日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

テアトル・ド・ソレイユ太陽劇団 “金夢島”

2023年11月01日 | 文学思想

 テアトル・ド・ソレイユ、「太陽劇団」の22年ぶりの来日公演“金夢島”を池袋で観る。
 太陽劇団の初来日は、遡ること21世紀初頭にあたる2001年で新国立劇場の招聘によるものだった。そこでこのユニークな多国籍演劇集団の舞台に初めて接し、日本文化とくに文楽の手法を大胆に取り入れたオリエンタル要素の濃い演出手法の舞台に驚かされた。主宰者であるアリアーヌ・ムシュ―キンの存在については、いまも忘れない印象が残っている。彼女自身がロシア人の父とイギリス人母の間にフランスで生まれ、若き日をイギリス・オックスフォードで学んだという、多国籍文化を体現したような存在だ。

 今回の作品“金夢島”は、当初2021年日本初演とのことだったが、コロナウイルス禍のために来日が叶わず、その年の秋11月3日にパリ郊外の劇団本拠地“カルトューシェリ(旧弾薬庫)”で幕を開けた後に、ようやくの来日が実現し、東京と京都での公演に至った。京都での公演は、ムシュ―キンの2019年京都賞受賞が大きな契機と後押しになっていると思われる。
 東京会場は、池袋駅西口公園広場、通称グローバルリングのむこう、巨大なアナトリアム空間を内包する劇場だ。立教大学へと繋がっていくこの都市公園広場は、休日や夕刻ともなると多国籍なにぎわいを増してゆき、その意味ではこのユニークな劇団作品上演の場としていっそうふさわしいと思われてくる。


 ムヌーシュキンの語るところによれば、今回の新作“金夢島”は、彼女が長いあいだ抱き続けてきた日本文化についての限りない「愛情」や「憧憬」を背景にしている。若き日のムヌーシュキンが初めて日本を訪れたのは、いまから半世紀期も遡る東京オリンピック前年、1963年のことだったという。
 それからの50年ふたたび日本への夢が膨らんで、ありったけのオマージュを込めた舞台である。とくに創造上のインスピレーションを得た場所は、なんと新潟県佐渡島の存在だったという。佐渡の能舞台で演じられる祝祭能や文弥人形、民話語り、佐渡を拠点とする芸能集団鼓童の存在と協力が大きかったそうで、公演パンフレット謝辞にクレジットされている点が興味深い。

 開幕直前に掲載された朝日新聞のインタヴュー記事では、日本海の自然・文化を凝縮した佐渡島は、現代が抱えるさまざまな要素が煮詰まった「ブイヨンのキューブ」のようだと語っている。さらには、商業主義の開発脅威や効率優先の経済原則が環境や人間心理に与える影響など映し出されて「世界で起きている大きな問題を語るにはぴったりの場所」だとも。それが今回の「金夢島」の提起するテーマそのものだ。
 もちろん「金」とは、江戸時代における佐渡金山活況の歴史と繋がり、世俗的な栄華や富の象徴でもあるとともにこの世界の幻影をも意味するだろう。

 昼下がりに始まった舞台を二階のバルコニー席から俯瞰する。開演前からプロセニアム舞台の上縁部には歌川広重の「七福神宝船之図」を模した巨大な布絵が掲げられていた。
 やがて客席前方に男が進み出たかと思うと、観客に向かってだどたどしく開演前の注意事項を述べて最後に携帯電話の電源を切るように促した。そうして上手から舞台脇に引っ込んでいったかと思うと、舞台上には病院のベットに載せられた精神を病んだらしい主人公女性コーネリアと守護天使ガブリエルが静かに登場する。コーネリアが見ている夢の中で携帯電話が鳴り、舞台は空想の佐渡を思わせる世界へと変わり、島の市長山村真由美とその右腕である友人安寿や市長秘書が会話する中、対立派の第二助役が矢継ぎばやに登場してくるさまから、次第に物語は多方面へと進行していく。

 全体の舞台空間は主な演技空間となる前方部分と、後方巨大な壁の中心が左右に開閉する扉からむこうの空間に分かれていて、背後には場面に呼応して江戸から明治の浮世絵が投影される。舞台上手には、文楽における御簾内(みすうち)があり、四人の奏者によるさまざまな打楽器を中心とした生演奏がなされ、音響効果音とともに演出効果を高めている。
 そして舞台転換は、そのシーンに登場する様々な人物を演じ分ける役者たちが、たどたどしい日本語も交えて動かす移動車付平台の組み立てによって室内やときには能舞台のようにもなり、島の国際演劇祭に集まった人形劇団、香港からの劇団、市職員からなる“提灯”劇団、アフガニスタン、ブラジルからの劇団の登場に合わせて、目まぐるしく鮮やかな魔法のように変わってゆく。
 劇中、日本人登場人物名が多国籍からなる俳優の身体からわざわざ発声せられると、妙にエキセントリックな印象に聴こえてくる。それは舞台空間の美術装置や漢字、浮世絵などと相まって陶酔に似たような不思議な感覚を客席へともたらすのだ。

 にぎやかな演劇祭と並行して、島にもちあがったリゾート開発計画に絡んだ利権争いの顛末や、島内住民を巻き込んだ市長派、反市長派対立などが合わさり、やがて島全体はてんやわんやの状態に。
 さまざまな対立のあとの最後は、朱鷺なのか丹頂鶴なのかを模した三羽の巨大なトリがゆっくりと登場してどうなるかと固唾をのんで見守り中、全員が島から進み出た海上らしきところで扇子を手にして一斉に舞うことで、この壮大な祝祭劇は大円団となる。
 意表をつくようなそのシーンで流れる曲は、初めて聴いたのにどこか懐かしさでいっぱいの“We will meet again”。「より良い日は巡ってくる。また会いましょう」とやさしく包み込むように甘く歌うのは、第二次世界大戦中、戦士の恋人と呼ばれたイギリスの国民的大歌手ヴェラ・リン。さまざま対立や紛争で混乱し、殺伐混沌とした世界に希望を見出そうとするようにその歌声は響く。このエンディング曲は核戦争を描いたスタンリー・キューブリック監督映画「博士の異常な愛情」と同じでもあり、同時期に戦士とその恋人の再会への希求を歌ったドイツ戦中流行歌「リリー・マルレーン」の隠された主題と共鳴するように響く。

