBサイト東京紅団《村上春樹の世界》によれば、その最初の店は長嶋茂雄が引退した1974年に、まだ早稲田大学生だった村上が国分寺駅南口から歩いて数分のビル地下に開店したとある。都立殿ヶ谷戸公園すぐ隣の角のビルだ。その斜め向かいの国分寺マンション一階には、外観をぴっしりとワイヤープランツに覆われた当時のままの喫茶「ほんやら洞」が営業している。ほんやら洞とは、雪国で子供たちがあそびに作る雪のほこらのこと。その名称がここに残っているのがなんだかおもしろい。

 平日散歩のこの日は、この「ほんやら洞」でのランチからスタートした。窓際の壁側に座った連れが定番チキンカレー、わたしは山椒スパイスのきいた麻婆豆腐定食を注文した。窓から通り越しに殿ヶ谷戸公園の緑が望めていい雰囲気だ。もともとは京都から始まったこのお店のルーツ、70年代カウンターカルチャーの残り香のように、床、壁、天井があめ色にくすんで長い年月を物語る。無垢の木のテーブルや椅子もいまではビンテージものだ。珈琲の香りが鼻腔をくすぐり、ローストされた豆の味がなんとも深くて味わい深い感じ?。その昔、友人が国分寺に住んでいて、何度かこの店の前を通ってもついぞ入ることがないまま過ごしていたが、まさか、令和になってようやく訪れることになろうとは、ね。

 国分寺「ピーター・キャット」は、近隣の学生たちでにぎわったようで、時にはジャズライブも行っていたというが、三年ほどした1977年に千駄ヶ谷に移っていく。ビルオーナー側の都合によるらしく、その辺のくわしい事情は分からないが、作家村上春樹誕生前の揺籃期は、70年代の国分寺にあったというわけだ。学生運動の最盛期、ヒッピーブームにも流されることなく、もともと関西生まれで教師を両親(父親は京都大学卒)に持ち、一人っ子として中流中産家庭に育った村上は、一浪して入った大学をドロップアウトすることもなく七年かけてようやくのこと卒業し、やや鬱屈した気分をどこかに抱きながら、地道な喫茶店経営者として地下室の薄暗がりの中でじっと身を潜めて、自己の将来を懸命に模索し続けていたに違いないだろう。

 ほんやら洞を出て通りを横切り、斜め前の殿ヶ谷戸公園へと歩く。入り口を入ると右手に蔵、左前方には大きなヒマラヤ杉かと思われる樹木が存在感を持ってそびえている。そのさきは大芝生広場に松の木と目の覚めるような紅葉が燃えている。庭の数寄屋風造りの紅葉亭からの眺めがすばらしい。その先の敷地は国分寺崖線となっていて、一気に歩道を下がって弁天池に降りていく。ブラタモリ好みのこの地形には、やっぱり湧水があって池に注いでいるわけだ。秘められた茂みの先の泉の流れとくればこれはもう、M.デュシャンの世界なわけで、隠したようでも二ヤついた表情を相方にからかわれてしまったのは、まあ仕方ないか。少し離れた竹林のむこうには、ラブホテルの看板が見え隠れするはできすぎ!?

 気を直してもうひとつの目的地、藤森テルボー教授のタンポポハウスに向かう。2003年8月13日の新聞記事を読んですぐに探しに出かけて見つけることができて以来、16年ぶりになる。あの野川支流にかかる小さな石橋も健在だろうかと気にかけながら迷い歩くこと小一時間、幾分周囲は立て込みながらも田舎の雰囲気を残し、その公国議事堂の中央を切り取ってゴツクたてたような芝生屋根の不思議な縄文と近代を混ぜたような二階建て住宅と、せせらぎのほとりにはカンナの夏の忘れ形見の枯れた花、そしてそこにならんで掛かる小さな三本の石橋は、まあ変わらずにありましたね。

 なんとも感動の再会、触って撫でて頬ずりしたいくらいで、やっぱり崖の際めぐりとせせらぎをたどっての泉探しは夢中そのもの、じっくりと風景を眺めるのも深呼吸してほのかな匂いを嗅ぐのも大好き! その終点は、ほらねえ、やっぱり吉祥寺と小金井の“武蔵境”だ。

 

武蔵野段丘崖南縁にある殿ヶ谷戸庭園。旧岩崎彦弥太別邸だった庭が絨毯模様みたい。

 国分寺タンポポハウス、春には咲き出すのだろうか? 縄文ロケットか芝生屋根の要塞みたい。

 


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