 この世界の現実をありのままに、それぞれの心の中に受け入れるしかない、ということから未来への一歩は始まる。この舞台はいま世界に起きている現実を写し鏡として、多国籍俳優たちによって演じられた「夢幻能」のようなものかもしれない。それはシェークスピアの格言「この世はすべてひとつの舞台、男も女も人はみな役者に過ぎない」につながっていく。

 劇場を出た後、火照った身体と脳みそをクールダウンしたくて、劇場から山手線脇を目白まで歩く。
 西池袋大通りの雑踏から住宅地域に入り込むと、突然といった感じで、都会の夜景をバックにした自由学園明日館の姿が浮かんで現れる。フランク・ロイド・ライトと遠藤新の共同設計によるその建物は、静かに両翼を拡げて、いまにも都会の夜空に飛び立とうとでもしているようだ。


 自由学園明日館(1921年竣工、F.L.ライト&遠藤新 設計)2023.10.21撮影


「椿の庭」とブラザースフォア

2021年05月24日 | 文学思想

 ようやく「椿の庭」を観ることができた。余白のある文字と印象的な写真でレアウトされた二つ折りフライヤーを手にして、いまどき控えめで清楚な印象の美しいデザインに惹かれた。これはいい映画だから観に行こうと思わせるものであって、新百合ヶ丘での上映開始が待ち遠しかった。

 物語の舞台は、相模湾を望める三浦半島葉山の高台、緑に囲まれた古い家屋だと書かれている。おそらく、しおさい公園や県立近代美術館のある一色地区か、葉山公園と御用邸のある下山口あたりなのだろう。このロケーションには、まぶしい陽光に満たされたあこがれのようなものを感じていた。それだけでも見てみようとする動機としては十分過ぎる。
 上田義彦監督による初演出の長編作品、主演は絹子役の富司純子、その亡くなった長女の娘渚役が韓国出身の若手女優シム・ウンギョン。渚の叔母で絹子の次女役が鈴木京香なのは、見始めてから気がついた。
 上田監督はもともと写真家ということで、自然光を活かしたフイルムによる何気ない動植物を写し取った構図、自然なカット割り、人物表情のとらえ方に独特の印影が感じられる。日本の伝統である“陰影礼讃”の暮らしを描くことが基本にあって、脚本そして撮影、編集まで監督によるものだという。実際の四季の移り変わりを写し取った長期にわたるロケなどは、効率を旨とする最近の映画製作手法とは一線を画すものだ。
 映像全体を通しての余白にゆとりの時間が流れて、誇張や押しつけがましさが全くなく、心地よさのなかに生きてゆく歓びと哀しさがにじみ出ているようだ。

 だが、もっとも意外性で驚かされたのは、始まって半ば過ぎのこと。絹子がレコード盤に針を落として、かすかなノイズ音のあとに流れてきた懐かしさあふれるメロディーを聞いたときである。その歌声は西海岸ワシントン大学出身のモダンフォークグループ、ブラザースフォアのもの。「トライ・トウ・リメンバー」は1965年のヒット曲だ。若い時代を回想して思い出を甦らす内容の静かでしみじみとした美しいメロディーとハーモニー。
 絹子はこの曲を聴きながら、亡くなった夫との暮らしの日々を回想しているのかもしれない。すこし唐突ではという印象がしたものの、違和感はすぐに消えて、まるで予定調和のように映像風景と馴染んでいったのは、本当に不思議なくらいだった。

 上田監督へのインタヴューによると、ブラザースフォアはもともと大好きなグループで「音も音楽も、自分の生理だと思っています。素直に感じるものだけで構成されています」と述べている。監督は1957年の兵庫生まれだから、赤い鳥など関西フォーク運動が隆盛を極める中で育ち、その環境の中でアメリカのモダンフォークにもいち早く親しんでいたのかもしれない。「トライ・トウ・リメンバー」は、すこし時代は後になるが、初期のサイモン&ガーファンクルによる「四月になれば彼女は」にも通じるような曲想で、深くこころの底に沈殿して残る。
 それにしても葉山の風光に日本家屋、レコードプレイヤー、ブラザースフォアとは!

 タイトルにある「椿の庭」、最初にシーンで木漏れ日の庭の井戸のなかにいた金魚が亡くなって、その亡骸が椿の花に包まれ、土の中に埋められるシーンがある。まるで終盤の絹子の死と古い家屋の解体を暗示しているかのようだ。したたる緑のなかで椿の花はあまり映ることが少ない印象だが、このあたりの植生から背後にはやぶ椿の林を背負っているのだろう。よく手入れと清掃が行き届き、ハイカラで裕福な暮らしぶりがうかがえる。
 不思議と食べ物の出てくるシーン、桃やスイカを割って食卓で食べるシーンが印象に残る。これに絹子のお茶の教授風景が加わったら、なおよかったのに! 室内調度品と折々の着物の美しさも特筆もの。

 もうひとつの主人公ともいえる、絹子と孫の渚(シム・ウンギョン)が暮らす日本家屋は、庭の視界のさきに相模湾の波間に反射する陽光が望める豊かな環境だ。初夏の雨に濡れたみどりの木々と藤棚、紫陽花の七変化、夏の入道雲が眩しく、夕暮れの陽光がオレンジ色に輝くさまが美しい。
 玄関までは車が入らないという立地、葉山堀内地区の中腹に残された宮城道雄の別荘、“雨の念仏荘”を連想した。また、久しぶりに鎌倉山の古民家蕎麦屋“擂亭”の広大な庭を思い出し、そこからの相模湾を眺めてみたくなった。

夕刻のガクアジサイはまるで線香花火のよう。(2021.5.19 病院通り)

色合いは和菓子の紫陽花そのもの。(撮影:2021.5.18 横浜水道みち)


スクリーンに映された三河湾と蒲郡ホテルの情景

2020年08月04日 | 文学思想

 八月に入って、ようやく関東地方の梅雨明けが宣言された。といっても、いつもと異なる重苦しい今年の夏、例年やかましい程の中庭のセミの鳴き声もいまひとつのようで、あきらかに戸惑っている気配がする。夕暮れに二度ほどヒグラシの「カナカナー、カナッ」を聴いたと思ったら、すぐに鳴き止んでしまった。
 陽光の下、花火のように咲く誇る百日紅の花があちこちの庭先で目に入るようになったし、鮮やかな黄色の大輪向日葵はこれからもうすぐが本格的に咲き出すだろう。遅まきながらの夏がやって来た。

 そうこうしているうちに、暦のうえでは七日がもう立秋にあたるから、2020年の盛夏は、気が付くと一週間ほどで過ぎ去っていってしまうようにも思える。その分、残暑がだらだらと続くのだろうか?これまでさんざん長雨が続いてあちこちで被害の跡を残していったばかりというのに、秋になって去年のように大型台風が立て続けにやってくるのだけはなしと願いたいものだ。 
 
 七月上旬に一泊二日の往復高速道の新潟帰省をしてから、車を十二か月点検に出し終えて、見えずらくなっていた眼鏡を新調したり、健康診断を受けてきたり、友人と久しぶりに再会したりと、わりと慌ただしく過ごしていたのだ。
 そうしたら、仕事からみで新型コロナウイルス騒動のとばっちりを受ける羽目になってしまい当事者にこそならなかったものの、あれこれやり取りに対処する日々だった、やれやれ。もし、この時期に東京オリンピックが開催されていたとしても、それどころではない状態で過ごしていただろう。

 さかのぼるふた月あまりまえに、三河湾蒲郡を訪れたのが夢まぼろしのようにも思える。あのとき高台の滞在先の部屋から、橋でつながった先にこんもりお椀のように茂った木々に覆われた竹島を眺めていた時間の記憶をときおり、繰り出してみようとしている自分がいる。

 東海道線蒲郡から車ですぐ、三河湾を望む丘の上の昭和初期に建てられた楼閣は一階ロビーに入ると吹き抜けに林立する柱と照明、二階の回廊と手すり、見事なアールデコ装飾空間が広がる、時のないホテル。
 海側三階の部屋からの眺めは、正面に歩道橋とつながる竹島が望めるロケーション。そこで午後からの時間をひたすら慈しんで過ごしているうちに気がつけば夕暮れ時になっていた。窓のカーテンをひくと夕闇にうかぶ欄干の灯かりの連なりが大鳥居へ続き、その先の杜は闇につつまれていた。
 翌朝、海岸まで下ると橋のたもとは干潟になるとたくさんの磯鴫が餌をもとめて集まってきている。島にわたって神社に参拝し、外周遊歩道を巡った後にふたたび橋をわたって対岸へと戻る。かつての大旅館常盤館あとには、明治末期築の元医院が移築されて「海辺の文学資料館」が建っていた。

 その外観の佇まいと三河湾の風景が、小津安二郎監督の「彼岸花」に映されている。昭和33(1958)年の松竹映画だから、前回東京オリンピックの六年前のこと、まだ東海道新幹線が開通する以前の時代の物語だ。
 竹島とそこにかかる長い歩道橋の途中で浴衣姿の二人が会話を交わしているシーン、笠智衆と佐分利信のふたりだ。旧制中学の同窓会で、関東と関西の中間地点にあたる風光明媚な蒲郡の海辺にある常盤館を訪れていたときの、朝食のあとの散歩だろう。欄干にもたれた笠智衆のさきに、丘のうえの横長の楼閣全景が何度か映り込んでいた。いまはないボイラー室煙突から煙が上がっているのが見える。
 ふたりは、父親の思い通りに運ばないそれぞれの娘の結婚の行方について、しみじみと語り合っている。いつものことながら世代の違いに時代の違いが透けている。致し方ないと思いつつも、やるせない思いに囚われてどうやら父親の思い込みで娘の将来を左右することはできないだろうということに気が付かされて、なんとか納得しなくてはと思いながら、その落としどころを探って言葉を交わすのだ。

「彼岸花」(1958年/松竹大船/カラー/118分)監督:小津安二郎 原作:里見弴 
 出演:佐分利信、田中絹代、有馬稲子、久我美子、佐田啓二、笠智衆、山本富士子

 7月の末、雪ノ下川喜多映画記念館で映画をみたあとに、ちかくの鎌倉文華館鶴ケ岡ミュージアム(元神奈川県立近代美術館、設計:坂倉準三、竣工1951年)を訪れる。
 白蓮の咲く平家池水面にモダンな“白い宝石箱“が反転して、空とともに映っている。杜と池に囲まれたミュージアムの入り口がかつての正面階段から西側に替わっている。あとから増築された新館は取り壊されて芝生広場に変わっていた。もとの学芸員室だったコンクリート打ち放し建築はすっかり撤去され、今風の飲食スペースへと建て替わっている。

 
 池に突き出した二階部分と一階回廊手摺、スイレンの咲く水面が反射してベランダ天井に映る。鎌倉鶴ヶ丘八幡宮境内ならではの、この情景が好き!

 対面からみた全景、白蓮極楽浄土に浮かぶモダニズム建築が眩しすぎる!


ほんやら洞と村上春樹の国分寺

2019年12月25日 | 文学思想

 令和の年最初のクリスマス、といういい方も日本ならではという感じがするが、冷え込みながらもよく晴れた一日だった。もうじき夕暮れ、大みそかまであとわずか、明日はさらに冷えそうだ。

 そしていま、山下達郎「シーズンズ・グリーテングス」(1993.11.18リリース)を聴きながらパソコンに向かっている。フルオーケストラによる定番クリスマスソングを中心に鼻から脳天に抜けるような40歳の達郎ボイスがたっぷり聞けるアルバムた。ドウーワップものに加えて、オリジナル発売から10年たった時点での「クリスマス・イブ」英語バージョンも入っていて、この時期に愛聴するにはふさわしいというわけ。イエロー地に金箔文字がプリントされたジャケット表紙を巡ると、よく眺めればなんとサンタ姿のご本人が移っているのはご愛敬以上のものがあって貴重なショット。

 さて、村上春樹をめぐって久方ぶりで訪れることのできた国分寺について記そうとしているのだった。熱心な村上ファンならピンとくるように、この地名につながるキーワードは、“ピーター・キャット”。若き日の作家となる前からの村上春樹が陽子夫人とともに経営していたジャズ喫茶の名称である。  

 WEBサイト東京紅団《村上春樹の世界》によれば、その最初の店は長嶋茂雄が引退した1974年に、まだ早稲田大学生だった村上が国分寺駅南口から歩いて数分のビル地下に開店したとある。都立殿ヶ谷戸公園すぐ隣の角のビルだ。その斜め向かいの国分寺マンション一階には、外観をぴっしりとワイヤープランツに覆われた当時のままの喫茶「ほんやら洞」が営業している。ほんやら洞とは、雪国で子供たちがあそびに作る雪のほこらのこと。その名称がここに残っているのがなんだかおもしろい。

 平日散歩のこの日は、この「ほんやら洞」でのランチからスタートした。窓際の壁側に座った連れが定番チキンカレー、わたしは山椒スパイスのきいた麻婆豆腐定食を注文した。窓から通り越しに殿ヶ谷戸公園の緑が望めていい雰囲気だ。もともとは京都から始まったこのお店のルーツ、70年代カウンターカルチャーの残り香のように、床、壁、天井があめ色にくすんで長い年月を物語る。無垢の木のテーブルや椅子もいまではビンテージものだ。珈琲の香りが鼻腔をくすぐり、ローストされた豆の味がなんとも深くて味わい深い感じ?。その昔、友人が国分寺に住んでいて、何度かこの店の前を通ってもついぞ入ることがないまま過ごしていたが、まさか、令和になってようやく訪れることになろうとは、ね。

 国分寺「ピーター・キャット」は、近隣の学生たちでにぎわったようで、時にはジャズライブも行っていたというが、三年ほどした1977年に千駄ヶ谷に移っていく。ビルオーナー側の都合によるらしく、その辺のくわしい事情は分からないが、作家村上春樹誕生前の揺籃期は、70年代の国分寺にあったというわけだ。学生運動の最盛期、ヒッピーブームにも流されることなく、もともと関西生まれで教師を両親(父親は京都大学卒)に持ち、一人っ子として中流中産家庭に育った村上は、一浪して入った大学をドロップアウトすることもなく七年かけてようやくのこと卒業し、やや鬱屈した気分をどこかに抱きながら、地道な喫茶店経営者として地下室の薄暗がりの中でじっと身を潜めて、自己の将来を懸命に模索し続けていたに違いないだろう。

 ほんやら洞を出て通りを横切り、斜め前の殿ヶ谷戸公園へと歩く。入り口を入ると右手に蔵、左前方には大きなヒマラヤ杉かと思われる樹木が存在感を持ってそびえている。そのさきは大芝生広場に松の木と目の覚めるような紅葉が燃えている。庭の数寄屋風造りの紅葉亭からの眺めがすばらしい。その先の敷地は国分寺崖線となっていて、一気に歩道を下がって弁天池に降りていく。ブラタモリ好みのこの地形には、やっぱり湧水があって池に注いでいるわけだ。秘められた茂みの先の泉の流れとくればこれはもう、M.デュシャンの世界なわけで、隠したようでも二ヤついた表情を相方にからかわれてしまったのは、まあ仕方ないか。少し離れた竹林のむこうには、ラブホテルの看板が見え隠れするはできすぎ!?

 気を直してもうひとつの目的地、藤森テルボー教授のタンポポハウスに向かう。2003年8月13日の新聞記事を読んですぐに探しに出かけて見つけることができて以来、16年ぶりになる。あの野川支流にかかる小さな石橋も健在だろうかと気にかけながら迷い歩くこと小一時間、幾分周囲は立て込みながらも田舎の雰囲気を残し、その公国議事堂の中央を切り取ってゴツクたてたような芝生屋根の不思議な縄文と近代を混ぜたような二階建て住宅と、せせらぎのほとりにはカンナの夏の忘れ形見の枯れた花、そしてそこにならんで掛かる小さな三本の石橋は、まあ変わらずにありましたね。

 なんとも感動の再会、触って撫でて頬ずりしたいくらいで、やっぱり崖の際めぐりとせせらぎをたどっての泉探しは夢中そのもの、じっくりと風景を眺めるのも深呼吸してほのかな匂いを嗅ぐのも大好き! その終点は、ほらねえ、やっぱり吉祥寺と小金井の“武蔵境”だ。

 

武蔵野段丘崖南縁にある殿ヶ谷戸庭園。旧岩崎彦弥太別邸だった庭が絨毯模様みたい。

 国分寺タンポポハウス、春には咲き出すのだろうか? 縄文ロケットか芝生屋根の要塞みたい。

 


東洋文庫から六義園へ

2019年06月26日 | 文学思想
 梅雨の合間のウイークデー、駒込の東洋文庫ミュージアム「漢字展 4000年の旅」へ出かける。住まいのマンション管理会社のメンバーシップ対象の招待企画に当選し、ちかくの特別名勝六義園の散策も兼ねてのこと。

 駒込駅は、鶯谷の子規庵から旧古河庭園へとバラを見に立ち寄った5月中旬以来、約1か月ぶり。改札を出てから、こんどは本郷通りを前とは反対側、つまり山手線の内側へ向かって進むとすぐにレンガ塀で囲まれた六義園染井門がみえてくる。そのままマンションの林立する通りの交差点を右折するとしばらくして公益財団法人東洋文庫前に着く。
 文庫創立は大正13年(1924)に溯るが、いまの建物自体はまだ新しくて2011年竣工、三菱地所設計部所員の設計だ。入口前庭横には人工池があって、水中からライトアップされたコンクリート柱がに二本たっていて池の水面が揺らぎ、柱の印影を映している。さりげないが、なかなかに凝ったエントランスのつくりだ。
 扉の中に入ると、すぐにミュージアムショップがある。その奥がミュージアム入口だから、来館者はかならずショップの前を通る導線になっている。ここには岩崎家ゆかりの小岩井農場製お菓子もあり、そのほかのオリジナルクラフト製品もさすがに目配りがきいて、いいものばかりが揃っていて欲しくなる。

 ますは、二階講堂で普及展示部運営課長の池山氏による旧東洋文庫の由来から始まって、今回の展示構成の概略と見どころについてのレクチャーを聴く。駒込周辺の岩崎家の広大な敷地である旧大和村や文庫建物の変遷など興味深い。
 それが終わって、いよいよオリエントホールと呼ばれる展示空間へ。「名言は言語の壁をこえる 翻訳された世界の文学」と題されたコーナーの冒頭は、竹取物語からはじまる。そして、あのアーサー・ウェイリー訳「源氏物語」(1925-33 ロンドン刊)、その英訳本に出会ったおかげて日本文学の道に進んだドナルド・キーン氏による、初の英訳本である近松門左衛門作「国戦爺合戦」(1951年 ロンドン刊)を目にして、しばし立ち止まる。この二月に94歳で亡くなられたキーン氏のご自宅はここから戻って、駅の反対側のさきを行った旧古河庭園のすぐ近くで、お墓もちかくの真言宗のお寺にある。
 目の前のガラスケースの中にあるのは、物理的に紙についたインクのシミ!にすぎない活字の集合体だろう。しかし、そこに記された内容を読みとることができれば、このように人類史にのこる書物として、文化遺産として、幾多に影響を与え続けるのだ。

 二階へ上がると、日本で最も美しく価値ある本棚と言われる「モリソン文庫」の書庫空間がコの字型三層にわたって大きくひろがる。圧倒的に林立する人智の宝庫、広大な書籍世界にしばし沈黙する。
 その背後に回り込む様に様々な展示が続く。なかには甲骨文字が刻まれた紀元前の動物の骨片や、江戸時代の万葉集写本があり、そこには新元号「令和」のもととなったとされる一文が載っている。
 昭和のトピックとしては、大判の「大漢和」辞典全館(大修館書店)が並べられていた。編者諸橋徹次博士はふるさと新潟出身の大偉人。それにしても半世紀にわたっての大偉業達成、その気力とあくなき探究心にあらためて感動する。出版社もすごいが、博士を援助した三菱二代目岩崎久弥もエライ!
 下って時代は異なるが、三浦しをんの小説「船を編む」(2011年)を思い出す。

 そんなわけで、二度目の東洋文庫、堪能させてもらいましました。このあとは、しばし疲れた目の保養にちょうどよい、すぐちかくの緑豊かな名園「六義園」へと足を運ぶ。戦前に都に寄贈されるまでは、三菱財閥初代の岩崎弥太郎別邸の一部だった。
 陽射しはまだ高く蒸し暑さが残るが、閉園まで一時間余りある。つつじやサツキは終わってしまったが紫陽花が見頃だろうか。やがて夕暮れにむけて風はそよぎ、都会のなかの回遊式築山泉水の大名庭園をたっぷりと楽しめるだろう。



 近松門左衛門作「国戦爺合戦」、D.キーン訳(1951年 ロンドン刊)

ドナルド・キーンとE.J.サイデンステッカー

2019年03月15日 | 文学思想
 それはことし如月のころ、24日。その日早朝、日本に帰化した著名な日本文学研究者ドナルド・キーン氏が96歳で天寿をまっとうされたことは、まず、養子キーン誠己さんのブログ「日々 ドナルド・キーンとともに」において、深夜23時16分に発信されていた。

 入院先の台東区の病院から北区西ヶ原の旧古河庭園に隣接した自宅マンション畳の間に安置されたご遺体のそばには、白いバラとカスミ草の供花が映り、マリア・カラスのCDが映っていた。マリア・カラスは、ジェシー・ノーマンとともにキーン氏の好きなオペラ歌手であったようだ。
 翌25日朝刊の一面には大きく訃報が、三面には評伝が掲載され、日本文学研究と海外紹介における輝かしい業績を伝えていた。続いて26日と27日の文化・文芸欄にも追悼記事が掲載され、26日は作家平野啓一郎の寄稿文、27日は親しい著名人の談話取材記事である。日本文学研究者としては破格の扱いで、それだけ日本を愛し、日本人のメンタリティに深く訴えかけて、多くの日本人に愛されたからなのだろう。2011年東日本大震災後の帰化申請と日本国籍取得のニュースがその契機となったことは、一般的には間違いないだろう。
 その人柄は謙虚でつつましくエスプリに富んでユーモアがあり、人懐こい笑顔の素敵な方だったようだ。それは、孫ほど歳の離れた平野氏がひたすら称賛する「ユーモアと笑顔 憧れだった」とリードされた追悼文からも十分すぎるほど伺える。

 今月に入ってからも6日文化・文芸欄で、養子のキーン誠己さんが養父の思い出について取材をうけた記事が掲載された。旧姓が上原、68歳の誠己さんは、「(父は)我々以上に日本を楽しんだ」と晩年の日々を語っている。それによれば、亡くなる五日ほどまえに「You are everything for me」と発したのが、息子への最後の言葉となったという。十二年間をともに過ごした新潟市生まれの元文楽座員で古浄瑠璃三味線奏者の存在は、日本文化を象徴するものであったのだろう。ブログ「日々 ドナルド・キーンとともに」をたどってみると、飾らないおふたりの日々の暮らし、旧古河庭園の散歩やちかくの霜降商店街での買い物や人々との触れ合い、最後となった2018年3月のニューヨーク行きの様子などがスナップとともに拝見できで、ほのぼのとしたあたたかい気持ちになる

 アメリカ出身の日本文学研究で想い出したのが、2007年に亡くなったエドワード・ジョージ・サイデンステッカーだ。1921年生まれだから、キーン氏の一歳年上である。ともにコロンビア大学で学び、教授となった。調べてみるとふたりとも戦時中は、米海軍の日本語学校で学んだことも共通している。戦後、サイデンさんは東京大学、キーンさんは京都大学へと留学して日本文学研究を深められたというが、はたしてふたりの関係はどのようなものであっただろうか? わたしには、しばらくのあいだ、おふたりの区別がうまくつかずに、失礼ながら混同してしまうところがあった。
 サイデンさんは上智大学で教えていた時期もあったが、コロンビア大に戻ったあと、晩年は来日して台東区湯島のマンションに暮らしていた。江戸の情緒と下町と落語を愛し、永住も考えていうことだが、春の不忍池を散歩中に転んで頭部を強くうち、四か月後の夏のおわりに亡くなってしまった。そのときの日本人の反応は、キーンさんのときほどではなかったように思える。
 生前に受けた栄誉も、キーンさんは長生きされた分、さらに幸運な出逢いを得た感もあるが、ふたりには明かな差があるだろう。私生活では、おふたりとも生涯独身を通された(サイデンさんは断定しないが)。生まれはコロラドの田舎がサイデンさん、生粋のニューヨーカー、キーンさんはハドソン川に臨むブルックリン地区が生家だから、もともとの都会人なのだ。

 亡くなった2007年の11月、ゆかりの上野精養軒で行われた偲ぶ会では、キーン氏も弔辞を読まれたことがわかる。キーン氏によれば、同じ日本文学でもカバーする分野がちがったという。でも、日本文学に開眼したきっかけのアーサー・ウエイリー訳「源氏物語」は同じであるし、永井荷風、谷崎潤一郎を評価するのもいっしょ、違いがあるとしたら、夏目漱石と川端康成はサイデンさん寄りで、三島由紀夫と石川啄木がキーンさんか。こらはもう、好き嫌いの相性のようなものと言ったらいいすぎか。やっぱり、なにかと比べてみたくなるのは仕方ない。

 そこで勝手な空想だが、おふたりがもし健在なら現代の作家の代表として、カズオイシグロは両者が好み(じっさいキーン氏は高く評価している)、村上春樹はすくなくともキーン氏はあまり好まず、サイデン氏は、それなりに評価するのではないだろうかと思う。
 おふたりは、しばしば上野界隈ではとんかつの老舗「ぽん太」で会食されていたという。どんな会話をされていたのだろうか。


 この時期はちかくの校庭片隅に、西洋水仙の群生。大柄な花輪のうすクリーム色が清々しく。(2019.03.15 撮影)


 近所の庭先、白木蓮レンレン、青空に映える。いよいよ、春本番! 


カズオ・イシグロと村上春樹

2017年11月24日 | 文学思想
 「文学界」12月号に、今年のノーベル文学賞受賞により一気にスポットが当てられた日系イギリス人作家カズオ・イシグロインタビュー「村上春樹と故郷・日本」(ただし2006年の採録)が掲載されている。
 文芸誌を手にすることなどめったにないのだが、その内容に目をとおしてみると、本題に即した村上春樹そのものや日本についての言及は多くはなくて語られていることの中心は、作家自身についておよび自身の文学創作論が主体である。それでもこの雑誌を手にしてしまったのは、編集者のつけたタイトルが秀逸(同世代人気作家と日本出身の英国籍作家の対比)で、そこに惹かれたというのが正直なところだ。

 それよりも興味を引いたのが、77年生まれでイシグロと同じ長崎市出身の批評家酒井信による評論、「カズオ・イシグロの中の長崎」である。それによれば、初期のイシグロ作品「遠い山なみの光」「浮世の画家」は、幼少の記憶に残る長崎を舞台にした作品である。
 そんなわけで、先月のはじめにブックオフでたまたま見つけた代表作とされる「日の名残り」を読み終えたばかり、次にどれを読もうか迷っていた末の一冊は、デビュー作である「遠い山並みの光」とすることに決めた。それに加え、実際に本屋の店頭で並んだ表紙をながめていて、もっとも手軽に読みやすそうな短編集「夜想曲集ー音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」もあわせて購入した。こちらは読みやすくもあり、翻訳された魅惑的なサブタイトルに気をひかれ、めくったページには音楽曲タイトルや作曲家、アーティストの名前が目に入ってきて、村上春樹との比較にはちょうどいいかもしれないと判断したからでもある。

 今週末、その早川文庫版『夜想曲集』の一篇「降っても晴れても」を読みながら、小田急線車中の車中の人となる。こと短編については、村上春樹「東京奇譚集」(2005年)や「女のいない男たち」(2014年)などのほうがおもしろくて上手いのではないかと思う。これまで読んだ限りでは、イシグロの短編は翻訳にもよるのか、登場人物の造形が通俗的で十分な魅力を感じることがないまま、その物語の展開がやや平板に終わってしまうきらいがある。なんだかノーベル賞と話題になるにしてはちょっと物足りないのだ。イシグロは若いころミュージシャン志望だったと述べているが、標題の「夜想曲」には肩すかしを食わされた感がしている。もうすこし読み進める中、来月のノーベル賞ウイークになれば、世の中の盛り上がりで個人的な印象も違ってくるのだろうか。話題に乗せられるとはそのようなことかもしれない。

 さて、今年はあまりノーベル賞の話題に乗らなかった気がする村上春樹氏、カズオ・イシグロの受賞をどのように思っているのだろうか? ともにボブ・ディランのファンでもあるときく(ビートルズはさほどでもない?)。

 
 店頭にずらり並んだ“ノーベル文学賞”受賞の帯つき文庫本
 
 そうこうしているうちに終点の新宿駅へと到着すると、外気はひんやりと澄んだ冬晴れの空だ。小田急の改札をぬけて新宿駅西口ロータリーから摩天楼を眺めると、また少し青空の見える範囲が減っているような気がした。それだけ高層ビルが増えたのでななくて、自分のなかの良く知っている西新宿の高層ビルの風景は、今世紀に入った記憶のままだからだろうと思う。

 この西口でもっとも印象的かつ決定的な心象風景として作用した建築物は、正面にそびえ立つモード学園「コクーンタワー」で、はじめて対面したときの印象は、突然出現した近未来の異物のようでびっくりしたのを覚えている。そういえばこのモード学園、名古屋駅前にも「スパイラルタワー」の名称で圧倒的なインパクトでそびえたっていた。

(2017.11.20書き出し、11.24初校)


 

黄昏時、みみずくは森に還る

2017年10月13日 | 文学思想
 ここ春に読み終えていた小説を最近になって再読した。そのさいに思いめぐらしたことのいくつか。
 
 先立つ五月、村上春樹の最新作小説「騎士団長殺し」を通勤帰りのブックオフで探すことにした。行ってみると、はやくも店頭に並んだそのリサイクル本は簡単に見つけることができた。ムラカミのような人気作家になると新作の発表自体が大きな話題となり、その話題を共有すること自体が社会現象の一翼となる。新潮社の宣伝も破格なら書店店頭での扱いも平置きが当然で、時代と共振するとはこういうことなんだと実感させられる。そのうち実際に読みとおす人は、はたしてどのくらいの割合なのだろう。
 その本は思ったりよりも地味な印象の装幀で上下二巻1000頁あまりの大作、話題の余韻のうちに読むのも同時代に生きる者の特権とばかり、やや前のめりになって数日のうちに興味深く読み終えていた。

 物語の舞台となる主人公が住む借家は、小田原郊外山中の高名な日本画家アトリエという設定で、ほかには箱根ターンパイクから伊豆スカイラインさきの高原にある相模湾を望む高級老人養護施設、それに都内青山、広尾、四谷、新宿御苑といったあたりがでてくる。フィックションに実在の地名が出てくる効用は、その地理を承知していればいっそうのこと想像力が刺激されることにある。わたしがお気に入りのご近所、小田原厚木道路なんてややマイナーな高速道路を中古のカローラワゴンで主人公と友人雨田が行き来しているのがおもしろく、思わずシンパシーを感じてしまう。

 冒頭、三十六歳の主人公で肖像画家の私が結婚生活に行きづまり妻とは別居、いよいよ離婚の危機を迎えて、あてどの無い東北・北海道の旅に出たことの回想からはじまる。戻ってから小田原に引っ越してすぐに講師をしている絵画教室の生徒である人妻たちとの出逢いがあり、そんなこと現実にあるのかなあと思いつつも、いとも簡単というか当然のように情交に至ってしまう。今回はいつになくその情景がくりかえし描かれていて、おまけに少女愛のような心情もでてきて(とくに幾度も執拗なくらい胸のふくらみに言及している)、これは読者サービス?と思ったりもする。でも妙にこちらの深層心理に迫ってくるようで、これは困ったな、素直にハルキマジックにハマッってしまったのだろうか。とりわけお互いのそれまでの喪失感を埋めるように求め合うかのような性愛行為については。

 このひと、ムラカミハルキの心理は、やはりフロイド派というよりもユング派のようであり、夢とか象徴といったものが物語の主題をなすようだ。例によってクラシックとポピュラー音楽曲もちりばめられ、さながらこれまでの村上ワールド要素全開といった様相なのだ。作者の心理は80年代の若いままピーターパンのようで変わってはいない、むしろ原点に還ってきたかのように思えるのだ。
 
 謎の絵画から飛び出してきた幾人かのキャラクターに、主人公向かいの丘の豪邸に住む謎の人物、免色渉など物語の展開にともなって次々と意表をつくような人物が登場してきて、まとまりがなさそうな気もしていたが、最終的にはそれらの登場人物の絡みの中で飽きさせない。ちなみに村上春樹は、安西水丸によるとみずからなかなか素敵な抽象画を描くのだそうだ。
 最初からえんえんと描かれている謎の祠の下の石室は、子宮を象徴して描れているのか、主人公が夢の中での愛するユズとのめくるめくような交歓のはてに産道をぬけての試練の末に再生し、ラストの女の子の誕生につながっていると読めるが、これってあまりに安直にすぎるだろうか。
 それにしても、主人公が完成した「雑木林の中の穴」の絵を謎めいた人物の免色に贈呈してしまったことはどうにも附におちない。ひょっとして免色は主人公の私の半分(影あるいは地下二階の無意識の世界)なのかもしれない。それは、作者の村上自身の二面性をも深く投影したものではあるまいか?
 小田原郊外山中のアトリエは、震災後の火事によって焼け落ちてしまって、謎の絵画も喪失してしまったという。女の子の誕生によって新しく再生した私とユズとムロの三人家族は、2011年の震災をへた日々の暮らしのなかで、ささやかな幸せを慈しみながら平凡に暮らしているのだろう。

 蛇足ながら、あのお守りのペンギンのストラップ、どうしてもJR東日本のSUICAキャラクターを連想してしまう。やはりペンギンは現世のお守りにふさわしいとしたら、屋根裏のみみずくはどこに行ってしまったのだろうか。みみずくは古代からの叡智の象徴とされているから、無意識の深相であるところの黄昏の森に還ってゆくのだろう。
 

この世の果てまで~THE END OF THE WORLD

2016年12月31日 | 文学思想
 2003年にリリースされた竹内まりあ「ロングタイム フェイバリッツ」は、彼女が生まれ故郷出雲でのなつかしい日々を振り返ったときに蘇ってくる思い出の1960年代ポップスをカバーした異色CDである。彼女の音楽バックボーンを知ることのできる幅広い選曲で構成されたデスクの最後は、「この世の果てまで~THE END OF THE WORLD」(1963年)で締めくくられる。いっぽう、新潟高田を故郷とする少年はこの曲を、上京して1980年代の大学生の頃に、カーペンターズのカバーではじめて知った。
 そして、村上春樹が36歳の時に発表した長編小説「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」(1985年6月)の目次の先のタイトル頁裏側に、この「この世の果てまで~THE END OF THE WORLD」の歌詞の一節が引かれているところから、四十章にわたる「世界の終わり」とードボイルド・ワンダーランド」のふたつの物語の旋律が螺旋構造のように交互に展開しながら始まる。

 この小説本を発表時手にしてから、じつに31年ぶりにようやく読み通すことができた。思わせぶりのタイトルから、作者の脳内細胞と呼応してこの曲が何らかのインスピレーションを与えたに違いないとしたいところだが、本章のなかには直接的にモチーフとして「この世のはて」の歌詞は登場はしない。その代わりに通奏低音の深い響きをあたえているかのような印象だ。

 その歌詞は、以下のように綴られている。

 なぜ、太陽は輝き続けるの?
 なぜ、波は浜辺に打ち寄せるの?

 なぜ、鳥たちはさえずり続けるの?
 なぜ、空の星は輝き続けるの?

 彼らは知らないのだろうか
 世界がもう終わってしまったことを

 朝、目が覚めると、不思議に思える
 なぜ、何もかもが同じなのか
 わからない、私にはわからない
 なぜ、毎日の暮らしが続いているのか?

あなたがさよならを告げた日に、世界は終わってしまったのに


 なにも変わらない日々の中、この世の終わりはある日突然やってくる、という失恋、存在世界が喪失してしまう歌なのだ。

 小説の中「ハードボイルド・ワンダーランド」篇の主人公の私は「やれやれ」が口グセのすでに安定した家庭生活は失われてしまっている、35歳の離婚経験者である。図書館のリファレンス係の女の子と青山のアパートで関係を結ぶかとおもうと、レンタカー受付嬢にも気を寄せ、17才のピンクスーツの娘とは優柔不断な会話を繰り返す。単行本の装幀がピンク色なのは、この太った少女のスーツと下着の色から来ている? ハードボイルド編には、さらりとであるが、主人公の性欲望にまつわるメタファーがしばしば登場する。 

 ラストで、日比谷公園から車で銀座通りを港方面に向かうというから、晴海か夢の島あたりか。そこで三人の女の子のことを思い浮かべながら、カーステレオカセットテープでボブ・ディランの古いロック・ミュージックを聴き続ける。「風に吹かれて」から「激しい雨」のメロディーが唄われる。世界の終わりに、ディランの歌はどのように響くのだろうか? この引用に呼応したかのように、2016年ノーベル文学賞には、ボブ・ディランが選ばれた。
 私の深層心理とも思える「世界の終わり」篇に出てくるのは、僕とその影の関係の物語である。両手で空気を吹き込んで鳴らす手風琴とふりしきる雪、冬の情景がしばしば登場する、壁に囲まれた閉じられた世界の物語。一角を持つ羊とその頭蓋骨は、ユング的夢の世界の象徴だろうか。最後に僕は彼女とこの壁に囲まれた世界に残ることを決心して、相棒の影とは決別をすることになるのだが、それは新たな何を意味しているのだろうか? 
 
 私たちの生きる世界は、自然から離れて複雑さを増す一方で、効率性と引き換えに息苦しさは増すばかりだ。もしかして、僕は「意味喪失の困難な時代」を生きていこうと決意しているのだろう。ラストに書かれた以下の記述は、雪国に育った者には、ことさら冬のものさびしい情景がありありと脳裏に浮かぶ。その次にやって来るであろう、希望の春がやってくることを待ち焦がれながら。

 「降りしきる雪の中を一羽の白い鳥が南に向けて飛んでいくのが見えた。鳥は壁を越え、雪に包まれた南の空に飲み込まれていった。」 (40 世界の終わり ―鳥― )
 

偶然に満ちている世の中のなにか

2016年06月16日 | 文学思想
 赤瀬川原平さんの“最新作”、偶然と夢日記「世の中は偶然に満ちている」を読んだ。

 亡くなられて一周忌にあたる、2015年10月26日初版第一刷発行の奥付があって、編集が松田哲夫氏、装幀は南伸坊氏、尚子夫人と親しい交友、仕事仲間が追悼を込めたであろう遺作集。赤瀬川さんが四十歳の1977年に始まり、2010年1月まで続く日記が大部分だが、偶然小説と称する短編二編もあり、雑誌に掲載されたエッセイが終章となっている。
 
 偶然日記の部分には、日常生活を中心とした交友関係などプライベートなことが書かれているが、あくまでも読者が期待するであろう出来事について公開性を前提としたものが選ばれているのであろう。赤瀬川さんの家族関係や夫婦関係の機微といったあまりに生々しい直接的なものは、その奥先か余韻のようなものとして想像の範囲になるのは致し方ない。それでも、この偶然日記、赤瀬川さんの脳裏に移った記憶の世界として、とてもこころに染み入るものがある。
 とくに、ご自宅のある東京郊外、まほろ市周辺の記述は、実在の場所を知っている当方にとっては他人事ではなく、同じ体験を共有したかのような気にさせてくれる。日記の後半には、しばしば私鉄駅の名称が出てくるが、その駅は当方もよく利用する身近な駅で、それならば偶然にその中の駅ビルデパートの中にあるスカイレストランで食事中の赤瀬川さんに出会ってみてもよかったのに、と思ったりもする。

 この駅から赤瀬川私邸まではタクシーでほんの10分くらいのはずだ。そうするとそのルート自体、わたしも何度か車で通ったことがあり、沿道の様子がありありと目に浮かぶ。そうか、赤瀬川さんそうだったのかと。赤瀬川さんはその近辺、当初の建売住宅“白い家”から、尾根道沿いに歩いて十五分くらいの“ニラハウス”(1997年竣工、フジモリ氏設計のアトリエと茶室付住宅)へ引っ越しており、その尾根道もまたよく知っている。大山丹沢が望めた西側にIBMグランドがあった。その尾根道周辺で、愛犬のニナや愛猫のミヨは拾われたそうである。
 表通り坂道の反対側の丘陵には、かつて著名な研究者を輩出した三菱化学生命科学研究所があった。小田急線からもその丘の上に見え隠れする白い建物が望めて、“生命科学”というコトバに時代の先端を感じて、中で何が研究されているのだろうと興味津々だったのを覚えている。隣接して、かしの木山自然公園があり、こちらには古代鎌倉道が抜けているのだった。なかなか、おもしろいロケーションの範囲が赤瀬川さんの生活圏、日常散歩の場所だった。実在の中学校名、利用しておられたでろうスーパーマーケットの名称も登場してくると、これはもう一気にご近所人としての親近感が増してくる。

 偶然小説二編のうち、『舞踏神』は土方巽の死を描いて、なかばノンフィックションに近く、白い家時代のものだろう。ここにも尾根道やこどもの国の小動物園のことがでてくる。また『珍獣を見た人』は、ニラハウスでのできごとで、尚子夫人がでてくるし、ベランダに出現した野生タヌキの写真も添えられていて、ちょうど我が家の中庭にもタヌキとおぼしき動物が出没したばかりだったので、こちらはその偶然を楽しんだ。
 
 ひとつだけ、個人的な“発見”を付け加えると、赤瀬川白い家のある殖産住宅が開発分譲した建売住宅街は、1980年代前半に一世を風靡?したトレンディーテレビドラマ「金曜日の妻たちへ」シリーズのロケ地となった場所でもあった。ドラマ設定では、大和市中央林間の新興住宅地とされていたそうだが、実際のロケ撮影自体は赤瀬川さんの白い家のちょうどむかいあたりで行われたはずだ。
 この偶然には、赤瀬川さんもびっくり、だったのではないだろうか、あるいはまったく関心がなかったのか、ハタ迷惑だったのか、いや柄にもなく?やっぱり男女の機微を描いたドラマには関心があってたまには視聴していたのか、ご本人に伺ってみたかった気がする。